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一度した失敗を、二度は繰り返したくはない。
西岡くんほど真面目でも真剣でなくとも、丁寧であることは出来る。
家に帰ってすぐ始めた問題の分析は、次の日には着実に結果を出した。
ゆっくりと。出したい答えのために、必要な情報を集めること。
集めた情報を持って、答えに繋がる式を立てること。
公式を使うときには、なぜその公式を使うのかを理由建てて。
思い浮かんだことは全部ノートにメモをした。
もう悔しい思いはしたくない。吉野ハードなんて誰も求めていない。
当然一日で全部の問題を説明し切ることはできずに持ち越し。
その次の日も。さらにその次の日も。一週間かけても、まだ足りなかった。
けれどお互いに段々と慣れてきたのは、幸いなことであったと思う。
西岡くんには、日本史の教科書を読んでくるように宿題を出したり。
生物の問題集をやってくるように。また俺が作った暗記ノートを覚えるように。
他の教科も同時進行できるようになったのは、予習が既に済んでいるからだ。
これだけでも大きな進歩であるといえるのではないだろうか。
そして、俺にも余裕が出来てきた。
一時、書きだめていた分の更新に留まっていた小説も、執筆再開である。
残るは、夜の領域を駆け抜けていくだけ。だけど、少しだけ予定変更。
本当は一人で越えて行く山道に、共に歩いていく仲間を追加してみる。
授業中にノートに落書きしながら考えていた、親友キャラの登場である。
大きな流れにこそ影響しないけれど、それまで一人だった少年への影響は大きい。
夜の住人であるその仲間は、決して有能な旅の仲間ではないけれど。
キツさが最高点に増した最後の旅路を、励ましあいながら二人は進んでいく。
暗くなると予想していたその行程も、若干ながら明るいものとなった。
これは間違いなく、いい変更であったと自負している。
勿論。そのモデルとなったのは、西岡くん。西岡浩太。
唐突に出したくなったので、出してみた。
主人公である俺に比べるとそこまで直球ではないが、イメージは変わらない。
願望が混ざって友達にしてしまっているのは、ちょっと後で後悔しそうだ。
いや別に仲良くしたいわけではない。遠慮はしないでほしいと代言させた程度だ。
だからセーフ。きっとセーフ。大丈夫だよ。
更新ペースを極端に変えない限り、10月上旬に終わるだろう。
10月1日からのテストが3日に渡るから、大体同じ程度。
……その頃には、西岡くんとの勉強会も終わりになっている。
まだまだ遠い未来だけど、なんだか少し残念に思えた。
9月14日。金曜日。
帰りのSTで、待ち望んでいたテスト範囲が配られる。
どの教科も俺が予想していた範囲と極端に違うことはない。
精々が教科書1ページの違いで、俺の対策にも影響はなかった。
ただ問題となったのは、対策の進み具合である。
最初に予定していたよりも、数学に時間がかかっている。
丁寧な教え方を心がけていることもあるが、少し困った。
まだ生物も残っているし、できれば何とかしたいところである。
最後の確認は、時間があればあるほど良いに決まっているのだ。
「ふぉー!マジ!あり!えねぇ!
俺の!時代が!来ちゃってる!」
「……」
妙にテンポのいい雄叫びをあげるのは、例に漏れず西岡くんである。
若干目立っているのが気恥ずかしくもあるが、俺も喜んでいた。
……このハイテンションの原因は、彼が握るプリントにある。
水曜日にあった、数学の小テスト。
それなりに難しかったが、既にテスト対策を始めた俺には敵じゃない。
――――そして。西岡くんにとっても、同じことが言えたらしい。
今日返ってきたプリントを持って、雄叫びを上げているのだ。
答案右上に書かれた点数は、10点満点中9点。
この点数に驚いたのは、彼とその友達たちと先生。
…………西岡くんと仲良くしている人の、俺以外の全員である。
一瞬カンニング騒ぎになったものの、すぐに収まった。
クラスの中から、俺が教えているからという声が上がったのが原因である。
もの凄く目を見開いた先生は、割とあっさり納得して謝罪した。
そんな経緯があっても、喜べている西岡くんがすごい。
俺だったらとりあえず飽きるまで拗ねる。丸一日は拗ねる。
そしてテンションが上がり、やる気も上々の西岡くんと、数学の続き。
一回結果が出てくると、自分の判断にも自信が持てるようになる。
昨日までよりテンポが上がって――――それでも、まだ少し遅かった。
スピードそのものを上げるよりも、欲しいのは時間。
時間さえあれば、幾らでも喜ばせてあげられるのに。
敬老の日と土日を除けば、あと残っているのは9日。数学と生物をやって終わりだ。
それだけでは、テスト対策の基盤を作っただけに過ぎない。
…………本当は、答えにも気づいているけど。でも怖くて言い出せない。
「……西岡くん、すごい頑張ってるよね」
「吉野くんの説明がわかり易すぎるんだって!
俺、問題解くのにどんな数字が必要だとか考えたこともなかったし」
判ったら、ちゃんと解けるようになるのは努力の証だ。
勉強がキリのいいところまで終わり、帰る前の短い休憩で思う。
この一週間でテスト範囲に関しては、間違いなく力をつけてきている。
一度理解するまで説明すればそれを活かせるのは、教えていて楽しい。
……だからこそ、時間のなさが惜しい。
「――その、さ。吉野くんは、大丈夫なの?」
「……?」
躊躇いがちの視線と、曖昧な質問。
何事かと悩んで下を向いていた顔を上げると、そこには心配そうな顔がある。
まさか、悩んでいたことを心配されたのか。
そう思って言葉の続きを促すと、申し訳なさそうに喋り始める。
「……俺の勉強に毎日付き合ってくれて。
自分の勉強とかする時間、ないんじゃないかなって」
……言われてみれば。違うというのは、無理があるような。ないような。
確かにいくら余裕が出来てきていると言えど、その殆どを小説に使っている。
自分のためと意識してのテスト勉強なんて、していない。
まあ元々おざなりにしかしないし、教えるためには勉強をしている。
自分自身としては、寧ろいつもよりも勉強しているぐらいだ。
「……教えることが、凄く勉強になっているから。
それよりも、時間の足りなさの方がずっと大きな問題」
「へ?……時間?」
「そう。もう9日しかない。
これじゃ、数学と生物しか教えられない」
テスト対策と言ったら、あれだ。
出そうな場所を重点的に、逃さず網羅していかなければならない。
それなのに、今の有様といったらどういうことだ。
現社や日本史のどこを覚えるかとか、古典と英語の演習とか。
もっともっと色んなことをやらせてあげたいと思っているのに。
俺の言葉がどう伝わったのか、西岡くんは指折り日数を数えている。
計算が合わなかったのか、携帯を取り出してカチカチカチ。
指が止まって、横に座ったままの彼の視線が画面と俺を行き来する。
何かを言い出そうとして、そして言い出せなくて困っているような。
……俺も、それが何かを知っていて言い出せないような。
多分、言い出すとしたら俺の方がいいのだろう。
時間を取らせているのは、頼んだ西岡くんの方である。
だからこそ彼から言い出すには、凄く難しいのかもしれない。
それでも自分から言い出して断られたらと思うと、俺には口に出せなかった。
逃げ出すように、小さく一言。
「――お、れは。土日も、割と暇だよ」
「…………う、うん」
卑怯っつーか。普通に俺の駄目さが心に染み渡る。
結局西岡くんに全てを任せているだけである。
当の西岡くんも、誘い待ちとしか聞こえない言葉に、戸惑っているようだ。
そりゃそうだ、この流れだったら誘われると思っていただろう。
自分のコミュ障っぷりにいっそ笑えてくる。ダメダメだ。
それでも“どうするの?”と視線で聞くだけである。
頬をぽりぽりと、困った顔の西岡くんの視線は俺と中空をウロウロする。
勉強教えてと頼んできた最初の時のように、遠慮せずに言ってくれればいいのに。
いつもと違って耐えるのが難しい沈黙は、絞り出される声で終わった。
「……俺も。俺も土日は暇だよ」
や ら れ た。
カウンターである。先手を取った以上、今度は俺の答える番だ。
ああ、でも。ここまで行くと何か、直接誘うのも難しい。
何が難しいって、自分から教えに行くとか、凄く押し付けがましいというか。
俺の希望としては、やっぱりお願いされたい、そんな受身な感じ。
チラチラと、俺の反応を待った視線が向けられる。
先ほどとは完全に立場が逆になって、俺から誘うしか無くなって。
――――ピーンと来た。電球が閃いた。これなら行ける。
「――――ひ、必要なら。
君が必要なら、土日も勉強教えるけど」
「……お、お願いします」
目を合わせずに言った言葉に、小さく返事が返ってくる。
少し緩んだ雰囲気に、ちらりと視線を横にやると、バッチリ目が合った。
へへ、とだらしなく緩んだ口元を見て、なんだか馬鹿らしくなる。
軽く肩をすくめてみせると、恥ずかしそうに照れ笑い。
……こんなに緊張する必要は、最初からなかったのかもしれない。
照れくささを誤魔化すように、ふと思いついた疑問を口にする。
「――土日祝日って学校空いてたっけ」
「校舎には、入れないんじゃないかな……」
むう。それは、ちょっと困ったことである。
土日も教えるとなれば、場所が問題になってくる。
定位置となった図書室が空いてないとなれば、場所を探さなければならない。
……学校以外、家の外で勉強したことなどないのだけど。
図書館なら、自習室使えるのかな。どうなんだろう。
「……図書館とか?」
「うーん……自習室だと話せないしなぁ」
話せないのか。それだと教える難易度が急上昇してしまう。
筆談はできるかも知れないが、明らかに効率は下がる。考慮にすら値しない。
かと言って俺は他に場所なんて知らない。今回は本当に西岡くん任せである。
期待を込めて、西岡くんの反応を待つ。
「……吉野くんの家の近くって、チェーンのファミレスある?」
「ある、けど。……電車代勿体無いよ。俺がこっち来る」
「や、でも。それは」
「往復780円」
「…………すいません」
お金の問題は、やはりとても重いものである。
俺は当然定期券があるので問題はないし、わざわざお金を使う必要はない。
俺にとっては毎日通ってる距離なのだから、疲れたりもしないし。
……テストのためだけに、数千円払うとか、流石に馬鹿らしい。
ああ、どちらにしてもファミレスで少しはお金を使うのか。ちょっと億劫。
「俺は、ここら辺を良く知らないから。西岡くんに任せるよ」
「ファミレスはあるんだけど。……良かったら、家でいい?」
「…………ご家族に、御迷惑でなければ?」
――いや、まあなんというか。ファミレスでないのはむしろ嬉しいが。
人様のお宅にお邪魔するのなんて、小学生以来とかなんだけど。
ご家族の方に粗相とかしそうで、なんかちょっと躊躇われる。
「ああ、ウチは昼間は両親いないから。
共働きで、しかも休日は平日だから弟だけだよ」
「……兄弟いるんだ」
「2人ね。そいつらも外に遊びに行くから静かだよ」
なら、お邪魔しても特に問題はなさそう、か。
時間さえ考えれば、ご迷惑をかけずに帰ってくることもできるだろう。
……兄弟か。一人っ子の俺としては、なんだか不思議な存在である。
歳の近い家族がいるということが、すごく想像しにくい。
西岡くんの弟なら、多分ものすごくいい子なんだろうなとは思うけど。
「……うん、いいよ。あ、でも場所が」
「駅まで迎えに行くよ」
「…………何時に行けばいい?」
「君が来れる時間で、メールしてくれたらいつでも」
……むむむ。任されると、本当に困ったものである。
いっそ、この時間に来いと指定されたら、考えなくても済むのだが。
流石にそこまで決めさせるのは、逆に申し訳ない気分にさせそうだ。
なら、お互いに遠慮をしなくても済む時間と言えば。
「――――午後1時、とか?」
「あ、了解。駅で待ってるから」
食事を早めに済ませて家を出ればいい時間。
これなら、いつもよりも長い勉強時間が取れるし、悪くないはずだ。
西岡くんも、特に問題はなさそうに、すぐに了承してくれた。
…………これで俺は人様のお宅で、勉強を教えることが確定したのだ。
今日の宿題は、生物、数II、数Bで終わってない場所を片付けること。
何度か出した課題であるから、西岡くんから今日一日で終わるという宣言も出た。
昇降口へ降り、自転車を引いてきた西岡くんといつも通り、駅まで一緒に帰り。
…………そして恒例の、来た道を逆戻りする後ろ姿を見てから、俺は帰った。