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金曜日の授業後も、同じ場所で勉強を教えた。
宿題として出しておいた、サブノートの穴埋めも確認。
持っていた赤のプラシートの予備を渡し、3日に一度はやるように伝えた。
これで多少は点数が改善することだろう。
そして、やらせたのは英語の予習である。
古典と同じように、本文は教科書から拡大コピーをノートに貼り付ける。
訳文を本文と比較できるように、逐語訳で並べるのも変わらない。
ただ古典と違うのは単語は調べさせずに訳させたことである。
判らない単語はアルファベットのまま、訳文の中に入れておく。
名詞であるのなら、そのまま。動詞なら○○する(した)と。
代名詞は全て指示先へと矢印を繋げさせ、単語の塊を意識させる。
最後に、知らない単語を調べさせ、赤でその意味を単語の下に書き込む。
これも古典同様“勉強しなければ出来なかったこと”を後から判るようにするため。
それさえ判るなら、現在の実力でも解けるのだということを意味している。
古典と違って、全訳されたものがあるわけではない。
いや、俺が訳したもので良ければなくもないが、それでは意味がない。
そのため、一から訳すことになったので古典ほどは進まなかった。
今回のテスト範囲だと予測されるまでは進まずに、あと少しというところ。
後は一人でもできるだろうと思って家でやってもらうことにした。
そして、次は宿題である。
土曜日と日曜日がある以上、かなりの勉強時間が確保できるという西岡くん。
ならば、一体何をさせるかというところ。
俺の中では、既に答えは決まっているようなものであった。
「――――数学?」
「問題集を、順番に。教科書は見てもいい。計算過程はできるだけ細かく。
ただ、判らない問題は考え込まずに次に進んでいい」
「自分で考えなくていいの?」
「いい。あと、書いたノートは俺が一日借りるので。
貸せないノートにはやらないで欲しい」
「……判った」
勉強してくるようにと伝えたのは、数学の問題集である。
それも、授業でやってない範囲を含めて、教科書をみてやるように。
わからない問題は、寧ろ積極的に飛ばすようにと伝えた。
前回のテストを見る限り、出来ていないのは複雑な問題だけである。
解き方を理解しきっていないだけだと思うし、教える問題を浮かばせるためだ。
ただ、これに関しては一つ大きな問題がある。
簡単に、率直に言えば、俺も勉強してこなければならない。
複雑な問題を教えるに当たっては、当然自分でも解けなければ駄目なのだ。
俺にとっても、この土日での宿題が生まれたようなものである。
内心うんざりするが、テスト対策の先取りだと思えば我慢出来なくもなかった。
帰り道。俺たちの通う高校の最寄駅までの歩き道。
校門を出て、普通に歩いて10分を切るほどの道のり。
いつもなら早足で通り過ぎ去るその道を、今日は二人で歩いていた。
もう一人とは、当然西岡くんのことである。
図書室で「じゃあ」と言って立ち去ろうとしたところ、付いてきた。
いや下駄箱が同じなのだからそれも当然なのだが。
その時に離れられれば良かったのだが、何故かそうもいかなかった。
靴を履き替えている時に「吉野くん電車?」と聞かれたのである。
通学方法のことだとすぐに判ったので、小さく首を縦に振り。
「そっか。ちょっと待ってて!」
と言われたのを、素直に待っていたのがいけなかった。
自転車置き場まで走り去った西岡くんは、自転車を引きながら歩いてきた。
駅までついてくよ。そうニコニコ顔で言われては断りようもない。
画して、10分間の道連れができたわけである。
「――いや、もうなんか、スッゲーよ。
あっという間に予習終わっちゃうもん」
テッカテカである。キラキラしている。
なんか、こう。RPG的には聖属性みたいな。アンデット即死である。
地味に俺も聖属性弱点だったようだ。精神力がすごく削られている。
歩きながらも、上機嫌に俺を褒める西岡くんは、なんかもう太陽のようである。
その熱量は俺の体力を一気に溶かす。灰になる。
「……君が真面目だからだよ。
俺は手伝っているだけ」
「そんなことないし!」
あるし。そんなことむっちゃあるし。
実際俺は何もしていない。予習を見ていただけなのだ。
勝手に集中して、勝手に努力したどなたかの成果でしかありえない。
それなのに褒められるというこのプレッシャー。
すげえすげえと言われるのも、内容によってはこんなに胃に来るのか。
「なんか、俺にもできる気がしてきたもん。
こんなの中学以来だし」
「……出来るよ。ちゃんとやる気もあって、努力してるもん」
俺とは違って、だけど。俺よりもよっぽど真剣だ。
鼻歌交じりだったり、ゲーム片手に勉強する俺とは比べてはいけないレベル。
ちゃんと目の前のことに向き合えてるその姿が、目と心に痛い。
いわゆるこれぞしにたいむ。爆発すればいいのに、俺。
胃と精神をすり減らしている俺に、西岡くんはへへっと笑った。
なんだか照れくさそうなそれは、これもまた爽やかで浄化される。
ぽわぽわぽわと俺の存在が希薄になっていくのを感じる。
やっぱり俺は邪悪な生命体だったのかもしれない。普通に胃が痛い。
「……なんか、出来る人に褒められるとか、照れるな。
俺。頑張るから、見捨てないでくれよ?」
「見捨てないよ。頑張っているから」
ここまで不憫な子を簡単に見捨てられるわけ無いだろう。
努力家で真剣なのに、ここまで要領が悪いだなんて悲しすぎる。
諦めて、投げやりにならない限りは、俺にできることはしていきたい。
……まずは、数学の問題集からか。頑張らなきゃ……。
この会話の数分後、駅前で俺たちは別れた。
階段を上る際ふと後ろを見ると、今まで来た道を戻る西岡くんの姿。
――――なんとも言えない気分になって、俺はため息をついた。
土曜日、朝。
土曜日は早く起きる理由がないから目覚ましも鳴らない。
昨日は、数学をやろうかと思った挙句、ついパソコンの前に座ってしまった。
というかパソコンが机に載っているのが悪い。電源付きっぱなのも悪い。
小説を書き途中なのも悪い。したがって、俺は悪くない。
結果として、数学は手付かずである。仕方がない。
「――――道春くん、今日のご予定は?」
「丸一日勉強でござる」
なので、予定を聞く母さんにもそのように答えるでござる。
わざわざ遅く起きてきた俺にも朝食を用意してくれる、優しき母でござる。
年甲斐もなくフリフリエプロンなのは、軽くスルーするで候。
ちなみに父は土日は仕事でござるから、俺が起きるよりも早く出ているでござる。
なにせ今は8時半。普段なら遅刻の時刻でござる。
「宿題でも出てるの?」
「ん……まあ。
でも、試験勉強、みたいな?」
自分で自分に出した宿題なので、宿題というにはちょっと。
とはいえ自分の試験勉強なわけでもなく、これもまた微妙な気分。
故に、言い切れずに曖昧かつ最後に疑問符が付く答えになる。
そんな言い方に疑問を持ったのか、母さんも小さく目を見開いて俺を見た。
「……テスト期間じゃ、ないよね。珍しいね。何かあったの?」
「何もないわけではないけど……」
平時に勉強するだけで何かあったのと言われるとは。
間違いなく、日頃の行いのせいであろう。
……それはともかく、何もないわけではないけど話すほどでもない。
というか、話すと妙に長くなりそうだから、濁す。濁る。
「――むう」
「……人に勉強教えなきゃいけなくなったんで。その予習」
「……女の子?…………女の子?!」
「ちゃいますなぁ」
すると、ヨソジオーバーが唸りだしたので、諦めて付け足し。
若干年齢を考えて欲しいところだが、そういう人なので仕方ない。
勝手に妄想し始めるのも、自分で言った言葉に驚くのも更に仕方ない。
だが、俺が女子と事務的会話以外で話せるような人間だと思ったら大間違いだ。
妙なテンションが拗れて、不審人物になるのが目に見える。
なぁんだぁとつまらなさそうに息を吐いて、頬杖をついた。
普段からあまりにも暇なのか、ずっとテレビの前に座っている人だ。
楽しそうだと思うことにはすぐに食いつくのが、困る。
今回も、その頬杖をついたまま、静かな瞳で俺を見ていた。
面白さは損ねたものの、興味そのものは失っていなかったらしい。
「……なんでござるか」
「……人に教えるのに、勉強が必要。試験勉強みたいな。
女の子ではない。……同級生の男の子かぁ」
「…………そうっすね」
なんというか、よく人の話を聞く人ではある。
下手に会話をしていると、普通に推測してくるので困る。
……察しがいいと言えば美点。物分りが凄くいいのは助かる。
だからか、俺はほとんどこの人に怒られたことなどなかった。
――ふと、思い浮かんだことを試しに聞いてみることにした。
「時に、母君」
「なんぞー」
「あなたは俺を、殆ど怒らない人であるけれど。
理由をお聞きしても宜しいだろうか」
母さんが俺を怒ったことなんて、人生で数える程である。
小さい頃は、諭すように言い聞かせてもらった記憶があるし。
それなりに大きくなってからは、割と放任主義的な感じ。
勉強しろと怒られたのは、テスト前日にRPGのRTAに挑戦した時ぐらいである。
……西岡くんはどうなのかなと。あの点数は怒られるのかなと思ったから。
「えー。だって怒るの面倒くさいもの」
「……」
割と真面目なつもりの質問にこれである。
だめだこいつ……じゃない、うん、なんというか俺の母親である。
もっとまともな答えを期待していたのだが。
そんな視線で抗議すると、母さんは姿勢を正して俺に向きなおす。
“すべっちまったぜテへ”みたいな表情はご愛嬌。
「……怒られるのって、誰だって嫌じゃない。
君も、ちゃんと言い聞かせれば判ってくれる子だし」
「勉強しろとか、キツく言わないのは?」
「言わなくても、怒る要素少ない点数を取ってくるもの。
ある程度以上の点数は、本人のやる気の問題になってくるでしょー?」
だから、私からは言わないと締めくくる母。
良くも悪くも自己責任。信頼をしてもらえているということだろう。
構ってもらえなくて寂しいと感じるのは、恵まれてる反面かもしれない。
ならば、もし。口を出さなければいけない点数であるのなら?
「……もし、俺が赤点スレスレだったとしたら?」
「……そんな経験がないから想像になるけど。
多分、なんでそんな点数になるのかを聞くかな。怒る前に」
勉強する気になれない、とか環境が合わない、だとか。
周りからは大したことなくても、あなたにとっては問題かもしれないよね。
などと言って、これで満足かと母さんはドヤ顔で俺を見る。
――裏返せば、問題がないなら点数を取ってくるという前提。
これはあくまで“俺”が当事者であった場合の話でしかないとすぐに判った。
微妙に参考になりにくいなあと、俺も苦い顔になる。
すると母さんは、「まあその理由は」と前置きをして。
「言ってやる子なら、私も言うつもりになるけど、違うし。
……せめて、今のゲームしてる時間の半分を勉強して欲しいかな、ぐらい」
「……考慮はします」
「検討の結果、今回の話はなかったことに?」
「なりました」
コントである。家だとお馴染みのフレーズだ。
俺も母も人の話を聞くだけ聞いて従わないので、こうなる。
父さんがいると、ちょっと冗談が通じにくいから、もう少し真面目だが。
……とにかく。俺と西岡くんの前提が違いすぎて、意味が薄い。
俺としては、西岡くんが真剣な理由を探りたかったのだが。
もしかしたらご両親の方が理由かな、なんて思っていたりなんかして。
あの真面目さが、自身の性質から来てると信じきれない俺である。
まだ厳しいご両親にもの凄く怒られていると考えたほうが、納得がいく。
……それもまた、あの明るさと繋がらなくて、違うとは思うけど。
「うーん。道春くんは一日おうちでー。
パパさんはいつもぐらいに帰ってくるのねー」
「……母さん、暇なんだね」
結局。母さんは、俺から無理に話を聞こうとはせず。
俺から質問がでないと見ると、また頬杖をついてテレビを見始めた。
それを見て、食器を流しに入れたら、俺はキッチンから離れた。
土日を費やした、短期決戦の始まりである。