3
午後9時。夕飯と風呂を済ませ、部屋に戻った。
短い髪を自然乾燥に任せながら、机のパソコンに向かう。
夜だけ付けているエアコンも、汗をかかない様に全力運転。
これから始める黒歴史生産作業を円滑に進めるためである。
外付けHDD、勉強フォルダ→授業フォルダ→英訳の中に隠したtext。
「大物」と名前を打たれたそれを、かちりかちりとダブルクリック。
textファイルとしては、218kbと名前の通り大容量のそれ。
その中に書かれているものは、当然のように勉強のものなんかではない。
10万を超える文字の羅列は、ある意味で意味なんかない。
これはただの自己満足で、ただの自己顕示欲の現れだ。
決して現実の何かに繋がることはなく、時間の浪費に過ぎない。
それどころか、いつかこれを書いたことを後悔する日がくるだろう。
程度の低い妄想と、未熟さが織り成す黒歴史。――所謂、ネット小説である。
書き始めたのは、夏休みが始まって間もない頃だ。
課題など手渡されたその日から手がけて、休みが始まる前に終わった。
やらないほど不真面目でなく、コツコツやるほど真面目でもない。
生まれて今まで協力して勉強などしたことなく、この夏も同じであった。
気が向いている間に終わらせる。いつものことである。
休み明けのための予習も、やり始めて一週間で飽きた。
時間のかかる英語と古典も、今の授業速度なら後2ヶ月は持つだろう。
これ以上進めると、実際の授業の頃には内容をあらかた忘れているはずだ。
かと言って、受験勉強を始めるほど、現実を見つめるつもりもなかった。
さて困ったのが、ついにやることが無くなったということ。
部活に所属などしておらず、遊ぶ友達もいない。
ゲームに逃げ出そうにも、資金不足と母さんの生暖かい目が怖い。
あと一ヶ月、何をしようと悩んで、悩んで、悩むのにも飽きた。
もうそろそろ自分の根気のなさに呆れてきた頃に、俺は見つけた。
日課となっていたネット巡回、その中にはネット小説も含まれる。
楽しみにしている小説の作者が、後書きで高校生なのが判ったとき、閃いた。
“自分語りうぜぇ!”……じゃなくて“素晴らしい暇つぶしだ”と。
俺に書けるのかと不安にもなったが、論ずるより為すが早い気がした。
小説そのもののコンセプトは“俺にも書ける”だ。
宗教や、政治や、戦争。そんな難しいものをとにかく避けた。
学校ものも恋愛ものも、俺の薄っぺらい人生経験では無理だ。避けた。
ホラーやコメディも、雰囲気を描ける技術なんて持ち合わせていない。避けた。
初めに現実から逃げて以降、色々避けた結果がファンタジーである。
それも、ジュブナイル。少年の成長物語。ハッピーエンド。
手垢が付きまくっているからこそ、お手本は幾らでもあるわけで。
既存のものを組み合わせ、それを俺にしか出来ないまとめ方をする。
要は、俺が読んでみたかったものを作ればいいんだ。
転生はしない。憑依もしない。
チートはなくて、逆チートもない。
戦いなんて書けないから、魔王を倒したりなんかしない。
ハーレムも奴隷もエロもグロも百合もケモもMCもなく。
ただひたすらにジュブナイル。
そう考えて、大まかな流れだけで書き出した。
現代日本から召喚された少年が、旅をするお話。
短い朝と長い夜で分けられた世界で、人々は生きるために結界を作った。
結界は長い夜を一つの地域に集めることで、他の場所に朝と昼を創りだす。
だけど、その結界は一年に一回貼り直さなければならない。
そのためには夜を貯める宝玉を、夜の領域に持っていく必要があった。
朝と夜の住人は宝玉に触ることはできず、夜の住人は朝の領域では生きられない。
そのため、どちらでもない誰かとして呼ばれた少年の旅が始まる。
イメージしたのは近世ヨーロッパ、ヴィクトリア朝が始まる50年ほど前。
産業革命の早期、都市に人が集まる理由が出来た頃。
少年は、王国から工業都市、農村地帯、そして僻地の山岳地帯へと旅を続ける。
戦いはなく、魔法もなく。ゆっくりと、ひたすらゆっくりと。
旅の中で出会った人と積んだ経験が、辛くなる旅で成長を実感させていく。
山道や野宿にも慣れ。携帯食にも、そのままでは飲めない水にも慣れた。
主人公もイメージしやすいよう、身近なものをモデルにした。
というか俺だ。俺にとっての判りやすさを重視して、俺だ。
苦手なことはないけど、何にも真剣になれない、人付き合いの苦手な少年。
真剣に生きる人を見て、生きることの重さを知って。
“僕”は真剣になることを学んでいく、そんな感じのおはなし。
大体、ライトノベル一冊分くらいを目標にした。
具体的な文字数で言うと、10万字を少し超える程度の文量だ。
夏休みが終わった今になってみると、大体10万9000字。
後は夜の領域を駆け抜けて、結界を貼り直せばエンディングである。
夏休みのあまりの暇さが生んだ、形となった黒歴史。
黒歴史、と自分で自覚しているのは、抑えが効かなくなったからだ。
最初は書き上げるだけが目標だったのだが、書き始めると案外進む。
2万字、3万字と積み上げられていく文章を、誰かに評価してもらいたくなった。
いやいやいや。黒歴史黒歴史。しかし、妖精さんがいたずらをした。
画して投稿されたこのおはなしは、ちょっとだけ読者もついて感想も来た。
「古臭すぎて、逆に新しく感じる」
「幼い文章が児童小説らしくて雰囲気にあっている」
……うん。多分きっと、好評だと言っていいのだろう。
素直に、褒めている、と受けきれないのは俺が神経質だから。
――ともかく。ここまで来たのだから、どうにか完走したい。
続きを書き始めるべく、借りてきた針葉樹林の本を開こうとして。
……つい数時間前、夕方にあったことを思い出した。
「(――――勉強、教えて?)」
「…………………………oh!」
やっば。まっじヤッバ。これぱねぇすよ、ヤバさ。
話したこともなかったクラスメートに、これから一ヶ月勉強を教える。
どうやって、なにを。何も考えてなかったことに気がついた。
唐突に冷えた体がぎしりとなる。とりあえずクーラーの風量を緩くした。
「……どうしよう」
いや、本当に。どうしたものなんだろうか。
あの時は、何故かできると無責任にも思ったが、とんでもないことである。
衝動的に引き受けてはしまったものの、人にものを教えたことなんて、ない。
対多数とは言え、教えるプロである先生でも駄目であったのだ。
これはちょっと、小説を書いてる場合ではないかもしれない。
「断れ……るだろうけど」
正直、口約束である。それも相手は無理難題だと理解している。
それこそ、これは受けたときと同じように、俺の良心の問題があるだけだ。
この際、クラスでの立場とかは考えない方針で行く。
勝手な思い込みかもしれないが、断ったからといって仕返しなどないだろう。
多分、いい人。多分、善人。多分、物凄く凹むだけだと思う。
「……」
――うん。やれる限りのことはやりたい。
一度引き受けたのだ、無理でない限り責任を果たしたい。
というか、断った時に、ものすごく凹みそうで、断りきれない気がする。
俺も流され体質である。これはきっと異世界召喚にも巻き込まれるに違いない。
ならば。……俺に出来ることをちゃんと考えていかなければ、不誠実な話だ。
時間が無限にあるわけでもないし、内容もある程度は絞らなければならない。
「……全教科」
そうだ。全教科教えるといっても、目標はあくまで定期テスト平均点である。
範囲はある程度決まってくるのだから、対策さえできれば簡単な話だ。
対策に必要なのは、時間とやる気。やり方は効率の違いにしか影響しない。
テストまで、日数も日々の時間も十分あるだろう。
平時に毎日3時間勉強できるのだから、やる気がないわけでは、ないのだ。
ならばそれこそ効率性の問題が、問題の全てなのかもしれない。
……古典。英語。今日やっていたのは、古典だったか。
確か予習に時間が取られてしまって、他の余地がないと言っていた。
ならば、普段どうやって予習をしているのかを確認する必要があるだろう。
毎日3時間も古典と英語の予習だとしたら、どれだけ効率悪いって話だ。
その調子では、他の教科のテスト対策なんて手が届かないだろう。
でも。もしも、他の教科が手が届かないわけでなかったら?
時間が足りてない以外の、もっと大きい理由があるかもしれない。
もしも、数学を前の単元から教えるとなれば、時間が間に合うわけもない。
客観的に、何ができないのかを判断できればいいのだが。
だからといって、診断することなんて、実際に問題を解かせるぐらいしか。
どうやってそんなものを用意…………しなくてもあるじゃん。
「――――テスト」
テストだ。定期テスト。
定期テストの平均点が目標なんだから、それを確認すればいい。
どんな問題が答えられて、どんな問題が答えられていないのか。
回答の癖は、そのまま勉強の癖を推し量る材料になる。
それさえ判れば、ある程度方向性が纏まってくる、はずだ。
「なら」
とりあえず、テストで何が出来ないか、勉強の癖を把握すること。
それと同時に、予習に時間が掛かりすぎるのを解決すること。
幸いながら、俺は夏休み中の予習の貯金がある。
聞かれても答えられると思うと、少しだけ安心感が湧いた。
俺の予習の仕方をそのまま教えて効果があるかは判らないが、やってみればいい。
とにかく、テストを確認しなければ、話が進められない。持ってきてもらわないと。
「……メール。連絡しなきゃ……メール?!」
なんだと。メールだなんて、恐ろしい。
ベッドに投げ出されていた、ネットにしか使わないガラケーを手に取る。
受信履歴にずらりと並ぶメルマガと“母さん”の文字。他はない。
家族以外にメールなんて、いつぶりのことだろうか。
定期的にしていたのは中学以来な気がするが、気にしてもしょうがない。
震える手を抑えながら、不器用にかちかちと文面を作り、送った。
夕方、別れる直前に、交換したアドレス。
西岡くん、西岡浩太くんに向けられたメールは送信フォルダに入っていった。
送ってから、何か書き間違えはないかなと心配になって確認。
そもそもこんな時間に送ったのだ、夜にごめんとでも添えれば良かった。
ああ、なんでこんな俺はダメなんだろうと思ったとき、手元で携帯が震える。
From.西岡浩太
Title.了解
こんばんわ! テストちゃんと持ってくよ^^
引き受けてくれて本当にありがとう これからよろしくお願いしますm(__)m
一瞬、煽られているのかと思った。本気でビビる。
そういえばちょっと前に、“^^”は一般的に煽りではないと聞いたことがある。
その時は、まさかそんなと思っていたが、実際に目にすると怖い。
というか、それを除くとシンプルな文面なのになんだか爽やかで怖い。
リア充怖い。イケメン怖い。バクバク鳴る心臓で、返事を送る。
To.西岡浩太
Title.(non title)
こちらこそ宜しく。またあした。
どっと疲れた。あまりにも素っ気ない文章は、更なる返事の拒否である。
これ以上メールをやり取りしていたら、多分心臓がはじけて消える。
正直、こんな調子で人に教えることなんてできるのだろうか。
どんな教え方をしても、伝え方が悪いのではそれも意味がなくなってしまう。
……やめよう。できる限り、ゆっくり考えてものを話せばいいだけだ。
全部は、明日から始まること。今日はここまでにしておこう。
「――――とは言っても」
簡単に切り替えられるほど、器用な性格でもない。
開いたまま放り出されたtxtファイルの続きを書くような気分では無くなった。
今日は、続きを書けなくても仕方があるまい。
予約更新の手続きだけをして、俺はtxtファイルを閉じたのだった。
……代わりに、ネットの巡回を始める辺り、やる気が無くなっただけである。