エピローグ前編
10月9日、火曜日。久しぶりの図書室。
多くの人でざわついていた少し前とは違い、静かな空間に戻った。
椅子の殆どは埋まることなく、人の姿もまばらである。
当然その中にも“定期テストのための”勉強をする姿はない。
定期テストが終わり、週が明けたと同時に後期が開始した。
前期の成績が返ってくるよりも先に、日常の続きが始まる。
そんな中で、後期の始まりは重要視されることはない。
暦と制度上の区切りよりも、もっと明確な区切りがあったからだ。
後期と前期の境目には、丁度前期末テストがある。
テストは受けるだけで終わらない。その結果がつきものだ。
先生たちが採点をした答案が手元に戻ることこそが、季節の区切りである。
――そして。区切りを迎え、季節は秋に変わろうとしていた。
まだ暑さは残っているが、日中の時間は少しずつ短くなる。
台風や雨が来る毎に地面が冷えて、これからは涼しくなっていくだろう。
夏服から冬服への制服調整期間も始まり、校内でも半袖と長袖が混ざっていた。
そういう俺も長袖のYシャツを用意したが、今日は開襟シャツのままである。
……隣りでテーブルに伏している西岡くんも、同じく半袖姿だ。
「…………」
「…………」
一緒にいる人が喋らない以上、俺も静かにしている。
……西岡くんは無言で頭をテーブルに預けて、小さな呼吸音をさせていた。
子どものようにはしゃぎ疲れて、先程からそうしたままだった。
先ほどまで騒ぐだけ騒いで、滅多に注意しない司書さんに怒られて。
その原因となったものが、今は俺の手元にあった。
プリントの束である。つまりは、テスト用紙。
テスト後最初の土日と体育の日の三連休で、先生たちは頑張った。
前期の成績を出さなければならないので必死にもなるのだろうか。
その生徒と先生の努力の成果が、今の西岡くんが倒れている原因である。
一言で言えば、よかった。西岡くんがテンションを使い果たす程度には。
もう少し詳しく表現すれば、先生たちがカンニングを疑うレベルになった。
クラスメートは驚愕し、何が起こったのかと騒ぎになった。
俺も西岡くんの努力が結実したことに満足し、うんうんと何度も頷いた。
――大体元の二倍弱と言えば、そのスゴさの一片でも伝わるだろうか。
平均ジャストの古典を除いて全てが平均点以上。
数学2つと日本史と現社に引き上げられた結果、全科平均が76点。
文句なしに、学年平均よりも高いと言える数字となった。
大幅に点数を上げた中で、特に目を引くのが数学である。
前回36点から86点の数学II。32点から83点の数学B。
時間をかけて教えた分、2倍以上の点数となって返ってきた。
後半の応用問題にも、ちゃんと取り組めているのが誇らしい。
……教えたことが成果が出たことも嬉しいが。何よりも。
西岡くんの努力が結果に繋がるものであると証明できたのが、嬉しかった。
それ以外の教科も決して悪くはない。
元々高かった現国は78点。26点の伸びである。
ほぼ平均になった古典の66点と英語の68点も、勉強の成果がよく見えた。
特に対策をしていなかったリスニングも、33点と平均強。
答案を見る限り、基本的な知識は十分に回答してある。
少し踏み込まれると安定しなくなったり、回答時間に難があるのが欠点か。
それもこれからの努力次第で改善できるものだろう。
72点の生物、84点の日本史、82点の現社もかなりの成長だ。
範囲を大きく洩らすことなく、丁寧に勉強したのが判る。
記述や語句説明に弱いのは、俺の対策が不足していたからだろう、反省。
総じて“その場で考えること”を苦手にしているのに、ようやく気付いた。
もっと経験を積めば、また違う結果となっていたことだろう。
「――――うはー」
「あ、起きた」
寝てねえよ、と西岡くんは頭を起こして顔を振る。
だけどそのすぐ後に目を擦っているあたり、大差はない気がした。
西岡くんが休憩をしている間に、テストを確認していたのだけれど。
採点ミスも見当たらないし、点数にも内容にも満足した。
不安そうに、俺の手元の答案と、俺を順番にチラリと見てくる。
「……その」
「うん、いい出来だと思うよ。君の努力の成果だよ」
言われなくても、聞かれなくても。
この状況で何を聞かれてるのか、言うべきなのかを判らない訳がない。
実際いい出来だ。最初とは比べ物にならないし、成長の余地もある。
数学IIなんかは前回の俺よりも高いくらいだ。素晴らしい。
そう褒められた西岡くんは、にへらと表情を崩した。
「吉野くんのおかげだよぉ。森たちも成績上がったんだぜ。
聞いてはないけど、神田さんたちだって多分そうだよ」
「……それでも、頑張ったのは君だからね。結果が出てくれて嬉しいよ」
これで、極端に自信がなくなるということもないだろう。
勉強の仕方さえ間違えなければ、これだけの点数はちゃんと取れるのだ。
今回積み上げたものを基に続けていけば、まだ上を目指せるはず。
それだけの内容であったし、それだけの西岡くんの努力であったと思う。
――――先週は、怒涛の一週間であった。
結局テスト期間といえど、俺はそのまま家に帰ることは許されず。
森くんたちと神田さんたちに捕まって、勉強会の講師をやらされた。
まあ、家に帰ってもやることは勉強だから構わないけれど。
みんなの努力に、俺も答えられる分は頑張っていようと思ったり。
それ以前に教える側なのに、一教科でも負けるのは癪だと思ったり。
比較対象が出てきてみれば、案外俺も負けず嫌いだと判った。
逃避エネルギーが発生することもなく、珍しく真面目に勉強をした。
いつもならゲームに逃げて、流石の母さんにも呆れられるというのに。
テスト終了日には、みんな今までにない手応えだったらしく。
開放感と達成感におかしくなった森くんたちに、カラオケに引きずられた。
人生でそう経験したこともないことだが、騒がしくて楽しかったように思う。
……同時に、隣の部屋の神田さんたちにも巻き込まれたのはアレだが。
好き勝手に色んな曲を歌う森くんたちの部屋。
ほぼ無意識でアニゲソング縛りをしている神田さんたちの部屋。
時折普通の曲だと思えば、タイアップとかちょっと古いJポップとか。
普通のアイドルソングを期待した森くんたちが、戻ってきた時には死んだ目。
何事かと俺も見に行ってみれば、歌詞がなくても台詞を入れてたり。
当然のようにオタ芸をしていたので、見なかったことにしておいた。
……そして。採点が早い先生だと、次の日の授業には答案が返ってきた。
それに一喜一憂した西岡くんが騒いで――いや、一憂は少しもしていない。
ひたすら喜んではしゃいでそれに巻き込まれて。
本当に、あっという間に一週間が過ぎた。28日がなんだったのかと思うぐらい。
……騒がしくて、疲れたけれど。それでも……きっと楽しかった。
「――それにしても、すげえよな。吉野くんの成績。
俺たちに教えてばっかだったのにさ」
「…………人に教えるのも勉強だから、かな」
そう。俺の成績も別に下がってはいない。
現状維持と点数上昇で、合計してみれば今までよりも上。
“なんとなく”と適当な勉強で解いてた問題と、真面目に向き合ったのだ。
自分自身で思っていたとおり、俺にとっても十分実のある事だった。
「……平均90点台か、遠いな」
「西岡くんなら、大丈夫だよ」
なんだかんだで、生物日本史現社英語の4教科が横ばい。
若干増加した現国と古典に、大きく増えたのが数学2教科。
前期中間のアベレージ85点から、90オーバーに到達した。
俺も中学以来見たことのないような数字で、文系3位らしい。
10番台が定位置なのに、俺も出世したものである。
心配していたが、終わってみれば西岡くんには一教科も負けていない。
……でも、西岡くんと俺の点数の、教科毎の偏り方がだいたい同じなのは。
数学2つと暗記系に強いあたり、もしかしたら俺の影響が強いのかもしれない。
教え方の癖で、点数にばらつきが出ることは考えていなかった。
俺も、言語系には気をつけなければならないかもしれない。
――そう。例え家庭教師は終わっていても、俺自身の勉強も続くから。
「……一ヶ月の間、お疲れ様。これからもちゃんと勉強してね」
「…………うん」
「判らないことは、聞きに来ていいから」
「……うん。ありがとう」
約束の期間は、これで終わりだけど。
別に、もう二度と勉強を教えないというわけではない。
範囲が変われば、また教えなければいけない事だって出てくるだろう。
古典と英語の予習に煩わされなくなっても、それ以上はきっと厳しい。
……少しだけ不安そうな顔をした西岡くんが、俺を覗き込みながら口を開く。
「――多分、また数学お世話になるよ?」
「いいよ。準備しておくから」
……折角。“なんとなく”じゃない解き方が出来るようになったのだ。
これからも俺自身のために、理屈をきちんと考えておく必要がある。
西岡くんのためじゃなくて、俺自身のために。
自分に言い訳しながらの言葉に、西岡くんの表情は明るくなっていった。
――これで良かったのだ。終わっても、続いていくことだってある。
西岡くんの視線に頷いてから、照れくさくなって顔を背けた。
視線を少し先の床に落として、にやけそうになる顔を戻そうとする。
…………なかなか上手くいかない間に、スタスタと歩む足音が近づいてきた。
どうも目標を持って近づくようなその音に、顔を上げると見覚えのある姿。
「――――神田さん?」
「図書室にいるって聞いてたから来たの。テストのお礼が言いたくて」
いつぞやに話しかけてきた時のように、静かで大人しそうな様子。
また“野郎どもカモン”とか言うかと思ったが、他の子はついてきていない。
どうも神田さん一人で、俺を探しに来たようである。
お礼と言われて、わざわざいいのにと思ったが、取り敢えず続きを待った。
「勉強教えてくれてありがとね、助かったよ。
最初の時は驚いたけど、すごく判りやすかったよ」
「……それは、よかった」
別に否定することでもない。まあ若干黒歴史風味だが。
あの時は勢いで行動して、勢いで色々してしまっていたが。
今から考えると、とんでもないなと思う。どんな行動力だ。
普段からあれだけのコミュ力があればよかったのに、なんてちょっと思う。
頷いた俺に、神田さんはさらに微笑みを深くした。
「うん。だから、みんなの分もお礼を言おうと思ってきたの。
……後は、もう一つお願いがあって」
「…………お願い?」
深い深い微笑みの中、微妙に開いた薄目が少し怖い。
むっちゃ俺を見ている。むっちゃ俺を捕食者の目で見ている。
なんというか獲物を見る感じの瞳。見定められてることに気付いた。
多少の恐怖を感じながら、西岡くんに助けを求めるが、首をかしげられる。
この圧力を感じないのかと思ったが、諦めて俺は神田さんに聞き返した。
小さく頷いた神田さんは目を開けて、極めて明るい営業スマイル。
「――生徒会、入らない?」
「……………………なんで?」
勉強絡みかと思ったのに、全然違ったので反応が遅れた。
高校生活どころか、今までの人生で関わりのなかった単語に驚く。
誘われる理由が判らない以前の問題で、なんの関係があるのか判らない。
そもそもこの学校の生徒会って影が薄すぎて全く印象にないのだが。
……選挙ってやってたっけ?とかそういうレベルの認識である。
――こんな誘いをするからには、神田さんは関係者なのだろうが。
とにかく、説明を聞かなければその判断もしようがない。
そう思って、ふと既視感を感じながらその営業スマイルをみた。
すると、少し考えた素振りの神田さんは「話が長くなるけど」と前置き。
「――私も役員でさ。もうすぐで後期の生徒会が始まるんだけど。
3年生の先輩が抜けて、会長が辞めて、一人留学しにいったんだよ」
「うん」
「そうしたら、2年生に男の子がゼロになっちゃったんだよね。
誰か入れないと人数比が悪いので、君に頼ってみました」
「…………短くね?」
どこが長い話なのだろう。いや手早いのはいいことだけど。
……ふむ。生徒会に男がいないから、俺を入れたいということか。
居なくても別に問題が……あるのかどうか、俺にはちょっと判断できない。
いたほうがいいのはなんとなく判るが、その理由までは推測できない。
「半年だけでいいからさぁ」という神田さんに、質問する。
「……男がいないと駄目なの?」
「そうだね。2年生が女の子だけだと、1年生に男の子が入らないからね。
次の代、その次の代を考えたら、人数比はある程度維持したいよ」
「…………」
「後期に入った1年生たちが育つまででいいんだけどな。
お願い、出来ないかなぁ?」
……次の代、か。部活に入ったこともないから、想像ができない。
俺の上には先輩がいて、そして下には後輩がいるというのは判ってる。
だけれども、俺はその人たちに接したことがないので、実感がわかない。
時間が経てば立場が入れ替わるのは、理屈としてはわかっているのだが。
……俺は、俺自身の視点しか考えたことがないのだなぁ、なんて。
それはともかくとしておいても、いわゆる数合わせということだろう。
俺一人が入ったところで、たかが知れているような気はするが。
無下に断るのも悪い気がするし、興味もないわけでもないし、暇だし。
仕事によっては考えてもいいかな、ぐらいには感じる。
自分自身だけでなく、“世代”というものに関わるのもいいかもしれない。
……俺に出来る範囲のことで、かつ面倒くさくないなら。
「……入るかどうかは、仕事による、かな」
「やることは、週一回集まってもらうのと、時々行事とかでお仕事。
君に時間があるなら、毎日でもやれることはあるけどね」
……後半はともかくとしても。そんなものか。
行事といっても、学校祭は7月にあるから前期の担当のはずだ。
先ほど半年でいいと言っていたし、後期だけなら関係はないだろう。
“やってもいいかな”とは思うが、初めてのことに躊躇しないわけもない。
何か俺の背中を押すものがあればいいなと思って、神田さんを見た。
――しかし。どうも神田さんの目は俺を見ていない。
話し相手を見ずに何を見るかと思えば、その視線は西岡くんを見ていた。
じっと見ているのではなく、意識を向けている感じ。
けれど話し相手であったから、俺を見ていないというのはなんとなく判った。
なんで西岡くんを。そう思って、横にある西岡くんの顔を覗いた。
……不満げな顔は、そのまま絞り出すような声を紡ぐ。
「――――毎日はダメだよ。吉野くんは俺に勉強教えるんだから。
森とか鈴木あたり誘っとけよ、男なら誰でもいいんだろ?」
「ああそうなんだ。でも、出来れば賢い人に入ってほしいな。
それに勉強も、質問に答えるだけなら毎日一緒じゃなくてもいいよね?」
俺じゃなくて、それまで黙って聞いていた西岡くんの文句。
それはなんというか、ずっしりと重い響きで、何事かと思わせる。
おおお?とびっくりしている俺と対照的に、神田さんはあっさりと答えた。
……驚く程に、流暢に。まるで回答を用意してあったような感覚を覚える。
ものすごく嫌な予感がして神田さんを見ると、そこには穏やかな微笑み。
小さい子を言い聞かすような表情と声色である。
「んなことねーよ。付きっきりだっての」
「……そうやって束縛するのは、ちょっとどうかと思うなぁ。
君が吉野くんに合わせるべきじゃないの?」
……まあ、数学は付きっきりにならざるを得ないような気がするが。
そういえば、神田さんと一緒に勉強していた頃は監督しかしていなかった。
だからこういう発言になるのだろうかと思い、多分違うとも思った。
――神田さんの言葉に、西岡くんはパッと振り向いて俺を見る。
呆気にとられたままの俺の顔は、さぞ間抜けだったことだろう。
しかし、西岡くんの顔は悔しそうに歪んでから、神田さんを向いた。
「……人数に空きはあるのかよ」
「2年生の男の子なら一人ぐらいは大丈夫だよ?」
「――――ッ!入ればいいんだろ、入れば!」
見たこともないほどの不機嫌さを露わにして、西岡くんは舌打ちした。
……流されるように、執行部入りを決めた彼ではあるのだが。
俺がまだ入るとは一言も言っていないのに、気づいているのだろうか。
多分、気付いていないだろうな。単純にムキになって乗せられただけだろう。
西岡くんは実に悔しそうに、そっぽを向いてしまった。
流石に騙すのはちょっとあれだよと、神田さんに抗議の視線。
しかしあっさりと流される、というか。普通に楽しそうに微笑んでいる。
どこか満足気な微笑みは、やっぱり計画通りということなのだろうか。
最初から俺だけでなく、西岡くんも誘う予定だったとしか思えない。
西岡くんを釣ることで、俺の逃げ場を無くす……後押し?しただけだろう。
……実際に、西岡くんが参加するなら、まあいいかと思える自分がいた。
“君はどうする?”と一応確認してくるような視線に、頷く。
すると多少は不安に思っていたのか、神田さんは安堵の表情を浮かべた。
それを少しだけ意外に思っていると、すぐに別の顔に変わってしまった。
営業スマイルとは違った、恐らく素により近い穏やかな笑み。
…………この方がずっといい顔だと思うのだが、なんて考えた。
そんな俺のぼんやりとした思考に気づいてか、気づかずにか。
神田さんは「まだ用事があるから」と言って、図書室を出て行った。
これから宜しく、だの。後からまた連絡する、だの。
そんなことを言い残して、スタスタと嵐のように通り過ぎていく。
……黙り込んでいた西岡くんが話し出すまで、それなりの時間が必要になった。
次回でラストとなります。




