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「――なあ浩太、ちょっといいか?」
「……何か用か?」
それから少しして、一人が立ち上がって西岡くんに話しかけた。
立ち上がった瞬間にビクッとしたが、どうやら俺は関係なかったようだ。
もしかしたら、俺じゃなくて西岡くんを見ていたのかもしれない。
そう思いながら、俺は二人の会話を見届けることにしたのだが。
「……ちょっと吉野くん借りていい?」
「…………何をする気だ」
――すぐに俺の名前が挙がって、心臓が跳ね上がる。
驚いて、縋るつもりで見た西岡くんは、相手を怪訝そうな顔で睨む。
邪魔をされたことに怒っているのだろうか、少し不機嫌そうだ。
その反応に、違う違うと手を振って。
「俺たちじゃ判らん場所を聞くだけだって。
今は教えてもらってないみたいだし、いいだろ?」
「…………吉野くんがいいなら」
先程からの視線は、そういうことだったのかと納得しつつ。
急に話と視線を振られて、俺は思わず視線を机に伏せる。
……確かに、今は直接何かを教えているわけではない。
けれどそれ以前に、俺はちょっとこの人たちが苦手だったりするわけで。
断るのはどうかと思うけど、出来れば引き受けたくはない。
「吉野くんは――その調子だと嫌そうだな」
「……い。嫌ではないですけど。どうして、俺ですか」
そんな素振りをしていたら、そう思われるのも当然だ。
反射的に、嫌ではないと答える。流石にそれは否定しておく。
でも、じゃあ素直に受けるのかと言われたら、それも厳しい。
出来ればまともな断る理由が欲しいと思って、試しに理由を聞いてみる。
……内心で、あまりの既視感にうんざりしながら。
言いながら、顔を上げた。相手の顔を見なければと思った。
西岡くんのそばに立ちながら、残る2人と顔を見合わせている。
その表情は“何を言ってるんだ”と言わんばかりの顔で。
どうやら俺に頼んだのにも、相応の理由があるような感じがした。
……近くにいたから、とかじゃなければいいけど。
「――いや。だって、あれだぜ。
教えるの、間違いなく上手いって判ってるし」
「…………ええと?」
そうそう、と畳み掛けるような相槌も続く。
間違いないとまで断言されて、驚いて順番に彼らを見る。
西岡くんを含めても、誰もその言葉が特別だとは考えてなさそうだった。
聞き返した俺の言葉にも、すぐに反応が戻ってくる。
「いやホント、吉野くんはあれだもん。
――浩太を浩太でなくした、本格派家庭教師!」
「……さりげなく人の名前をバカの代名詞にしてんじゃねえよ!」
「てめぇは浩太扱いされたくなければ一教科ぐらい平均取れや!」
……家庭教師。予想もしていなかった言葉である。
後ろの会話はともかくとして、俺の中になんだかストンと腑に落ちた。
家庭教師。本格派家庭教師か。なかなか悪くない響きだと思った。
漫画やドラマでしか知らない存在だけど、それはきっと正しい気がする。
俺と西岡くんの関係を、うまく表現しているような気がした。
そうか。家庭教師なんだ、俺。
教師よりも近くて、それでいて友達よりも遠い。
目の前の会話を見ても、遠慮されていたことに改めて気付かされる。
……単純に優しいというよりは、常に一線を引かれている感じ。
それも、家庭教師という役割があるなら、納得できた。
「――いいよ。俺に教えられるかは、判らないけど」
「おっしゃ!」
強く瞳を閉じて、切り替える。
次の瞬間には思っていたよりも簡単に、笑うことが出来た。
胸の中に、ずんと沈み込むような感情があるのは否定できないが。
それよりも今は。……役割をこなすことで考えなくて済むのなら。
俺は、3人の頼みを引き受けることにした。
教えるために、一つの机を3人で囲む。
面と向かって顔を合わせた時に、漸く俺は彼ら自身の顔を見た。
俺から見て右から、森くん。鈴木くん。奥山くん。
顔も腕も日に焼けて濃い色。いかにも運動部といった感じ。
……いつもは集団として認識していたので、個人個人を認識したのは初めてだ。
慣れていない人たちの中で、慣れていない複数人への授業。
それでも案外すんなりと言葉が出てくるのは、きっと自覚があるからだ。
家庭教師と言われたこと。それは思っていたよりも、心に響いた。
今まで、教える側の責任を曖昧にしか考えてこなかったけれど。
曲がりなりにも“教師”と付く言葉で呼ばれたからには、意識しざるを得ない。
……生徒のために最善をつくすこと。それには、俺の苦手意識なんて関係なかった。
どちらにしても、教える内容は既にやった内容だ。
自分自身でも勉強をして、そして西岡くんに教えたこともある。
どの問題が判らないのかと、一度全問に目を通してみれば見えてくる。
どこで躓いているのか。どんな教え方が必要なのか。
義務と責任を認識した俺にとっては、決して難しいことではない。
……そもそもが、西岡くんほどじゃないこともあった。
元の賢さがそこまで違うとは思わないが、ちゃんと授業に付いていけている。
考え方で引っかかっているところを、丁寧に教えなおす。
西岡くんに対して、ほぼ全範囲で同じことをしてきたのだ。
今更人数が増えたところで、なんの支障もなかった。
「――おおお。そういうことか」
「うん。この問題もこれをアレンジしただけだから」
数問教えている中で、3人がどれぐらいなのかも把握が出来た。
多少の差はあるだろうが、平均かその少し前後する程度だろう。
基本的な問題はクリアできているから、本当に応用を教えるだけ。
問題をパターンで解くことは出来るのだから、理屈を教えるのは簡単だった。
……西岡くんとは段違いのスピードで進められる。泣ける。
西岡くんは一からの成長の早さ。森くんたちは完成の早さ。
どっちも教えていて楽しいが、早すぎて寂しさも少し感じる。
いや、もちろん喜ばしいことでもあるのだが。それを前提としても。
……このままでは本当にあっという間に終わってしまうな、と思った。
実際に、それは杞憂でもなさそうだった。
それほど時間を必要とせず、数学IIの範囲を終える。
比較対象が西岡くんなだけで、ちゃんと2時間弱はかかっているのだが。
その間、西岡くんは時折確認に来るのと、ちらちらと視線を送ってきた。
妙にふてくされた顔をしていたのが気になるが、寂しかったのだろうか。
荷物を片付けていると、3人の内一人、奥山くんが俺を見ていた。
「――これは、本当に判りやすいな。
吉野くん、浩太をまともにするだけのことはあるよ」
「…………ありがとう?」
今一引っかかるところがないわけでもないが。
褒められたのなら、それはありがとうと返事をするべきな気がした。
元々、西岡くんのやる気があったから出来ただけのことではあるが。
褒められて嫌な気はしなかった。
「……でもさ。頼んだ俺が言うのもなんだけど、浩太は良かったのか?
殆どあいつに教えてないんじゃないか?」
「…………大丈夫。範囲は一通り教えてあるから。
後は自習で判らないところを聞くだけだった」
もう既に、教えることで点数が上がる領域は超えている。
心配そうな顔で話に割り込んだ森くんに、そう答えた。
……慣れたわけではないが。それでも2時間話したら緊張も薄れる。
声を出すのも俺が中心だったから、尚更だ。
森くんは俺の言葉を聞いて、鈴木くん、奥山くんと目を合わす。
アイコンタクト的な、視線での会話があってから。
「――良かったら、明日もお願いできないか?
数Bも教えてもらいたいんだが」
「…………西岡くんが、いい、なら?」
「――今日みたいなんならな」
奥山くんが、遠慮がちに俺にお願いしてくる。
なんとなく教えている間にも、そんな予感はしていたのだけど。
俺個人で決められることではない。先約がいるのだ。
そう思って振った西岡くんも、むっとした表情でそれに応える。
……やっぱり、放置されているのが嫌だったのだろうか。
それぞれが内心に思っていることは、伝わらないけれど。
一応の了承は出たので、明日もこの場所で教えることになった。
時間は5時を過ぎていたから、俺と西岡くんは荷物を片付けて、帰る。
森くんたち3人は、まだ勉強をしていくと言って、俺たちを見送ってくれた。
帰り道に「嫌だった?」とお互いに聞き合った。
どちらもそんなことはない、と答えるけれど。ならどうしてあんな態度か。
俺は、ただ彼らのことが少し苦手だったから。それでも嫌ではなかった。
思うままを素直に話して、君も同じかと聞いてみると微妙な顔。
少し違うけれど、それでも吉野くんのせいではないよと言われて、駅に着いた。
……なんだか中途半端に別れてしまって、久しぶりに西岡くんの背中を見送った。
25日火曜日。昨日と少しずつ違う今日。
自習の時の、遠慮がちな森くん、鈴木くん、奥山くんの姿。
授業後に図書室に行かずに、最初から教室で掃除の終わりを待つ俺。
関わる人が増えて、なんだか不思議な気分になる。
それまで外と内に別れていた世界が、その区別が出来なくなってきた。
内側にある“わかるもの”。外側にある“わからないもの”。
その境界線が曖昧になって、どちらがどちらなのかが見えなくなった。
俺の中にも、自分では掴みきれないような感情があって。
……それでも嫌な感じはしないけれど。
勉強を教えるのも、苦ではなくなった。
外側にあったはずの、他の誰か。その誰かの思考に触れること。
ノートや問題集から“何故判らないのか”を推測して、自分のものにする。
いつの間にか内側にある他の誰かを、外とは思えなくなってきた。
……それは西岡くんに限らない。森くんたちも同じだった。
相手を知れば、怖がる必要なんてないんだなと気づかされた。
3人の大きな声も怖くない。集まっているのも、怖くない。
明瞭ではっきりした声は、その感情をよく伝える。
その奥にあるものは、薄暗さの欠片もない、明るくて素直な人柄だ。
いつも集団でいることも、お互いへの信頼や理解を生む。
一人で完結していないから、できることだってある。世界が拡がる。
俺が小器用なのは、世界が狭いからだと気づかされた。
知っている世界の中で、俺は完結していた。それで形作られていた。
手に届く範囲のものだけだから、どんなことだって困難ではない。
……それは挑戦しないということ。満足しているということ。
それが悪いとは思わない。だからこそ、今の俺がある。
それでも外の世界が、決して“わからないもの”だけではないと知って。
――――それが楽しいものであると知ってしまったから。
怖がりながらも手を伸ばす。俺の世界を、“内側”を広げていくために。
西岡くんに勉強の指示をしてから、3人に勉強を教えた。
昨日ほど不機嫌そうにみえない西岡くんに、なんだったのかと思いながら。
数学Bを2時間ほどかけて終わらせると、明日もお願いしますと依頼される。
明日は色んな教科を教えてくれと。その手始めにノートのコピーをくださいと。
……くれなきゃ、土下座するとまで言われた。馬鹿か。
――西岡くんにネット小説バレした、あの時のことがあって。
俺はノートへの落書きは全部消した。悲しい思いをしながら全部消した。
折角書いたイメージイラスト(バストアップ。全部左向き)を。
折角書いた裏設定集(作品に必要のない部分までバッチリ)を。
……ちょっと待ってと一応確認してから渡すと、すぐに戻ると教室を出て行った。
コンビニから戻ってきた3人からノートを受け取り、今日の授業を終わらせた。




