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そうして、俺たちは“いつもどおり”に勉強をする。
これからの勉強の仕方を確認しながら、それぞれの勉強に取り掛かる。
ノートの確認。副教材の確認。覚えなきゃいけないものを把握すること。
テストを作る先生側にも、作り易い問題というものがあること。
色々なことを伝えていると、コンコンとノックの音が聞こえてきた。
「――失礼しますね。そろそろ喉が渇いた頃かと思いまして」
「……ありがとう」
「ああ、ありがとな、智之」
静かに部屋へ入ってきた智之くんが、お盆を手に近づいてくる。
俺と西岡くんに微笑みながら、麦茶の注がれたグラスをおいていく。
なんとコースターつき。ノートが濡れないようにとの配慮なのだろう。
……うん。判ってはいたつもりなのだが、ちょっとすごい子だ。
「直紀はどうした?」
「遊び疲れて、昼寝してるよ」
「そっか。ありがとな」
西岡くんに話すときは、砕けた口調になる智之くん。
頭をわしゃわしゃと撫でられて、照れながらも嫌がる様子はない。
……本当に仲がいいんだなと思う。兄弟のいない自分には少し羨ましい。
年下の家族がいれば、これだけしっかりするものなのだろうか。
なんだかいいな、という目で見ていると、急に西岡くんは立ち上がった。
「――よし!」
「…………どうしたの?」
「折角飲み物があるなら、食べ物も持ってくるよ。
休憩なしでぶっ続けだったしな」
そう言って、返事も待たずに部屋の外に抜け出してしまった。
……確かに。採点からそのまま教えたので休憩はしていなかった。
教える側として、気がついていなかったのはちょっと失態だろう。
頬をポリポリといつかの西岡くんの真似をしていると、智之くんと目があった。
静かな表情に物言いたげな瞳、俺は「どうしたの?」と軽く聞いてみる。
智之くんは悩んだような素振りを見せてから、頭を下げた。
「――その。兄さんがご迷惑お掛けしています」
「……迷惑なんて、そんな。楽しませてもらってるよ」
これは俺の本心だ。心から楽しんでいるつもりである。
悔しいと思うほど努力をしているなんて、すごく久しぶりだ。
大変だけど、それだけの結果を見せてもらっている。楽しいと感じている。
心配しなくてもいいよ、と。笑ってみせる。
すると「でしたらありがたいのですが」と、智之くんは複雑そうに笑った。
……何か、思うことがありそうなのは間違いないのだが。
それを俺が聞いていいのかはまた別の話だと思って、躊躇する。
ずけずけと踏み入っていい関係でもないし、そんな経験もない。
どこまでならセーフなのか、俺には判らない。……だけれど。
「――お兄さんが心配?」
「……!そう、ですね。多分、そうなんだと思います。
普段、どうしても迷惑をかけさせちゃってますから」
「君は、随分しっかりしているように見えるけど」
迷惑をかける、というような言葉が似つかわしくはない。
俺よりも5歳ぐらい年下であるのだろうに、しっかりしているように見える。
すごく気を使って、大人らしく振舞おうとしているのが一目でわかる。
……まあ、俺にだって一目で判ってしまう程度なんだけど。
迷い、言葉を選んでいる様子は、ある意味で子どもらしいのかもしれない。
自分の感情をつかみきれていないのは、きっとまだ経験が足りていないからだ。
その姿は、いつも直紀くんと一緒にいるところからは伺えない。
あまり見せないようにしている面なのかな、と頭の片隅で思った。
少ししてから、「そんなことないんです」とつぶやく声が、きっかけとなった。
「もっと手が掛からなければよかったと思うのですが。
……どうしても、限界があって」
「……それでいいと思うよ?」
「僕たちの世話が、勉強の邪魔になっているのは事実ですから。
……歳が近ければ良かったのに」
――ああ。兄弟思いなんだな、という感想を胸に抱く。
西岡くんに頼らなければいけないことを、すごく負い目に思っているのだ。
だから、頼らなくても、心配をかけなくても済むように振舞っているのだろう。
年相応ではないぐらいに、大人びたその言動を作り上げて。
いい子なんだな、と思う。いい弟さんだなと思う。
それでいて、西岡くんは本当にいいお兄さんをしているんだなとも思う。
智之くんの思いは、必死に面倒を見てくれているから出てくる感情だ。
一生懸命な姿があるから、それを支えるために、寄りかからないために。
……俺はきっと、それがすごく羨ましい。
「――心配しなくても、大丈夫だよ。そのために俺がいるから」
「…………え」
「西岡くんが一生懸命なのは、智之くんも知ってるよね。
俺もそれを見て、助けてあげたいと思ったから、ここにいるんだよ」
お互いに支えあおうとしている姿が、本当に羨ましかった。
……出来るなら。俺もその中に入れたら良かったのに、と思うほど。
それはできない。俺はあくまで部外者に過ぎない。
だから、それを外からしか、関わることができない。
「年齢は、どうにもならないし。兄弟だってことも変わらない。
……俺もいるから。無理はせずに、頑張ればいいんだよ」
「……ありがとうございます」
俺は君たちのように、兄弟にはなれない。その輪の中には入れない。
だけど、その有り様は、すごくいいなと思うから。
無理はしないでほしかった。きっと、お互いに心配を掛け合っていいんだ。
……もっとも、それを言われた智之くんが納得しているようには見えなかったが。
これはきっと自分で納得するか、それこそ時間が解決してくれるしかない。
迷えばいいんだ。努力すればいいんだ。
どっちも無意味なことなんかじゃない。きっと大切なことだ。
誰かの為に、真剣になるというのは、きっと素敵なことだから。
……なんか母さんが言いそうな言葉で、ちょっとうんざりしていると。
部屋の外から、ドタバタという足音が近づいてきた。
「ごめんごめん、中々お菓子見つかんなくって。
途中で直紀も起きてきちゃうしさー」
「……それでは、僕は行きますね」
「ああ、ごめん。引き止めてしまって」
部屋の空気を一掃したのは、両手に幾つもの袋を抱えた西岡くんだった。
一人増えただけで騒がしくなった部屋。恐らく直紀くんも騒音で起きたのだろう。
俺にちらりと目配せをした智之くんが、すっと立ち上がり、一礼。
それを座ったまま見送ると、西岡くんが不思議そうな目で俺を見ていた。
「――何か話してたの?」
「…………いや。前からも思ってたけど、凄くしっかりしてるよね」
これは、きっと智之くんが自分で悩むことだから。
内容そのものには触れずに、感想だけを述べておく。
すると表情に小さな陰りを見せた西岡くんが、テーブルにお菓子を置きながら座る。
……数がどう見ても多いのだけど。どれだけ食べる気なのか。
ちょっと引いた目でその量を見ていると、西岡くんがその内の一つに手を伸ばした。
それを視線で追っていると俺も食べるように促された。小分けのクッキーを貰う。
「――そうだなあ。やっぱりそう見えるのか」
「……ちがうの?」
袋を開けて、一口かじる。その間に西岡くんは、感情の薄い声で呟いた。
“そう見える”というのは、実際はそうではないということか。
脳裏に、先ほどまでの悩んでいた智之くんの姿が浮かぶ。
けれども、あれはあれで十分にしっかりしていると言えるものだと思った。
そう思って聞き返した言葉に、目線をこちらに向けて「いいや」と首を振る。
「しっかりしてる、と思うよ。俺が言うのもなんだけどさ。
手間も、心配も掛けさせてくれないのが残念な位」
「……早く、大人になりたがってる感じはするね」
西岡くんは、やっぱりかと頭を掻いて悔しそうにする。
最も、これは話をしたから判ったことで、見ただけで察したわけではないが。
――智之くんの目標“迷惑を掛けない”は、粗方達成しているようである。
だけど西岡くんの反応を見る限り、それは喜ばしいものと限らないようだった。
それがなんなのかは、聞かなくても予想が付いていたけれど。
「――もっと子どものままでいいのになあ。
俺に、もっと頼ってくれてもいいはずなんだけどなぁ」
「……心配?」
「うん」
頷いた西岡くんは、更にお菓子に手を伸ばす。
……これは智之くんの話を聞いていた時から、判っていたことだ。
智之くんが、西岡くんを思って迷惑を掛けたくないのと同じくらい。
西岡くんは、智之くんのことを気にかけているのは、当然のことだった。
どちらもお互いを大切にしたいと願っているのは、一目瞭然だったから。
「直紀だって、あいつはあいつでしっかりしてるもん。
自分のことなら、大抵自分でなんとかしてるし」
「……うん」
西岡くんは「俺の小さい時とは大違いだ」と言って、顰め面をする。
それは俺と比べても、きっと同じだろう。もっと子どもだったと思う。
頼られないこと。大人びてしまっていること。
西岡くんは、そうさせてしまっていることが、悔しいのだろう。
「――まあ。それもこれも、俺が頼りない兄貴なのが悪いんだけどな。
せめて成績ぐらい、なんとか出来ればよかったんだけど」
「…………大丈夫だよ。頼りなくなんか、ないし。俺もいるから」
だけど、一転して明るい表情を作った西岡くんが、顔をあげた。
……どこか薄っぺらく感じるのは、それが作ったものであるからだと判った。
痛々しいとまでは行かないが、凄く悲しいなと俺は思った。
すぐには言葉にならず、絞り出すように言った言葉。
それにはすぐに「ありがとな」と笑顔が返ってきて――それも少し悲しかった。
「……一生懸命なのは、そのため?」
「そう、かな。これ以上、格好悪いところを見せられねえし」
――ふと。脳内で考えようとしたはずの言葉が、口から出た。
それも少し考えた素振りを見せてから、小さな頷きとともに返される。
格好悪くなんか、ないよ。頼りにならないなんて、そんなの勘違い。
どちらも、そんなことがないから。だから――――だから。
「――――智之くんも、直紀くんも、お兄さんのことが大好きなんだよ」
「…………え?」
「大好きだから、迷惑を掛けたくないんだよ。
早く大人になって、心配も手間も掛けさせたくないだけなんだ」
鉛のように重い口をゆっくりとこじ開けて。
一言一言を丁寧に選んで、その勘違いを正す。
……本当は、智之くんが自分で伝えることなのかもしれない。
本当は、西岡くんが自分から気づいていく方がいいのかもしれない。
そう思いながらも、俺は今伝えていることを後悔していなかった。
ゆっくりと伝えた言葉を、ゆっくりと噛み締めたのだろう。
空元気という言葉がよく似合っていた表情が、外れる。
そこにあるのは、なんとも情けない顔をした西岡くんで。
……迷って、悩んで。それでも答えがでないような、そんな顔。
悩んでいた智之くんに情けなさを足したら、同じ顔かもしれない。
それほどに、似ていると思った。
「――だから。誰も悪くないんだと、思う。
頼られたい君も、頼りたくない智之くんたちも、多分――誰も」
これは、きっと本当に、仕方がない事なんだ。
これだけ頑張っている西岡くんに、荷物を背負わせたくないと思うのも。
素直で礼儀正しい弟さんたちに、頼られていたいと思うのも、どちらも。
……今、そうなってしまっただけで。そうでなくてもいつか。
「……智之くんが、背伸びをしているのは事実だと思う。
年齢よりも大人びているのも、そうだね」
「……なら」
「だけど」
強く言葉を放つ。何かを言おうとしていた西岡くんも、俺の言葉を待つ。
……本当に、こんなことを言っていいのだろうか。
俺は一体何様なんだろう。人生経験もないのに、説教の真似事をしている。
――それでも。多分伝えなければいけないことは、あるはずだ。
「……少し早いだけで、いつかは成長していたんだよ。
これはきっと、仕方がない事なんだと思う」
「…………」
頭のどこかで、今の西岡くんと、少し前の俺が重なった。
付きっきりで、西岡くんに勉強を教えていた、少し前の俺と。
弟さんたちに頼られていたいという、目の前の西岡くんが。
……だから。これはいつかは訪れていたことなんだ、とはっきり言えた。
「……俺に出来ることは、ないの?」
「あるよ」
目に見えて凹み始めた西岡くんに、俺は強く断言してみせる。
反射的に上がってきた希望の視線に、少し決意が揺らぎそうになった。
……直接できることはないかもしれない。手を離れてしまった。
けれど、それでもまだまだ必要とされているのだ。
西岡くんにとっての俺も。智之くんたちにとっての西岡くんも。
「――待ってれば、いいと思う」
「…………何を?」
「……二人が頼ってくるのを。二人が成長するのを。
見守ることが出来るのは、きっと君だけだよ」
言い切ってから、俺は笑ってみせた。微笑んで見せた。
そのままの表情で俺を見ていた西岡くんも、少しづつ表情を崩す。
一瞬、泣き笑いのような表情になってから、大きく息をついた。
その次の瞬間には、いつものような陰りのない表情。
……今度こそ、作り物ではないものだった。
「……自分から何も出来ないって、辛いなぁ」
「俺は、羨ましいけどね。兄弟がいないから」
へへへいいだろ、と笑う西岡くんは、完全に普段のままだった。
……ああ。本当に羨ましいと思える。
兄弟がいることだけでない。いい弟がいることも、いいお兄さんであることも。
……誰かのために努力をすることができるのが、すごく羨ましかった。
立つべき地面と、目指すべき目標があること。そのために真剣になれるのが。
――――――――俺には、本当に羨ましかった。
それからは、お菓子を食べながらのゆっくりとした勉強だった。
問題を解くというよりは、色んなものに目を通すこと。覚えること。
集中も勿論必要だけど、飽きずにやることの方が重要な分野。
……お菓子を食べない方がいいに決まってるけど、これも続ける方法だと思う。
時折、この勉強でいいのかと確認をしてくる西岡くんに答えながら。
休憩のせいで、短くなってしまった勉強時間を取り戻す。
――そしてそれから一時間と少し。五時を半分回ったくらい。
明日までに勉強する範囲を伝えてから、俺と西岡くんは雨の降る中を歩いた。
これから一週間か。そう思って、少し憂鬱になりながら。
暗いのはこれで大体終わりです。後はちょっと明るくなります。




