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母さんに駅まで送られて、俺は電車に乗った。

電車を降りて改札を出たところには、当然のように西岡くんの姿。

迎えに来る必要はないと伝えたのにも関わらず、傘片手にそこにいた。

……時々、なんでここまで気を配ってくれるのだろうかと不安になる。


思っていたよりも普通に振る舞える自分に、少しだけ安心しながら。

今日は自転車ではない西岡くんと共に十分足らずの道のりを歩む。

ドアを開けて玄関を入った時に、いつもなら飛び込んでくる姿がなかった。

おや、と少し不審に思うと、奥から控えめな足音が聞こえる。

智之くんの姿だ。直樹くんは付いてきていないようだった。


「――お邪魔します」

「雨が降っているのに、わざわざありがとうございます。

 兄さんをよろしくお願いしますね」

「智之、直樹はどうしてる?」

「リビングで遊んでる。面倒は僕が見るから、兄さんはしっかり勉強して」

「……判った。たのむな」


……ああそうか。雨が降っているから、外に遊びに行けないのか。

智之くんがちらりと向けた視線の先から、直樹くんの声が微かに聞こえる。

何かに一喜一憂している声。テレビを見ているか、ゲームをしているか。

そんなところだろうと予測をつけていると、不意に智之くんと目があった。

大人びた瞳で会釈をするので、俺も釣られて愛想笑いをした。


「失礼しますね」と奥に戻っていく智之くんと別れ、部屋に向かう。

道すがら、自習の進みぐらいを確認するが、それなりに進行しているようだ。

どれだけの精度で覚えたかは別としても、もう極端な点数にはならないだろう。

……やっぱり来る必要は、あんまりなかったかもしれない。

やることがないわけではないのだけれど、そう思うのは止められなかった。






部屋の中で、今日も数学の演習をしてもらう。

今日も数IIと数Bの一枚ずつをやって、その答え合わせをする。

昨日と同じように、三枚目に入ることは難しいかもしれないが、それでいい。

中途半端に一枚だけ残すよりも、セットで残したほうが利用価値がある。


連続で解いてもらっているその間は、何を勉強したのかを確認。

古典や英語のノート、それと暗記教科のノートを見て、見落としを探す。

俺も時間潰し用に自分の勉強用具は持って来ているので、それと見比べる。

……すこしピント外れの纏め方や、雑なのが気になるが、大きい問題はない。

これを全部理解してちゃんと答えられるなら、平均なんて簡単だろう。


……最初の頃に、ノートを貸して勉強の仕方を教えたが。

それでも、やはり俺と完全に同じではないのが、なかなか面白い。

特に、英語と古典の訳は、これだけでも目を見張るものがある。

“なんとなく”でそれっぽく訳している俺のものに比べて、直訳風だ。

丁寧に、言葉の足りないところを補いながら、言葉どおりの訳。

気づかされることがあるとまでは行かないが、新鮮な気分になった。



「――うん、よく出来てる」

「…………マジでっ!?」


二枚の採点と解答の分析が終了し、その上で漏れた感想。

西岡くんも驚く声を上げるが、俺自身も少し驚いた。

結果だけ見ても、70点台後半と昨日よりも遥かに高い点数。

そしてその中身も、数週間前の西岡くんと同一人物だとは思えない。


平均までの問題は計算ミスを除いて全問正当。これは前提。

そして応用の大問は、最後こそ回答まで辿り着けていないが、着実に前進。

実力問題も、これなら部分点をあげることもできるだろう。

今回は厳し目の採点だから、部分点は低めの評価だというのにこの点数。

これなら、下手をすれば普段の俺とそう変わらないかもしれない。


――――これなら、わざわざ問題の教え方を考える必要もなかった。

何が足りていなかったのか、何を間違えていたのかの説明だけで終わる。

ここまで来ていたら、数学も自習である程度の点数は取れることだろう。

……教師冥利、というべきだろうが。教えることのなさに、少し寂しさを覚えた。


「ここまで出来るなら、十分だよ。

 演習も後はテスト直前に、感覚を掴むためにやるだけでいい」

「……俺、一人で?」


声にすることなく、頷いてそうだと示す。

自習で間違いに気づくことができる実力は、既に身につけている。

他の範囲となると話は別だが、少なくともテスト範囲に関して問題はない。

昨日から、間違いなく成長をしている。時間を気にしただけでも、効果が出た。

多分、俺にできることはもうない。もっと出来たら、と悔しくなる程に。


「――ってことは、もしかして、教えてくれるのはこれで終わり?」

「……後は、自習で十分だと思う。判らないことには答えるけれど」


だけど。これ以上、俺が教えることで効率が上がることはないだろう。

そう言って、不安そうな顔をした西岡くんに頷き返す。

勉強するだけの道具は揃えた。土台も揃えた。後は自身の努力だけ。

……西岡くんの得意分野である。俺の介入する余地はない。


古典から初めて、英語。現社、日本史、現国。

そして数II、数B、生物の理系三教科。

どれも、これからはかけた時間の分、点数が向上するだけだ。

それなのに、西岡くんは浮かない表情をする。

――心配することなんかない。それだけの努力を君はしてきたというのに。


「……どうしたの?」

「あ、いや。その…………ごめん」


……謝られても、一体何を悪いと感じているのかすら伝わらない。

自分は、母さんみたいに察しがいいわけではない。

言ってくれた言葉の裏すら読み取れず、言葉通りにしか受け止められない。

こういう時に、もっと人付き合いの経験があれば、と思う。


「――何か思っていることがあるなら、言って?」

「…………うん。ごめん。急に、不安になっただけだよ。

 俺、一人で勉強できるのかなって」


どういうことだろう。今までも自習の時間は長かったはずだが。

やる気の問題なら、どう考えても俺よりもあるに違いない。

言葉を待って沈黙した俺に、西岡くんはちらりと視線を向けて、外した。

俯いたまま唇を噛み、瞳を揺らがせてから、酷く重そうに口を開いた。


「……今やってる勉強が、本当に意味があるのか自信がない。

 この勉強の仕方で、本当に点が取れるのか、判らない」

「…………?」

「教えてくれた数学はできるようになったけど……

 今まで、自習で点が取れなかったのに、それが変わると思えなくて」


そう言って、西岡くんは黙り込んでしまった。

沈みきった声は、支えとなるものが全くないような、不安定な響き。

その声に気を取られて、すぐには言っていることを理解できなかった。

……今までで、案外凹みやすい人だなとは思っていたのだけど。

今回はその比ではない。驚く程に、不安な声。


――ならば。心配をするのが人と言うものだ。

ここにいるのは、俺しかいない。俺が解決しなければいけない。

混乱した頭で、先ほど言われたことを整理する。


意味があるのか判らない。点数が取れるのか判らない。

そんなのは、勉強すれば出来る話だ。……というのは、きっと傲慢。

勉強をして、取れなかったから、今この関係があるのだ。

だというのに、頼られている俺がそんな言葉で切り捨てていい理由はない。


勉強の仕方は、テスト対策の仕方は俺が教えたけれど、それでも不安。

唯一不安ではないのは数学だけ。……なぜ数学だけなのか。

答えはもう出ていた。“できるようになった”という明確な事実。

それは、演習という形で、数字として出てきている。これは覆せない事実。


じゃあ他の教科も簡単だ――などということは、できない。

確かにある意味簡単だ。出来るというのを客観的に証明するだけだ。

……だけど。その証明をするために勉強している。テスト対策しているのだ。

数学のように、演習問題を作ることなんて、できない。

出来るかも知れないが、それはものすごく勉強して、時間をかけたらの話。

いますぐどうこうという話には、対応するものではない。


――じゃあどうするか、ということで。

俺は一つの結論に達していた。他にはないと言い切れるレベル。

先ほど口から出したばかりの言葉を翻す。俺は嘘をつく。

強く瞳を閉じて、その次の瞬間には出来うる限りの明るい顔を作る。

そして、悩みを吹き飛ばすような軽い声で、笑ってみせた。


「――何言ってるのさ。別に一人で勉強するわけでもないのに」

「……………………え?」

「教えることはもう無くなったけど。別に教えないわけじゃないよ。

 ちゃんとテストが終わるまで、責任もって監督するから」


――俺に出来ることはまだあった。果たせる責任はまだあった。

きっと教えられることなんて、本当にもうないだろう。

出来るのは、必死に内容を覚えようとする西岡くんを見守るぐらい。

だけど、今の西岡くんにはそれが一番必要なんだと思えた。

高校に入ってから感じたことのない勉強の“成果”を、保証してくれる誰かが。


……呆けた顔をしていた西岡くんに、理解の色が見えるまで数秒。

勘違いをしていたと、照れて笑い出す彼に、少しだけの申し訳なさを。

そして、これで良かったんだと、決断できた自分に感謝を。

……何かをしてあげられることが、こんなに嬉しいなんて、思わなかった。

本当は、ただ期間を伸ばしただけだとは気づいていたけれど。






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