とある復讐者の物語
―――私は、怯えながら伸ばされた腕を弾いた。
今、この屋敷にいるのは私と、目の前で捨てられた子犬のような目でこちらを見ている少年だけ。他の使用人達は皆、既に逃げ出した。
敵国の侵攻がこの近辺にまで迫っていると知らせを受けたのは、つい先日のことだった。
残虐非道で知られる、荒くれ者共が集まると評判の敵国の軍隊。
どうせ対岸の火事だとばかりに、他人事のように罵ってきた報いなのだろうか。我が国きっての貴族家系である我が家が、その標的にならないはずもなかった。
もう、敵はこの屋敷からも篝火が確認できる程近くに迫ってきている。早く逃げねば、敵はすぐにでもここに押し寄せるだろう。
「……もう1度だけ言うわ。敵が来ない内に、さっさとここを離れなさい」
私の言葉に、少年はびくりと身を震わせた。
突き放されることへの恐れ。強く言えないところは、如何にも優しい彼らしい。
けれど、私は知っている。優しいだけではどうにもならないことを。
今も尚ここへ向けて進軍を続けている敵軍の魔の手から逃れるには、相手を突き放す非情さを持たねばならない。
「うあっ!?」
だから、私は叩いた。尚も何かを言おうとしている彼の頬を。
「ど、どうして……」
縋るような上目遣いに、心が揺らぐ。
元々彼は、屋敷に務めていた使用人の息子だった。父親たるその使用人が彼を連れてきたのが始まりで、私達はよく一緒に遊んだ。
幼かった私に、戦争がこんなところにまで迫ってくると予測することなど酷なことであったし、初めて出来た年下の友達に、幼いながらお姉さんぶりたかったのだろう。
こんな思いをするくらいなら、最初から友達になどなるのではなかった―――。今ならそうはっきりと言えるのに、あの時は随分と愚かだったと、今更ながら己の行いを悔やんだ。
「言ったでしょう? 貴方は足手纏いなの、一緒には逃げられない。貴方は1人でここから逃げるのよ」
「そんな……」
突きつけているのは非情な言葉。だのに、それらは震えの1つもなく私の口から発せられた。対する彼はそんな私とは対照的に、震えながら目に涙を溜めて、それでも私と一緒にと目で訴えかけてくる。
それはきっと、恐怖故のことではない。彼は優しい子だ、きっと私のことを案じているのだとすぐに理解できた。
たった1人で、果たしてどこまで逃げられるのか。そんなことは、おそらく頭にはないだろう。ただ、たった1人で心細くはないか、そんな如何にも子供らしい思考で、彼は私を案じてくれているのだ。
屋敷の中は、軍勢が迫っているという状況下にも関わらずしんと静まり返っていた。私と彼の息遣いだけが、無駄に広い屋敷の中を反響する。
使用人達は、既に全員脱出させた。その後のことは、こちらで手配した船による海路を行くことにした一団以外は聞いていない。まだ慌ただしく支度をしていた時の彼らの会話では、山を越えるだの、いっそ敵国に渡るだのといった声が聞こえてきたが、それではダメだ。
山とは屋敷の裏に聳える大きな山脈のことをいう。そこらの山とは、規模も険しさも段違い。
たとえそこを行ったとして、きちんとした装備を持つ軍隊と軽装の一市民では、越えられるものとそうでないものに差も出てこよう。
敵国に渡るのも悪手だ。敵は、残虐非道で知られた軍隊。見つかったら最後、どうなるかは火を見るより明らかではないか。
私はそんな声を聞いても、止めようとはしなかった。私は家の当主であったが、皆を逃がすための準備や船の手配に追われ、とてもではないがそんな余裕はなかったのだ。
それに、山越えを選んだと思われる使用人の中には、山を越えた先に故郷がある者もいた。そんな者達の思いを無視することは、私には出来なかった。
せめて、敵国の魔の手に堕ちることのないよう、祈るばかりである。
「二手に分かれるわよ。貴方は海、私は森。二手に分かれて逃げるの」
「で、でも、僕は……」
「いい加減に状況を弁えなさい。いくら私でも、貴方を背負って逃げる程の豪腕ではないのよ」
彼は、身体が昔から弱かった。
幼い頃に大病を患ったとかで、体力がなかった。
だから、彼を庇って的から逃げ切れるとは思えない、足手纏いになるだけだという私の主張は間違っていない。
彼もそれを理解しているのか、俯いてぐっと拳を強く握った。理解はしていても、それでも納得出来ないのだろう。今、彼の胸中は悔しさで溢れているに違いなかった。
「……さようなら」
「えっ……うわぁっ!」
早くしなければ、本当に逃げ切れないところにまで敵軍が迫ってくるだろう。
私は、この屋敷に先代が遊び心で増設したらしい、仕掛けを始動させた。
彼の足元に、ぽっかりと開く黒い穴。床板が外れ、滑らかな斜面を彼が滑り落ちていくのを見ていると、私の頬を涙が伝った。
彼が落ちていった穴は屋敷の外―――更に言えば、海側に程近い場所の洞窟で抜けられるようになっている。海に出れば、私が手配した船で待っているはずの彼の父と共に、遠方へ逃げることが出来るだろう。
せめて貴方だけは生き延びてほしい。そう願って、そして最後まで辛い態度を貫き通すことが出来たことに、思わず涙が溢れていた。
「……」
ややあって、私は上階を目指した。
そこには、嘗て国の王を迎えた玉座が安置されている。戦争が激化してからは使用されなくなったそれも、最近まで使用人が丁寧に掃除していたおかげで、王宮のものに勝るとも劣らない光沢を放っていた。
月明かりが差す中、私は玉座に腰掛けた。
私の役目は、敵の足止め。ここで私が皆と一緒に逃げれば、きっと彼らは私を追ってくるだろう。国の有力な貴族の当主たる私の身だ。政治的な道具にでも何でも、使いようはいくらでもあるだろうから。
私が逃げれば、周りの使用人達にも危害が及ぶ。それだけはなんとしても避けたかった。犠牲となるのは私だけでいい。私という目標が消えれば、進軍の矛先は国の主要都市へ向かうはず。使用人達から、少しでも意識を逸らすことが出来れば―――。
使用人達に言えば、当然止めるであろうことは解っていた。だから私は、すぐ逃げると嘘をついた。我ながら悪い女だと思うが、切羽詰っていた私には、これ以上のことなど思いつきもしなかった。
「いい、月夜ね……」
私は黄昏た。今まさに、己の身に命の危機が迫っているなどとはとても思えない程に、穏やかな夜に。
やがて、怒号の波が屋敷へ迫り、屋敷へ火が放たれた。
紅く燃え上がる屋敷。身を焼く熱さの中、私の命の炎もまた共に燃え尽きていくのを感じながら、私の意識は、燃え滾る赤の中に溶けていった―――。
☆★☆★☆★☆
男―――ジャックには、家族がいなかった。
母は幼い頃に流行病で急逝し、父もまた、数年前に事故で命を落とした。
ジャックは孤独だった。けれど、寂しくはなかった。寂しさなど感じられぬ程の憎悪が、彼の感情を焼き尽くしていたからである。
彼には、少年の頃に恋焦がれていた女がいた。父親が仕えていた貴族の麗嬢で、大層な美人であった。
彼はその時まだ少年であったが、幼い頃から遊び相手になってくれていた彼女に、子供ながら淡い恋心を抱いていたのだ。
だから、あの時―――戦火が押し寄せてきて、屋敷にまで敵の魔の手が迫っていたあの時、本当は彼女と共に逃げたかった。
けれど、内気だった彼ははっきりと彼女にそう告げることができなかった。彼女が作動させた緊急時のための落とし穴は海の近くの洞窟まで続いていて、そこで男は、海路から逃げる算段であった、自分の父を含む使用人たちによって助けられ、国外に逃亡した。
ジャックは、愛する人を守れなかった。そして、老いていく父の手助けをしながらもずっと、彼女を殺した敵国を憎み続けた。
―――そして、今。彼は、賑やかな街の一角に立っていた。
そこは、彼が住んでいた屋敷から少し西へ行ったところにある小さな交易の街。昔はここにも、よく父に連れられてきたことがあったと、片隅にあった記憶を掘り起こして男は独りごちた。
「嫌な風だ……」
昔は好きだったはずなのに、と砂の多い渇いた土地ならではのカラカラに渇いた暑苦しい風と強い日差しに、思わず顔を顰める。広い帽子の淵を日を避けるように下げると、ジャックは歩き出した。
街並みを眺めながら、1人歩く。街の景色は、彼が屋敷に住んでいた頃から殆ど何も変わってはいない。時折、道の端で店を開いている行商人達が威勢のいい声で話しかけてくるのも相変わらずだ。
―――だが、たった1つ。彼の心だけは、あの頃とは何もかも違っていた。
ジャックは、手近な酒場の戸を開けた。砂程に真っ白な太陽が眩く照りつけている外とは対照的に、酒場の中は暗く、暗めの照明がぼんやりと光っているだけ。
カウンター前の席に座り、ソーダ割りを注文するジャックへ、酒場の店主が話しかけた。
「やあ、アンタ見ない顔だね。旅の人かい?」
「まあ、そんなとこさ。ここはいつ来ても嫌んなるね。砂ばっかりで埃っぽいし、何より暑い」
「はっは。だが、そんな場所でも住めば都ってね。俺は結構好きだよ、この街は」
ソーダ割りをグラスへ用意しながら問うてくる店主に、ジャックはそれに別段不快感を表すことなく―――どちらかといえば街の方に嫌悪感を示しながら、そう答えた。
それにはっはっはと豪快に笑いながら、店主は酒を注いだグラスへと砕いた氷を落としていく。
「どこからだ? その口ぶりだと、暑さは苦手そうだが。北の方かな?」
「別に。ただ、この街の暑さだけは好かないんだ」
「そうかい、変わってるねぇ」
ぶっきらぼうに返しながら、ジャックはグラスの中のウイスキーを喉へ流し込んだ。日の高い内にも関わらず、度数の高い酒。それくらい飲まないと、やっていられなかった。
幸いにも弱かった体は時間を経るごとに回復していき、今ではこうして酒を窘める程までになっていた。
とにかくこれを飲んだら、用事を済ませて早く帰ろう。そう考え、ウィスキーを一気に飲み干した―――そんな時だった。
「なあ、知ってるか。例の噂」
「ああ。例の貴族様の」
ぴく、とジャックの身体が反応した。この辺りで貴族、といえば彼女―――父が仕えていた、リシア=マールブルグしかいない。
ここは交易の街。噂話は必ずしもこの近辺のこととは限らないが、久しぶりに国に帰ってきたことで、彼の心にも動揺があったのだろう。
気づけば、男達の話に聞き耳を立てていた。
「可哀想になぁ、随分な別嬪さんだったそうじゃないか」
「まさか国に売られるなんて……名の知れた公爵家も、地に落ちたってことかねぇ」
「……え?」
そこへ、あまりにも想像を超えた言葉が耳に入り、いよいよジャックの心に動揺が走った。
国に売られた。その一言だけで、大まかにもあの夜の真実が透けて見える。
その後も男達の話を残さずその耳で聞き、ジャックはあの日の全てを知った。
敵国の侵攻が迫った数日前、戦場から王都へ向けての街道沿いにある街の役人が、こんな偽の情報を流していた。
曰く、マールブルグ家の麗嬢は、敵国の軍にとって何か重要な情報を握っているらしい、と。
それは所詮、根も葉もない噂程度のものだったが、噂とは時に化ける。例えば、「男が猫と喧嘩した」程度であったものが、話に尾ひれがつくにつれ「虎と戦った」とその程度を甚だしく変えてしまうこともざらにあるのだ。
そんなたかが噂話でも、敵国の軍としては到底見逃すわけにはいかなかった。
そうしてまんまと進軍経路を逸らされた敵軍は、やがて国軍によって包囲、撃破されることとなったのだった。あの屋敷は連なる山々に囲まれていたから、国軍も取り囲み易かったに違いない。
国は文字通り、彼女とその家を敵軍を釣る餌にした。あの家は―――暖かかったあの場所は、国のために生贄にされたのだ。
「……」
全ての話を聴き終えた男は、ふらりと立ち上がる。
「行くのかい?」
「ああ。ありがとう、美味かったよ」
「なんだ、今来たばかりじゃないか。もう少しゆっくりしていったっていいだろう。どうだ、この前いい酒が手に入ったんだ。もう一杯やっていかないか?」
「はは、それはまた今度な。……ちょっと、野暮用が出来たんでね」
「……そうかい。また来てくれよ」
「考えとくよ」
後ろ手に、店主へ向けて手を振る男。その態度は飄々としていたが―――店の外へ向けた表情は歪んでいた。
黒々とした、憎悪によって。
☆★☆★☆
麗嬢の屋敷後には今、ランディという役人の別荘が建てられていた。
マールブルグの家が支配していた土地は国に接収され、その後彼に売り渡された。
彼は元々、地方の弱小貴族に過ぎなかった。それが何故、1つの街を治めることが出来たのか。何故、彼にその土地を所有することが許されたのか。それは間違いなく、彼が計画の首謀者であり、彼女という生贄をもって甘い汁を吸い続けた男であったからに違いなかった。
ジャックが調べることが出来たのはそのことと、満月の夜に彼がたった1人だけ従者を連れて、お忍びでこの別荘に宿泊するらしいという情報だった。
雲1つない月夜。昼間に照りつけていた太陽は眠りに堕ち、神秘の月明かりだけが辺りを照らす暗闇の世界。
その中を、ジャックは黒い上着を纏い歩いていた。
腰には、街で買った1振りの剣。鍛冶屋の親父に散々値切らせて買った、上質な業物だ。
上着のフードに隠れた顔からは彼自身の金髪が僅かに覗き、その奥からは鋭い眼光が眼前を凛と見つめている。
不意に立ち止まった、彼の目と鼻の先。そこに、ランディの別荘が建っていた。
楽しかったあの頃と、全く変わらぬ景色。砂だらけの商業の街から離れて、温暖で草木の生い茂る土地に建っているのはしかし、あの屋敷と寸分の共通点もない、見たこともない建造物でしかなかった。
ジャックは足を止め、暫しその光景を見つめていた。しかしややあって再び歩き出すと、剣を引き抜いて、物音などに構いもせずに玄関の扉を叩き割った。
ガラン、と大きな音が建物内部に反響する。建物の中にいる人間―――ランディとその従者には気づかれただろうが、ジャックはそれでも構わなかった。
これからしようとしていることを思えば、そんなことを心配したところで無意味なのだから。
「何者だ?」
剣を鞘に収めたジャックが2階へ上がろうとした、その時だった。2階の通路から、1人の男が彼に声をかけた。
ガウンを纏い、薄く髭を生やした中年の男の顔は如何にも小物に見えたが、何より身に付けている装飾品の類が、彼をそれなりの地位に見せている。
「……お前がランディか」
「いかにも、私がランディ=ハムソンである。この別荘が私のものと知っているのか、不法侵入者め」
厭らしいニヒルな笑みを浮かべながら、ランディは声高らかに言い放つ。自分が今、どんな人間と相対しているのか、全く理解していない。
「ああ、よーく知ってるさ……マールブルグを食い物にして、国に取り入ったハイエナだろ?」
「貴様、まさか……!?」
ジャックの言い様に、ランディも漸く彼が全てを知っていることを悟ったようだ。だが、その意図までは読みきれなかったらしい。一瞬驚愕に見開かれた目が、今度は卑しいモノを見るような目に変わる。
「ふん、誰も彼も考えることは同じだな。……いくら欲しい?」
「何だと……!?」
「特別に、貴様の言い値を払ってやる。言ってみろ」
ランディはどうやら、ジャックがここを訪れた理由を、己を脅し、金をせびることだと勘違いしたらしい。あまりに金頼みの小物らしい考え方に、さすがのジャックも絶句してしまう。
「……そんなことを頼みに来たんじゃない」
「何?……なるほど、では地位か。解った。私の口利きで、如何ようにも……」
「違うと言っているっ!」
ランディの態度に、遂に業を煮やしたジャック。ランディの言葉をも遮って剣を引き抜き、彼へ向けて襲い掛かった。
突然のことに驚き、怯えた目で見るのみで動けない様子のランディに、ジャックは自らの剣の勝利を確信した。
あの暖かい日々を、幸せを奪ったこの憎き男に復讐を。それこそが、ジャックがここへ来た目的であったのだ。
だが―――。
「なっ……!?」
―――ジャックがそれを遂げることは、叶わなかった。
横から割り込んだ影が、ジャックの剣を受け止める。
金属同士のぶつかり合う音が、屋敷の中に響いて消えた。
「おお……おお! よくやったぞ!」
「馬鹿な、何故……何故、貴方が此処に……!?」
腰を抜かした情けない体勢で、突然の加勢にランディが息巻く。
その一方で、勝利を確信していたジャックは驚愕の表情のまま固まっていた。
否、それだけではない。何故なら、今彼の目の前にいるのは、彼を驚愕させるに十分過ぎる存在であったのだから。
「何故貴方が……リシアがここにいるんだっ!?」
ジャックの叫びにも、その姿にも一切の動揺を見せず―――屋敷の真の主たるリシア=マールブルグは、鋭い視線をジャックへ送り続ける。
その姿は、間違えようもなかった。美しかった肌には痛々しい火傷の跡が走り、片目には黒い眼帯をしているが、それでいて未だ美しさを失わない容貌は紛れも無く、リシア=マールブルグそのものであった。
ジャックの心は、完全に混乱していた。死んだはずの人間と―――それも、嘗て自分が恋焦がれていた女性との再会に、動揺しないはずがない。
そんな彼の心中を悟ってか、見つめ合う2人を傍から見ていたランディが言った。
「ははははっ……驚いたか! この女は、私の忠実なる僕なのだ。やってしまえ、リシア!」
「はい、ランディ様」
「お嬢様っ!?」
ランディの声に答え、白銀の剣を構えたリシアはジャックへ襲いかかった。
咄嗟の剣閃を、ジャックはランディを斬るはずであった剣で防ぐ。ギリギリと鋼が擦れ合い、剣と剣がせめぎ合う。
「お嬢様っ、リシアお嬢様っ!? 僕です、ジャックですっ!」
「ジャック……? 知らない、貴方なんて知らないっ! 私には……何も解らないっ!!」
「くっ……!?」
癇癪を起こしたように叫ぶリシアは、ジャックの胴を蹴り飛ばして鍔迫り合いを解いた。
そして一気に跳躍し、ジャックの腹を狙い剣の切っ先を突き付ける。
衝撃に呻く時間は与えられなかった。痛みに耐えて横に転がり、急所を狙う突きを避ける。その後少し遅れて、リシアの剣が床に突き刺さった。
「まさか…記憶、喪失……!?」
「そう、私にはランディ様に助けていただいた以前の記憶がない。……貴方は誰? 私の何なの? 私は貴方の何なのよっ!?」
彼女の方も、自分を知っているかもしれない相手に出会って必死なのだろう。それが解らぬ程、ジャックも鈍感ではない。
ジャックには彼女以上に混乱している自信があった。リシアの中に自分はいない。彼女は自分の愛する人だ。胸を張ってそう言えるし、この復讐も彼女を愛していたからこそ実行したものだ。
けれど、では彼女にとって自分は何だったのか。彼女自身が記憶を失ってしまった以上、それはもう確かめることは出来ない。そして今、彼女は自分の敵で、その手の剣で牙を剥いている。
剣を振りながら―――愛する人は、彼の目の前で泣いていた。
「ぼ、僕は、貴方の……」
「答えられないの?……じゃあ、死んで頂戴っ!」
動揺するジャックの剣筋が乱れる。彼の心の動揺は直接身体の動きとなって現れ、リシアの強打に剣を弾かれたジャックに、リシアの剣が上段から振り下ろされた。
「……あっ……!」
気づいたが、その手に既に剣はない。
己の死を覚悟して、しかし恐怖に思わず表情が歪むジャックの顔が目に入り、リシアは苦渋の表情を浮かべた。
そして、彼女の本能が―――奥底に眠る彼女の本当の記憶が、囁いた。〝彼を殺してはならぬ。彼は、私の大切な―――〟
「……あ、ぇ……?」
そんな、訳の解らぬ声を上げたのは、ジャックだった。彼は、愛する人の剣に切り裂かれなかった。彼女の剣はジャックの鼻先を掠め、彼のすぐ目の前の床を抉っていた。
その上にポタポタと液体が落ち、木で出来た床を黒く染めていく。
―――彼女の、涙だった。
「なんで……どうしてっ!?」
再び振るわれる剣。しかし、その剣筋は完全に乱れていた。
剣閃を躱しながら、動揺する心を必死に抑え、ジャックはリシアに飛びついた。
「あっ……!」
「リシア様っ……!」
決死の思いで、ジャックはリシアをきつく抱きしめた。
涙が彼女の目からこぼれ落ちるのと同時、彼女の手から剣がするりと抜け落ちて、カランと渇いた音を立てた。
「……ジャ、ック……!」
「お嬢様……」
彼女は、泣いていた。自分の名を呼び、嗚咽を漏らしていた。
それは、いつも凛としていた彼女に似つかわしくない姿であった。しかし、だから何だと言う。彼女は戻ってきたのだ。自分の下に。あの時の約束のとおりに生きて帰ってきたのだ。それ以上のことが他にあるというのか。ジャックは歓喜した。
今すぐ、今1度彼女を抱きしめたい衝動に駆られたが、それを無粋な男の声が遮る。
「ええい、何をやっている! さっさと賊を討伐せんかっ!」
「……貴方こそ、何を言っているのかしら?」
「な、何だとっ!?」
リシアの言葉に、いよいよランディは慌てた。無理もない。これまで懐柔していたはずの女が、突如態度を変えて己に剣を向けたのだから。
しかし、これぞ因果応報。己の罪は必ず、己に厄となって降り注ぐ。
ランディ=ハムソン。彼の罪は今、ここで精算される。
「漸く思い出した。よくも、私の城を好き勝手やってくれたわね」
「く、くくくく国のためだったのだ! それとも何か、お前は国が滅びてもよかったというのかっ! 筆頭貴族であるマールブルグ家当主であった貴様がっ!?」
「ええ、そうよ。私は国なんてどうでもいい。私は……私には、彼がいてくれればそれでよかった。暖かい使用人の皆と、楽しく暮らせていればそれでよかったの」
涙を拭い、以前と変わらぬ凛とした笑顔を浮かべてジャックを振り返るリシア。
その姿が堪らなく嬉しくて、ジャックの顔にも笑顔が浮かぶ。かなり久方振りの、心からの笑顔だった。
「その場所を……私の城を奪った責任、ここでしっかり取ってもらうわ! ジャック!」
「はいっ!」
リシアの呼びかけに、ジャックは嬉々として返事を返しながら、彼女の手から剣を受け取り、真っ直ぐにランディの下へと駆けた。
もう、彼を阻んでいたリシアという壁は消えた。彼の身を守れるのは、もう彼自身しかいない。
「くそ、こんなところで死んでたまるかっ!」
ランディは、傍らに立てかけてあった杖を手に取った。それは半ばからするりと外装が抜け落ちて、銀の光沢を放つ刃がその姿を月光の下に現した。
所謂、仕込杖という武器である。
だが、そもそもの実力が違いすぎた。ジャックは、気の弱さを憎しみで克服し、身体が治ってからこの数年間、一時も鍛錬を欠かすことがなかった。一方のランディは長く貴族の位置に安住し、更に己の力で努力するということを長らくしてこなかった人間。
そちらが強いのか、そんなものは火を見るより明らかであった。
加えて、迷うもののなくなったジャックを彼が止めることなど出来るはずもない。あっという間に杖を弾かれ、丸腰に追い込まれるランディ。
その表情からは既に余裕は微塵も残っておらず、恐怖に引きつっていた。
「ランディ=ハムソン、覚悟っ!」
「ま、待て! 解った、ではこうしよう。お前達に、私の領地を半分やる! それで手を打とうじゃないか、なっ!?」
この後に及んで、まだ命乞いなどをするランディにリシアの口から深いため息が漏れる。今までもこうして、金にモノを言わせて乗り越えてきたのだろう。
「ランディ。アンタに1ついいことを教えてやる」
「な、何?」
「賄賂が通用するのは、腹が腐ったお偉いさんだけってことを……さ」
言うと同時に、ランディの腹を剣が貫いた。銀の光沢を放つ剣の刀身を、ランディの赤黒い血が汚していく。
まだ何か言いたげに、縋るような目で見上げてくるランディを冷たく見下ろし、ジャックは最後のダメ押しとばかりに刺さった剣を動かして脇腹を深く切り裂いた。
堪らずランディは、耳障りな断末魔を上げた後―――力なく、その命を散らせた。
「はぁ、はぁ……」
息を荒らげるジャック。憎んでいた相手とはいえ、初めて人を殺めたのだ。無理からぬことであろう。
そのジャックの下へ、リシアがゆっくりと歩み寄ってくる。
「ジャック」
「リシア、様……」
微笑むリシア。
ジャックの呟きに、彼女は首を横に振った。
「違うわ。もう、私は貴族じゃない。ただのリシアよ」
「それでも……それでも僕にとっては、貴女は永遠にリシア様ですっ」
叫ぶように言って感極まったのか、ジャックはリシアに抱き着いた。
漸く出会えた―――積年の思いが、彼にそうさせていた。
リシアもまた同じ思いなのか、彼の思いを全身で受け止める。彼の身体を優しく包み込んで、彼女自身声も上げず、ただ涙を流していた。
暫く、そうしていただろうか。やがて離れた2人は、互いに見つめ合った。
目を閉じるリシア。しかし、ジャックも男とはいえ、憎しみに人生を費やしてきた彼に女性経験などというものは全くなく、どうしていいか解らず突っ立ったまま。
その様子に、リシアは唇を尖らせた。
「……もう、この子ったら。一体いつの間に、こんなに意地悪になったのかしら」
「す、すみません……」
申し訳なさげに謝罪の言葉を述べるジャックへ、リシアはまるで手のかかる我が子を見るような表情で、ジャックへ近付き―――。
「愛してるわ、ジャック」
そっと、口づけた。
一度は、動乱が2人を引き裂いた。けれど彼らはこうして、再び巡り会うことが出来た。彼らの未来は、漸く約束されたのだ。
―――こうして、月光の下で愛を誓い合う2人の下、暗い空家は静かになった。