何をやっても上手くいかない侯爵令嬢ですが、今度こそ幸せになりますわ! えっ、斬首刑!? ちょっと待ってくださいましぃぃぃ!!
侯爵令嬢、ベルティナ・ラズフェルドには、三つの長所があった。
一つ、容姿端麗。
二つ、家柄良好。
三つ、どんな絶望的な状況でも、根拠のない自信を失わないこと。
そして、致命的な短所が一つ。
何をやっても、絶対に上手くいかないのである。
料理をすれば厨房が燃え、刺繍をすれば指が血まみれになり、魔法を使えば屋敷の壁が吹き飛ぶ。
善意で手を差し伸べた相手は不幸になり、助けようとした動物には噛まれ、恋をすれば相手の人生まで狂わせる。
しかし、本人は今日も元気だった。
「おーっほっほっほっ! ご覧なさいませ! ついにわたくしの時代がやってまいりましたわぁぁぁ!!」
王都の朝空に、よく通る少女の声が響き渡る。
その三時間後。
「いやあああああっ!! なんでですの!? どうして毎回こうなりますのぉぉぉ!?」
王都の朝空に、同じ少女の悲鳴が響き渡った。
そして半年後。
彼女は処刑台の上で、まったく同じ台詞を叫ぶことになる。
これは、決して諦めなかった一人の侯爵令嬢が、何度失敗しても立ち上がり、努力と友情と愛情によって幸せを掴みかけた末に、最悪の結末を迎えるまでの物語である。
ちなみに本人は、最後まで自分が幸せになると信じていた。
◇ ◇ ◇
「お嬢様。起きてくださいませ。朝でございます」
「……あと五分」
「昨日も同じことをおっしゃいました」
「では今日は四分にして差し上げますわ。わたくしの寛大さに感謝なさい」
「すでに昼前でございます」
「なんですってぇ!?」
絹の寝具を蹴り飛ばし、ベルティナ・ラズフェルドは勢いよく跳ね起きた。
十八歳。
王国有数の名門、ラズフェルド侯爵家の一人娘。
淡い蜂蜜色の長い髪に、澄んだ青い瞳。雪のように白い肌と、丁寧に整えられた顔立ちは、黙っていれば誰もが振り返るほど美しい。
黙っていれば、の話だが。
「大変ですわ! 今日は王立魔法院の最終試験ではありませんの! どうしてもっと早く起こしてくださらなかったの!?」
「午前六時から七度お声がけいたしました」
「八度目で起きたかもしれないでしょう!?」
「八度目は花瓶を投げられました」
「そ、それは寝ぼけていただけですわ!」
淡々と返答するのは、専属侍女のミュゼリア・トルカ。
二十四歳。黒髪をきっちりと結い上げた、灰色の瞳を持つ女性である。
優秀な侍女として知られ、主人の着替えから予定管理、護身術まで完璧にこなす才女だが、ベルティナに仕えてからというもの、表情筋の大部分が仕事を放棄していた。
彼女の日課は、主人が引き起こした問題の後始末である。
「本日の試験は午後一時からでございます。まだ間に合います」
「なぁんだ! それなら余裕ではありませんの!」
「ただし、お嬢様は昨夜、試験用の礼服を洗濯なさいましたね」
「ええ! 自立した女性になるためですわ!」
「洗濯槽に漂白魔石を三十個投入された結果、礼服は消滅いたしました」
「…………」
「現在、代わりの礼服を用意しております」
「……ねえ、ミュゼリア」
「はい」
「わたくし、もしかして洗濯の才能がありませんの?」
「洗濯だけで済めば幸いでございます」
「辛辣ぅ!!」
ベルティナは枕を抱き締めて寝台の上を転げ回った。
だが、いつまでも落ち込んでいる彼女ではない。
むくりと起き上がると、両手を腰に当てて胸を張る。
「ふふん! 今日こそ見返して差し上げますわ! わたくしはもう、以前のわたくしではありませんもの!」
「先週も同じことをおっしゃっていました」
「先週のわたくしより、今週のわたくしのほうが成長していますわ!」
「先週は庭園を燃やされました」
「今週は燃やしていませんわ!」
「昨日、温室が爆発いたしました」
「燃えてはいませんわ!!」
胸を張る主人を見つめ、ミュゼリアは静かに目を閉じた。
神よ。
どうか本日も、王都が無事でありますように。
◇ ◇ ◇
王立魔法院。
王国中の優秀な魔法使いが集う、由緒ある教育機関である。
魔法の才能を持つ貴族の子女にとって、その卒業資格は一生の名誉となる。
ベルティナは、この学院に六年間通っていた。
本来なら四年で卒業するはずだった。
理由は簡単。
二度、留年したのである。
「ベルティナ嬢。本当に、今日が最後の試験です」
「もちろん存じておりますわ!」
「今回も不合格となれば、学院規定により退学となります」
「ですから! 今日こそ華麗に合格して差し上げますと言っておりますでしょう!」
疲れ切った声で説明するのは、魔法院の主任教官、ゼルヴァン・グリオス。
四十六歳。痩せた長身に銀縁眼鏡をかけた、王国でも指折りの魔法理論研究者である。
魔法制御の権威として知られる一方、ベルティナの指導を担当してから急激に白髪が増えた。
現在、彼の最大の研究課題は、ベルティナが魔法を使っても建物が壊れない方法を発見することであった。
「では、試験内容を説明します。目の前の水晶球に、一定量の魔力を注いでください。球が青く光れば合格です」
「簡単ですわね!」
「爆発させないでください」
「わかっていますわ!」
「割らないでください」
「わかっていますってば!」
「燃やさないでください」
「先生! わたくしを何だと思っていますの!?」
「過去五年間で、学院の修繕費を最も増加させた生徒です」
「数字で殴らないでくださいましぃ!」
周囲に集まった生徒たちから笑いが漏れる。
ベルティナは頬を膨らませた。
確かに、これまでの失敗は認めよう。
初めての火炎魔法では、自分の前髪を燃やした。
初めての水魔法では、教室を水没させた。
初めての治癒魔法では、怪我をした教師の頭髪だけが異常な速度で伸び続けた。
あの教師は現在、髪を毎朝切ることを諦め、三日に一度まとめて刈り取っているらしい。
しかし!
今日の自分は違う。
昨夜、古い魔導書を読み込み、魔力制御の新しい方法を発見したのだ。
魔力を体内で循環させ、余分な力を逃がしながら放出する。
理論上、これなら失敗しない。
「さあ、ご覧なさい! これが新生ベルティナ・ラズフェルドの実力ですわ!」
彼女は水晶球に手をかざした。
深呼吸。
精神集中。
魔力循環。
そして、放出。
ぽうっ。
水晶球が、青く輝いた。
「…………」
「…………」
「…………」
教室が静まり返る。
ゼルヴァンが眼鏡を外した。
もう一度かけ直した。
水晶球を覗き込む。
確かに青い。
割れていない。
燃えていない。
爆発もしていない。
「……合格、です」
「…………え?」
「合格です、ベルティナ嬢」
「…………」
ベルティナの唇が震えた。
大きな青い瞳に、じわじわと涙が浮かぶ。
「ご……」
「ご?」
「合格……?」
「はい」
「わ、わたくしが……?」
「はい」
「ほ、本当に……?」
「本当です」
「…………」
次の瞬間。
「やったあああああああああああああああああっ!!」
ベルティナは両手を突き上げて跳び上がった。
「見ました!? 見ましたわよね!? わたくし、やればできる子だったんですのよぉぉぉ!!」
「お、おめでとうございます!」
「先生! ありがとうございます! わたくし、先生のことを一生忘れませんわ!」
「それは光栄です」
「先生が毎回毎回、嫌味ったらしく説教してくださったおかげですわ!」
「……褒められているのでしょうか」
「もちろんですわ! 先生の嫌味は世界一ですもの!」
「嬉しくありません」
ベルティナは泣きながら笑い、笑いながら泣いた。
六年間。
何度も失敗した。
何度も馬鹿にされた。
何度も諦めそうになった。
それでも、ようやく掴んだ合格だった。
周囲の生徒たちも拍手を送る。
ゼルヴァンは小さく微笑んだ。
「よく頑張りましたね、ベルティナ嬢」
「せんせぇぇぇ!!」
感極まったベルティナが飛びつく。
ゼルヴァンは受け止めきれず、後ろに倒れた。
その拍子に、彼の腰が嫌な音を立てた。
「ぐあっ!?」
「せ、先生!? どうなさいましたの!?」
「こ、腰が……!」
「大変! 治癒魔法ですわね!?」
「待ちなさい! それだけは!」
「大丈夫ですわ! 今日のわたくしは違いますもの!」
「やめろおおおおおお!!」
数分後。
ゼルヴァンの腰痛は完治した。
代わりに、彼の眉毛が膝まで伸びた。
それでも。
ベルティナは合格したのである。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
ラズフェルド侯爵家では、盛大な祝宴が開かれていた。
「お父様! ご覧くださいませ! 卒業証書ですわ!」
「おお……おおお……!」
娘の差し出した証書を受け取り、侯爵ヴォルディス・ラズフェルドは感激のあまり声を詰まらせた。
五十二歳。威厳ある口髭と大柄な体格を持つ、王国の財務を支える重臣である。
冷静沈着な政治家として恐れられているが、一人娘のベルティナにだけは異常なほど甘い。
彼女が幼い頃、初めて作った泥団子を「芸術作品」として保存しようとした過去を持つ。
「よくやった……! 本当によくやったぞ、ベルティナ!」
「お父様ぁ!」
「お前が学院に入学した日のことを、昨日のように覚えている……!」
「ええ!」
「あの日、お前は入学式の壇上を燃やした……!」
「その話はもういいですわ!」
「二年目には校長の銅像を溶かし……!」
「お父様!?」
「三年目には学院の池から巨大な蛙を召喚し……!」
「やめてくださいましぃ!」
「それでも……それでも卒業したのだなぁ!」
侯爵は涙を流しながら娘を抱き締めた。
ベルティナも負けじと泣き叫ぶ。
「お父様ぁぁ! わたくし、頑張りましたのよぉぉ!」
「ああ、知っているとも!」
「もう誰にも、出来損ないなんて言わせませんわ!」
「もちろんだ!」
「これからは立派な侯爵令嬢として、王国のために働きますわ!」
「素晴らしい!」
「そして素敵な殿方と結婚して、可愛い子供を三人くらい産んで、毎日お菓子を食べながら優雅に暮らしますの!」
「途中から目的が変わっていないか?」
「細かいことはいいんですの!」
父娘は笑った。
長年仕えてきた使用人たちも、目元を押さえている。
ミュゼリアだけは、壁際で静かに茶を飲んでいた。
「……平和ですね」
彼女が呟いた直後。
「そうですわ! 今日はお祝いですもの! わたくしが皆さんにお料理を振る舞いますわ!」
食堂の空気が凍った。
侯爵の笑顔が消える。
使用人たちが一斉に顔を上げる。
ミュゼリアが茶器を置いた。
「お嬢様」
「なんですの?」
「それだけは、おやめください」
「どうしてですの!?」
「前回、厨房が全焼いたしました」
「あれは火加減を間違えただけですわ!」
「前々回は毒茸を食材として使用されました」
「だって綺麗な色でしたもの!」
「その前は鍋から魔物が生まれました」
「美味しそうな匂いはしていましたわ!」
「お嬢様」
「なんですのよ!」
「どうか、人類のために包丁を置いてください」
「ひどいですわぁぁぁ!!」
その夜、ベルティナは泣きながら料理を諦めた。
代わりに用意された豪華な菓子を、誰よりも大量に食べた。
そして、人生で初めてこう思った。
自分は、少しずつ幸せになっているのかもしれない。
◇ ◇ ◇
卒業から一週間後。
ベルティナに、思いがけない知らせが届いた。
「王宮から……招待状?」
朝食の席で封筒を開いた彼女は、目を丸くした。
そこには、王国第一王子が主催する慈善舞踏会への招待が記されていた。
「お父様! これはどういうことですの!?」
「そのままの意味だ。殿下がお前を招待されたのだよ」
「で、殿下が!? このわたくしを!?」
「そうだ」
「……もしかして」
ベルティナの頬が赤くなる。
「もしかして、殿下はわたくしに気があるのではありませんこと!?」
「可能性はあるな」
「きゃああああああっ!!」
ベルティナは椅子から跳ね上がった。
「ついに! ついにわたくしにも春が来ましたのね! 長かったですわ! あまりにも長かったですわぁ!」
「まだ招待状が届いただけだぞ」
「お父様! わたくし、王妃になりますわ!」
「話が早い!」
「王妃になったら毎日ケーキを食べますの! それから王宮の庭園に巨大な噴水を作って、そこから果実酒を流しますわ!」
「国政を考えなさい!」
「もちろん考えますわ! 国民全員に週一回、お菓子を配りますの!」
「財務大臣が泣くぞ!」
「お父様が財務大臣でしょう!?」
「そうだった!」
父娘は揃って笑った。
ミュゼリアは静かに天井を見上げた。
神よ。
どうか王国をお守りください。
◇ ◇ ◇
舞踏会当日。
王宮の大広間は、煌びやかな光に包まれていた。
天井から吊り下げられた魔導灯が星のように輝き、磨き上げられた大理石の床には貴族たちの姿が映り込む。
楽団が優雅な旋律を奏で、色とりどりのドレスを纏った令嬢たちが談笑していた。
その中央に、ベルティナは立っていた。
「ふふふ……完璧ですわ」
今日の彼女は、淡い水色のドレスに身を包んでいた。
髪には小さな真珠を散りばめ、首元には母の形見である青い宝石の首飾り。
化粧も控えめで、普段の騒がしささえなければ、まさしく深窓の令嬢と呼ぶにふさわしい姿だった。
「お嬢様。本日はどうか、余計なことをなさらないでください」
「わかっていますわ!」
「お酒は控えめに」
「わかっています!」
「魔法は使用禁止です」
「わかっていますってば!」
「殿下に飛びつかないでください」
「……それは場合によりますわ」
「場合によらず禁止です」
「厳しすぎますわ!」
そのとき。
「ベルティナ・ラズフェルド嬢」
穏やかな男性の声が響いた。
振り返ったベルティナは、思わず息を呑む。
そこに立っていたのは、金髪に翡翠色の瞳を持つ美しい青年だった。
第一王子、ルシェリオ・ヴァン・アルディナ。
二十二歳。次期国王として期待される王位継承者であり、慈善事業に熱心なことで知られている。
穏やかな笑顔と誠実な物腰から貴族令嬢たちの人気は高いが、王族としての責任感も強く、政治的な判断には慎重な人物である。
「今宵は来てくれてありがとう。卒業したそうだね。おめでとう」
「で、殿下……!」
ベルティナは震える手でドレスの裾をつまんだ。
深く一礼する。
完璧な礼だった。
少なくとも、礼を終えるまでは。
「わ、わたくしこそ! このような素晴らしい舞踏会にお招きいただき、恐悦至極に存じますわ!」
「そんなに緊張しなくてもいいよ」
「き、緊張なんてしておりませんわ!」
「そうかい?」
「ええ! わたくし、これでも立派な侯爵令嬢ですもの!」
胸を張った瞬間。
ぶちっ。
背中の飾り紐が切れた。
「…………」
「…………」
ドレスの背中が緩む。
ベルティナの笑顔が引きつった。
「……ミュゼリア」
「はい」
「背中が……」
「存じております」
「どうしましょう……」
「動かないでください」
侍女が素早く背後に回り、隠し針で紐を留める。
王子は笑いを堪えていた。
「君は相変わらず面白いね」
「お、面白い!?」
「昔、王宮の庭で会ったことを覚えているかな?」
「……え?」
「君が七歳の頃だ。池に落ちた私を助けようとして、自分も飛び込んできた」
「あっ!」
ベルティナは目を見開いた。
思い出した。
幼い頃、王宮で迷子になった彼女は、池に落ちた少年を発見した。
助けようと飛び込んだものの、泳げなかったため、二人揃って溺れかけたのである。
「結局、近衛兵に助けられたけれどね」
「そ、そんなこともありましたわね……」
「君は泣きながら言ったんだ。『助けようとしたんですのに、どうしてわたくしまで助けられているんですの!?』って」
「忘れてくださいましぃ!」
「でも、嬉しかったよ」
王子は微笑んだ。
「君は失敗したけれど、私を助けようとしてくれた。それだけは本当だからね」
「…………」
ベルティナの胸が、どくんと鳴った。
これまで何度も失敗してきた。
そのたびに叱られ、笑われ、呆れられてきた。
けれど。
失敗した自分を、こんなふうに肯定してくれる人がいるなんて。
「殿下……」
「よければ、一曲踊っていただけるかな?」
「…………!」
ベルティナは涙ぐんだ。
そして。
「もちろんですわああああああっ!!」
勢いよく王子の手を取った。
勢いが強すぎて、王子の肩が外れかけた。
「いっ!?」
「殿下!?」
「だ、大丈夫……!」
「治癒魔法を!」
「それは結構だ!」
王子は笑いながら首を振った。
ベルティナも笑った。
その夜。
彼女は人生で初めて、舞踏会で最後まで踊り切ることに成功した。
途中で三回足を踏み、二回裾を踏み、一回だけ王子の靴を脱がせてしまったが、それでも最後まで踊れたのである。
曲が終わると、王子は彼女の手を取り、そっと口づけた。
「また会おう、ベルティナ」
「……はい!」
彼女は心の底から笑った。
今度こそ。
本当に、幸せになれる。
そう信じた。
◇ ◇ ◇
舞踏会から一ヶ月後。
ベルティナは王宮の慈善事業に参加することになった。
貧しい人々へ食料を配り、病人を治療し、孤児院を支援する。
王子が主導する事業に、貴族令嬢として協力するのである。
「素晴らしいですわ! わたくし、こういうことがしたかったんですの!」
ベルティナは両手を広げ、満面の笑みを浮かべた。
「困っている人を助けて、みんなから感謝されて、殿下にも褒められて……ふふふ! 完璧な計画ですわ!」
「最後の部分が本音でございますね」
「もちろん人助けが第一ですわ!」
「では殿下がいらっしゃらなくても参加なさいますか?」
「…………」
「お嬢様?」
「……人助けが第一ですわ!」
「間がございましたね」
「うるさいですわ!」
そんな二人の前に、一人の女性が現れた。
「あなたがベルティナ様ですね」
栗色の髪を肩まで伸ばした、穏やかな顔立ちの女性だった。
名はネフィルカ・エストラム。
二十七歳。王都の救護院を統括する女性医師であり、平民出身ながら優れた治癒魔法と医療知識によって王宮から信頼されている。
気さくで面倒見がよく、貧しい人々のために私財まで投じる人物だった。
「殿下からお話は伺っています。ぜひ、お力を貸してください」
「もちろんですわ! わたくしに任せてくださいまし!」
「ありがとうございます。では、まずは炊き出しからお願いできますか?」
「炊き出し!」
ベルティナの瞳が輝いた。
「お料理ですわね!?」
「はい。大鍋で野菜の煮込みを作ります」
「得意ですわ!」
ミュゼリアが、ものすごい勢いで振り返った。
「お嬢様!?」
「何ですの!?」
「得意ではございません!」
「今日は違いますわ!」
「その台詞は危険です!」
「わたくし、成長したんですのよ!」
ネフィルカは二人のやり取りを見て、楽しそうに笑った。
「大丈夫ですよ。最初は野菜を洗うところから始めましょう」
「野菜を洗う!」
「ええ。それなら簡単でしょう?」
「もちろんですわ!」
ベルティナは張り切って井戸へ向かった。
そして十分後。
井戸が壊れた。
「…………」
「…………」
「…………」
「……どうしてですの?」
ベルティナは呆然と呟いた。
水を汲もうとして滑車を引いたところ、力を入れすぎて滑車が外れ、桶が井戸の底へ落下したのである。
「お嬢様」
「……はい」
「水汲みも禁止でございます」
「そんなぁぁぁ!!」
しかし、ネフィルカは怒らなかった。
「では、野菜を運ぶお仕事をお願いしますね」
「……よろしいんですの?」
「もちろんです。できることから始めればいいんですよ」
その言葉に、ベルティナは目を潤ませた。
「ネフィルカ様……!」
「はい?」
「わたくし、あなたのことが大好きになりましたわ!」
「ふふ。ありがとうございます」
「お友達になってくださいまし!」
「喜んで」
「きゃあああっ!」
ベルティナは嬉しさのあまり飛びついた。
ネフィルカは受け止めきれず、二人揃って野菜の山へ倒れ込んだ。
大量の人参が床を転がる。
ミュゼリアが静かに顔を覆った。
「……また仕事が増えました」
けれど、その日の炊き出しは無事に終わった。
ベルティナは野菜を運び、食器を並べ、食事を配った。
途中で三回転び、二回皿を割り、一度だけ自分のドレスに煮込みをこぼしたが、それでも最後まで働いた。
そして、食事を受け取った幼い少女が、彼女に微笑んだ。
「お姉ちゃん、ありがとう」
「…………」
ベルティナは固まった。
少女は小さな手を振り、母親のもとへ駆けていく。
その背中を見つめながら、ベルティナはぽつりと呟いた。
「……ありがとう、ですって」
「はい」
「わたくし、何も壊していませんわよね?」
「井戸を壊されました」
「それ以外ですわ!」
「……そうですね」
「誰かの役に立てたんですのね」
ミュゼリアは、少しだけ微笑んだ。
「ええ。お嬢様」
ベルティナは両手で顔を覆った。
「う、うう……!」
「お嬢様?」
「嬉しいですわぁぁぁ!!」
涙がぽろぽろとこぼれる。
今まで、自分は何をやっても失敗してきた。
けれど、今日。
確かに誰かを笑顔にできた。
その事実が、たまらなく嬉しかった。
◇ ◇ ◇
それから三ヶ月。
ベルティナは慈善事業に通い続けた。
最初は失敗ばかりだった。
包帯を巻けば患者を椅子ごと縛り上げ、薬草を選べば雑草を混ぜ、子供に絵本を読めば登場人物の名前を全部間違えた。
それでも、彼女は諦めなかった。
失敗すれば謝った。
叱られれば泣いた。
泣いた翌日には、また元気にやってきた。
いつしか、救護院の人々は彼女を待つようになった。
「ベルティナお姉ちゃん!」
「きゃあ! みんな! 今日も元気ですのね!」
「今日は何を壊すの?」
「壊しませんわよ!?」
「昨日は椅子を壊したよ!」
「あれは椅子が弱かったんですわ!」
「一昨日は窓を割った!」
「窓が薄かったんですの!」
「その前は……」
「もうやめてくださいましぃ!」
子供たちは笑った。
ベルティナも笑った。
ネフィルカは、その光景を温かく見守っていた。
王子も、時折救護院を訪れるようになった。
「随分と慕われているね」
「当然ですわ! わたくし、子供たちの人気者ですもの!」
「そうだね」
「殿下も、もっと褒めてくださってよろしいんですのよ?」
「では、よく頑張っているね。ベルティナ」
「……えへへ」
褒められたベルティナは、照れくさそうに笑った。
王子はそんな彼女を見つめ、静かに言った。
「君に、お願いしたいことがあるんだ」
「お願い?」
「ああ。王国では今、各地で流行病が広がっている。治療には特別な薬が必要なんだけれど、材料が不足していてね」
「まあ……!」
「ネフィルカたちが新しい薬を研究している。君にも協力してほしいんだ」
「もちろんですわ!」
ベルティナは即答した。
「わたくし、何でもいたしますわ!」
「ありがとう」
「殿下のお役に立てるなら、火の中でも水の中でも!」
「火の中には入らないでね」
「では水の中に!」
「水にも入らないで」
「注文が多いですわね!?」
王子は笑った。
ベルティナも笑った。
そして、その日。
彼女は運命を変える仕事を引き受けた。
◇ ◇ ◇
王都の地下に設けられた王立薬草研究所。
そこでは、流行病に対抗する新薬の開発が進められていた。
研究室の中央には、巨大な銀色の釜が置かれている。
釜の周囲には複雑な魔法陣が刻まれ、天井から吊るされた魔石が淡く輝いていた。
「これが、新しい治療薬ですか?」
ベルティナは興味津々で釜を覗き込んだ。
ネフィルカが頷く。
「ええ。病を抑えるための薬液です。ただし、まだ完成していません」
「まあ! では、わたくしが完成させて差し上げますわ!」
「お気持ちは嬉しいですが、まずは説明を聞いてくださいね」
「もちろんですわ!」
ネフィルカは苦笑しながら、机の上に並べられた薬草を指さした。
「この薬は、三種類の薬草と浄化魔法を組み合わせて作ります。魔力の量を一定に保つ必要があるため、制御の得意な人に協力してもらいたいんです」
「制御!」
「はい。殿下から、魔法院を卒業されたと伺いました」
「ええ! 見事に合格いたしましたわ!」
「でしたら、きっとお役に立てます」
ベルティナは胸を張った。
かつてなら、絶対に任せてもらえなかった仕事だ。
しかし今は違う。
自分には卒業資格がある。
努力して身につけた魔力制御がある。
何より、自分を信じてくれる人たちがいる。
「任せてくださいまし! わたくし、絶対に成功させますわ!」
研究が始まった。
ベルティナは慎重に魔力を注いだ。
ネフィルカが薬草を投入する。
釜の中で、緑色の液体がゆっくりと回転した。
一時間。
二時間。
三時間。
魔力は安定していた。
釜は爆発しない。
薬液も変色しない。
ネフィルカが驚いたように目を見開いた。
「……すごい」
「え?」
「ベルティナ様、すごいです! 魔力が完全に安定しています!」
「ほ、本当ですの!?」
「ええ! この調子なら、完成できます!」
「…………!」
ベルティナの胸が高鳴った。
やった。
今度こそ。
今度こそ、自分の力で誰かを救える。
「ふ、ふふふ……!」
「ベルティナ様?」
「おーっほっほっほっ!」
彼女は高らかに笑った。
「ついに! ついにわたくしの才能が開花いたしましたわぁ!」
「はい! あと少しです!」
「これで殿下にも褒めていただけますわね!」
「きっと喜ばれますよ!」
「そして婚約! 結婚! 王妃! 毎日お菓子食べ放題ですわ!」
「最後の部分は存じませんが……!」
二人は笑い合った。
釜の中の薬液が、透明な青色へと変わる。
ネフィルカが息を呑んだ。
「……完成です」
「…………」
「ベルティナ様。完成しました!」
「…………!」
ベルティナは両手を口元に当てた。
目から涙が溢れる。
「ほ、本当に……?」
「ええ。本当に」
「わたくしが……作ったんですの?」
「私たちで、です」
「……わたくし、役に立てたんですのね」
「もちろんです」
ネフィルカは彼女の手を握った。
「あなたがいなければ、こんなに早く完成しませんでした」
「ネフィルカ様ぁ……!」
「よく頑張りましたね」
「うわあああああん!!」
ベルティナは泣き崩れた。
今までの失敗が、次々と脳裏に浮かぶ。
燃えた厨房。
壊れた温室。
笑われた学院生活。
何度も呆れられた日々。
けれど。
ようやく。
ようやく、自分にもできた。
「わたくし……!」
涙を拭い、顔を上げる。
「わたくし、これからも頑張りますわ!」
ネフィルカは微笑んだ。
「ええ。一緒に頑張りましょう」
その日の夕方。
完成した新薬は、王宮へ運ばれた。
王子はベルティナの手を取り、深く感謝した。
「ありがとう、ベルティナ。君のおかげだ」
「殿下……!」
「君は本当に、素晴らしい女性だね」
「……っ!」
ベルティナの顔が真っ赤になる。
「そ、そんな……!」
「これからも、私のそばで力を貸してほしい」
「…………!」
彼女は息を呑んだ。
それは、まるで。
まるで、愛の告白のようだった。
「……はい」
ベルティナは、震える声で答えた。
「喜んで……!」
王子は優しく微笑んだ。
その瞬間。
ベルティナは確信した。
自分の人生は、ようやく幸せへ向かっているのだと。
◇ ◇ ◇
新薬の配布が始まった。
王都の救護院。
貴族の診療所。
地方の治療施設。
病に苦しむ人々へ、次々と薬が届けられた。
ベルティナは毎日、忙しく働いた。
薬の瓶を運び、記録を整理し、患者たちを励ました。
失敗もあった。
薬瓶を落として割ったこともあれば、書類を逆さまに綴じたこともあった。
しかし、彼女は以前のように投げ出さなかった。
失敗したら謝る。
間違えたら直す。
それを繰り返した。
ある日、救護院で一人の老婆が彼女の手を握った。
「ありがとうね、お嬢さん」
「まあ! どういたしましてですわ!」
「あなたのおかげで、孫が元気になったよ」
「……本当ですの?」
「ああ。昨日から、また走り回っている」
ベルティナは嬉しそうに笑った。
「それは何よりですわ!」
老婆は涙を浮かべた。
「あなたは、きっと神様に愛されているんだね」
「…………」
ベルティナは、少しだけ照れた。
「ふふ……そうかもしれませんわね!」
その夜。
彼女は自室で、一人静かに泣いた。
嬉しかった。
心から嬉しかった。
誰かに必要とされることが、こんなにも幸せだなんて知らなかった。
翌朝。
ベルティナはいつもより早く起きた。
ミュゼリアが驚いた顔をする。
「お嬢様……?」
「おはようございます、ミュゼリア!」
「……おはようございます」
「今日はわたくしが朝食を作りますわ!」
「おやめください」
「即答!?」
「せっかく早起きされたのですから、まずは食卓にお座りください」
「もう! 少しくらい信用してくださいまし!」
ベルティナは頬を膨らませた。
けれど、すぐに笑った。
「まあ、いいですわ! 今日はお仕事がたくさんありますもの!」
ミュゼリアは、そんな主人を見つめていた。
昔のベルティナは、自分の失敗を認めようとしなかった。
何かあれば他人のせいにして、泣いて、騒いで、最後には父親に泣きついていた。
けれど今は違う。
失敗しても、また立ち上がる。
誰かのために、努力する。
少しずつではあるが、確かに成長していた。
「……お嬢様」
「なんですの?」
「最近、とても立派になられましたね」
「…………え?」
「私は、嬉しく思います」
ベルティナは目を丸くした。
そして。
「ミュゼリアぁぁぁ!!」
勢いよく抱きついた。
「わたくし! わたくし、これからも頑張りますわぁぁ!」
「はい」
「もう失敗なんてしませんわ!」
「それは無理かと」
「そこは否定しないでくださいましぃ!」
二人は笑った。
窓の外には、明るい朝日が差し込んでいた。
その日が。
ベルティナにとって、最後の平穏な朝になるとも知らずに。
◇ ◇ ◇
異変が起きたのは、正午を少し過ぎた頃だった。
王都の鐘が、突然鳴り響いた。
それは火災でも、敵襲でもない。
疫病警報。
王国で最も恐れられる鐘の音だった。
「……え?」
救護院で薬瓶を整理していたベルティナは、手を止めた。
窓の外から、悲鳴が聞こえる。
通りを走る人々。
倒れ込む老人。
子供を抱えて泣き叫ぶ母親。
そして。
「先生! 大変です!」
若い医師が、血相を変えて飛び込んできた。
「新薬を投与した患者たちが、次々と倒れています!」
「……何ですって?」
ネフィルカが立ち上がる。
「どういうことですか!?」
「わかりません! 突然、高熱と痙攣が始まって……!」
「すぐに診察します!」
ネフィルカは駆け出した。
ベルティナも慌てて後を追う。
「ま、待ってくださいまし!」
廊下を抜け、病室へ入る。
そこには、異様な光景が広がっていた。
寝台の上で苦しむ患者たち。
紫色に変色した唇。
皮膚の下を走る黒い筋。
喉を押さえ、呼吸を求めて喘ぐ人々。
「た、助け……!」
一人の男が手を伸ばした。
ベルティナは駆け寄る。
「大丈夫ですわ! 今、先生が……!」
しかし。
男の手が、力なく落ちた。
「…………え?」
ベルティナは固まった。
目の前の男は、もう動かなかった。
「……ねえ」
震える声が漏れる。
「ねえ、起きてくださいまし……」
返事はない。
「お薬……飲んだんでしょう……?」
返事はない。
「だったら……元気になるはずでしょう……?」
返事は、なかった。
背後で、別の患者が悲鳴を上げた。
ネフィルカが必死に治癒魔法を使う。
しかし、症状は止まらない。
患者の口から血が溢れた。
「……どうして」
ベルティナの膝が震える。
「どうして……ですの……?」
ネフィルカが振り返った。
その顔は、恐ろしいほど青ざめていた。
「ベルティナ様……」
「……はい」
「薬の製造記録を、すぐに持ってきてください」
「……え?」
「早く!」
初めて聞く、ネフィルカの怒鳴り声だった。
ベルティナは弾かれたように駆け出した。
◇ ◇ ◇
その夜。
王立研究所の地下室では、緊急会議が開かれていた。
机の上には、製造記録と薬液の分析結果が並べられている。
ネフィルカは、震える手で一枚の紙を握っていた。
「……間違いありません」
ゼルヴァンが低い声で尋ねる。
「原因は?」
「薬液の中に、変質した浄化魔力が混入しています」
「変質……?」
「本来、病の原因となる魔素を分解するはずの力が、逆に人体の魔力循環を破壊する性質へ変わっています」
ベルティナは、意味がわからなかった。
「……えっと」
小さく手を挙げる。
「それは……つまり、どういうことですの?」
誰も答えない。
ネフィルカは唇を噛んだ。
ゼルヴァンは眼鏡を外し、深く息を吐く。
そして。
「……ベルティナ嬢」
「……はい」
「あなたが薬液へ注いだ魔力に、問題があった可能性があります」
「…………」
ベルティナは瞬きをした。
一度。
二度。
三度。
「……え?」
「あなたの魔力は、非常に特殊な性質を持っています。通常の魔法では問題にならなくても、薬草との反応によって別の性質へ変化することがある」
「…………」
「今回の薬液は、その影響を受けた可能性が高い」
ベルティナは笑った。
「……もう! 先生ったら!」
声が震える。
「また、わたくしをからかっていらっしゃるんでしょう?」
「…………」
「だって……だって、あのときは成功したんですのよ?」
彼女はネフィルカを見た。
「ねえ、ネフィルカ様……?」
ネフィルカは俯いていた。
「……成功したって、おっしゃいましたわよね?」
「…………」
「わたくしのおかげだって……」
返事はない。
「ねえ……!」
ベルティナの声が大きくなる。
「わたくし、ちゃんとやりましたわよね!?」
ネフィルカの目から、涙が落ちた。
「……ごめんなさい」
「…………」
「私が……もっと慎重に検査していれば……」
「……え?」
「薬を完成させたあと、長期間の安全確認をするべきでした。殿下から早急な配布を求められて、私は……」
ベルティナは、ゆっくりと後ずさった。
「……違いますわ」
小さく呟く。
「違います……」
首を振る。
「だって……みんな、喜んでくれましたもの……」
老婆の笑顔が浮かぶ。
子供たちの笑い声が聞こえる。
王子の優しい言葉が蘇る。
『君は本当に、素晴らしい女性だね』
「……違いますわよね?」
ベルティナは、必死に笑おうとした。
「きっと……何かの間違いですわ……」
そのとき。
研究室の扉が開いた。
近衛兵たちが、一斉に入ってくる。
「ベルティナ・ラズフェルド」
先頭の騎士が、冷たい声で告げた。
「王命により、貴女を拘束する」
「…………え?」
「王都における大量殺傷事件の重要参考人として、王宮へ同行していただく」
「……じゅうよう……?」
ベルティナは、ぼんやりと呟いた。
「……何の、お話ですの……?」
騎士は答えなかった。
ただ、手錠を取り出した。
銀色の金具が、魔導灯の光を反射する。
「……待って」
ベルティナは後ずさった。
「待ってくださいまし……!」
騎士たちが近づく。
「わたくし……!」
声が裏返る。
「わたくし、何も悪いことなんて……!」
冷たい手錠が、彼女の手首に嵌められた。
かちり。
小さな音だった。
けれど、その音は。
ベルティナの人生が壊れる音に、よく似ていた。
◇ ◇ ◇
王都で発生した死者は、最初の三日間で千二百人を超えた。
新薬を投与された患者の多くが急変し、治療を受けられなかった者たちも、次々と命を落とした。
街は混乱した。
救護院は閉鎖され、薬は回収された。
しかし、すでに多くの人々が薬を飲んでいた。
王都の広場には、棺が並んだ。
教会の鐘は、一日中鳴り続けた。
そして、人々は犯人を求めた。
『侯爵令嬢が薬を作ったらしい』
『あの出来損ないの令嬢か?』
『昔から魔法の失敗ばかりしていたそうだ』
『そんな女に薬を作らせたのか!?』
『人殺しだ!』
『娘を返せ!』
噂は瞬く間に広がった。
ベルティナが薬の製造に関わっていたこと。
彼女の魔力が特殊だったこと。
そして、薬の中に異常な魔力が検出されたこと。
それらは事実だった。
ただし。
誰が製造を許可したのか。
誰が検査を省略したのか。
誰が配布を命じたのか。
その部分だけは、不思議なほど語られなかった。
◇ ◇ ◇
「お父様ぁぁぁ!!」
王宮の地下牢。
鉄格子の向こうに父親の姿を見つけた瞬間、ベルティナは泣き叫んだ。
「お父様! 助けてくださいまし! わたくし、何も悪いことなんてしておりませんわ!」
「ベルティナ……!」
侯爵は鉄格子へ駆け寄った。
その顔は、数日で十歳も老け込んだように見えた。
「お父様! これは何かの間違いですわよね!?」
「ああ……!」
「わたくし、ちゃんと頑張りましたのよ! 先生の言うとおりに魔力を注いで、ネフィルカ様と一緒にお薬を作って……!」
「わかっている……!」
「殿下だって褒めてくださいましたわ!」
「……ああ」
「ですから、きっと殿下が助けてくださいますわよね!?」
侯爵は答えなかった。
ベルティナは、父の顔を見上げた。
「……お父様?」
沈黙。
「……どうして、何もおっしゃらないんですの?」
侯爵は震える手で、鉄格子を握った。
「……ベルティナ」
「はい……?」
「すまない……」
「…………」
「父を……許してくれ……」
ベルティナは、きょとんとした。
「……何を、ですの?」
侯爵の目から涙が落ちた。
「お前を……守れない……」
「…………」
ベルティナは、しばらく父を見つめていた。
そして、突然笑い出した。
「あ、あはは……!」
「ベルティナ……?」
「もう! お父様ったら!」
彼女は無理やり笑顔を作った。
「そんな冗談、笑えませんわよ!」
「…………」
「だって、わたくしは侯爵令嬢ですのよ!?」
胸を張る。
「しかも、殿下に認められた立派な魔法使いですわ!」
「…………」
「きっと大丈夫ですわ! ええ、絶対に!」
ベルティナは、明るい声で続けた。
「わたくし、今までだって何度も失敗しましたもの! 今回だって、きっと何とかなりますわ!」
侯爵は、顔を覆った。
娘は知らない。
王宮ではすでに、処罰の方針が決まりつつあることを。
王子の名誉を守るため。
王国の威信を守るため。
そして、怒り狂った民衆を鎮めるため。
誰かが、責任を負わなければならない。
その誰かとして、ベルティナが選ばれたことを。
◇ ◇ ◇
裁判は、わずか二日で始まった。
王宮の大法廷。
高い天井と巨大なステンドグラスを持つ、荘厳な空間である。
中央には被告人席。
その周囲には、王国の高官や貴族たちが並んでいた。
ベルティナは、簡素な白い衣服を着せられていた。
髪飾りも、宝石もない。
手首には、魔力を封じる銀の枷が嵌められている。
「……寒いですわ」
彼女は小さく呟いた。
普段なら、ミュゼリアがすぐに上着を持ってきてくれる。
けれど、今日は誰もいない。
傍聴席に目を向けると、見慣れた顔があった。
父。
ミュゼリア。
ゼルヴァン。
ネフィルカ。
そして。
「……殿下!」
ベルティナの顔が輝いた。
王族席に、ルシェリオ王子が座っていた。
いつもと同じ、美しい金髪。
いつもと同じ、穏やかな顔立ち。
けれど、その表情は硬かった。
「殿下ぁ!」
ベルティナは思わず立ち上がった。
「よかったですわ! 殿下がいらっしゃるなら、もう安心ですわね!」
法廷がざわめく。
裁判官が木槌を叩いた。
「静粛に!」
「だって! 殿下が来てくださったんですもの!」
「被告人、着席しなさい!」
「わかりましたわよ!」
ベルティナは不満そうに座った。
そして、王子に向かって小さく手を振った。
王子は、目を逸らした。
「…………?」
ベルティナは首を傾げた。
どうしてだろう。
きっと、王族として厳粛な態度を保たなければならないのだろう。
そう考えて、彼女は納得した。
裁判が始まった。
薬の製造記録が読み上げられる。
異常な魔力の分析結果が提出される。
被害者の証言が続く。
ベルティナは、必死に耳を傾けた。
しかし、話が進むにつれて、少しずつ違和感を覚えた。
「……あの」
彼女は手を挙げた。
「質問してもよろしいかしら?」
裁判官が頷く。
「許可する」
「先ほどから、わたくしが勝手に薬を作ったように聞こえるのですが……」
法廷が静まる。
「わたくし、殿下からお願いされたんですのよ?」
ざわり。
傍聴席が揺れた。
裁判官の眉が動く。
「……続けなさい」
「ええ! 殿下が、困っている人たちのために新しい薬を作ってほしいとおっしゃいましたの!」
ベルティナは、得意げに胸を張った。
「それで、ネフィルカ様と一緒に頑張ったんですわ!」
視線が王子へ集まる。
ルシェリオは、静かに立ち上がった。
「……確かに、私は研究への協力を依頼した」
「ほら! そうでしょう!?」
「しかし」
王子は、言葉を続けた。
「私は、危険な薬を作るよう命じた覚えはない」
「…………え?」
「研究には安全確認が必要だ。完成前の薬を、十分な検査もなく配布することなど、許可していない」
ベルティナは、目を瞬かせた。
「……でも」
「ベルティナ嬢」
王子の声は、冷たかった。
「君が研究に参加したことと、薬の安全性が保証されることは別の問題だ」
「…………」
「君には、自分の魔力が不安定であることを理解する責任があった」
ベルティナは、ゆっくりと口を開いた。
「……殿下」
「…………」
「わたくし……」
声が震える。
「……ちゃんと、できたんですのよ?」
王子は答えなかった。
「魔力も、安定していましたわ……」
「…………」
「ネフィルカ様も、成功だって……」
「…………」
「殿下も……」
ベルティナの目から涙が溢れた。
「……褒めて、くださいましたわよね……?」
王子は、静かに目を閉じた。
「……それは、結果が出る前の話だ」
ベルティナは、何も言えなくなった。
◇ ◇ ◇
続いて、ネフィルカが証言台へ立った。
彼女の顔は青白く、目の下には深い隈ができていた。
「薬の製造において、魔力制御を担当したのはベルティナ・ラズフェルド嬢ですか?」
「……はい」
「薬液の変質に、彼女の魔力が関係していた可能性は?」
「……あります」
「では、薬の危険性を事前に把握していましたか?」
「……いいえ」
「安全確認を行わずに配布した理由は?」
ネフィルカは唇を噛んだ。
長い沈黙。
そして。
「……研究が成功したと、判断したためです」
ベルティナは、ほっと息を吐いた。
「そうですわよね!」
しかし。
「その判断は、誰が下したのですか?」
裁判官の問いに、ネフィルカは俯いた。
「……私です」
法廷がざわめいた。
ベルティナは、ぱっと顔を上げた。
「ほら! ネフィルカ様も、ちゃんと……!」
「ただし」
ネフィルカの声が震えた。
「……薬液の魔力制御については、ベルティナ様を信頼していました」
「…………」
「彼女は魔法院の卒業生であり、魔力を安定させる技術を持っていると……」
「……ネフィルカ様?」
「……私は、彼女の魔力が薬液に悪影響を与えるとは、考えていませんでした」
ベルティナは、ゆっくりと首を振った。
「……違いますわ」
小さな声だった。
「わたくし……ちゃんとやりましたわ……」
ネフィルカは、顔を上げなかった。
「……ごめんなさい」
その言葉だけが、法廷に落ちた。
◇ ◇ ◇
最後に、ゼルヴァンが証言台へ立った。
彼は、ベルティナの魔法の性質について説明した。
通常の魔法制御では問題がなくても、複数の薬草や魔石と反応すると、魔力が変質する可能性があること。
そして、その危険性を十分に研究していなかったこと。
「つまり、被告人の魔力は、極めて危険だったということですか?」
裁判官が尋ねる。
ゼルヴァンは、苦しそうに答えた。
「……条件によっては、危険になり得ます」
「被告人は、そのことを知っていましたか?」
「……いいえ」
「では、知らずに危険な魔力を使用したと?」
「……はい」
ベルティナは、呆然とした。
「……先生」
ゼルヴァンが、こちらを見る。
「……わたくし、合格しましたわよね?」
彼は、目を伏せた。
「……ええ」
「先生が、合格だって……」
「……はい」
「わたくし、ちゃんと頑張ったんですのよね……?」
ゼルヴァンは、唇を噛んだ。
そして、震える声で答えた。
「……あなたは、努力しました」
ベルティナの目が輝く。
「……では!」
「しかし」
ゼルヴァンは、顔を上げた。
「努力したことと、結果に責任を負わないことは、別です」
「…………」
ベルティナの笑顔が、消えた。
◇ ◇ ◇
判決は、その日の夕方に下された。
王都における大量死事件。
危険な魔力を用いた薬の製造。
そして、結果として生じた甚大な被害。
裁判官は、重々しい声で告げた。
「被告人、ベルティナ・ラズフェルド」
「……はい」
「貴女の行為は、王国に対する重大な罪に該当する」
「…………」
「よって」
木槌が振り上げられる。
「斬首刑に処する」
かんっ。
乾いた音が響いた。
ベルティナは、しばらく動かなかった。
そして。
「…………え?」
小さく呟いた。
「……ざんしゅ?」
裁判官は、無言だった。
「……ざんしゅけい?」
彼女は首を傾げた。
「……えっと」
少し考える。
「……それって、何ですの?」
誰も答えない。
ベルティナは、ミュゼリアを見た。
「……ミュゼリア?」
侍女は、泣いていた。
初めて見る涙だった。
「……ねえ」
ベルティナは、笑おうとした。
「……どうして、泣いていますの?」
返事はない。
「……だって」
声が震える。
「……わたくし、まだ……」
彼女は、王子を見た。
「……殿下と、結婚していませんわ……」
王子は、目を逸らした。
「……お父様……?」
父は、椅子に崩れ落ちていた。
「……ねえ」
ベルティナの唇が震えた。
「……わたくし、まだ……」
涙が溢れる。
「……幸せに、なっていませんわよ……?」
誰も答えなかった。
そして、ようやく。
ベルティナは、判決の意味を理解した。
「…………」
大きく息を吸う。
そして。
「いやああああああああああああああああっ!!」
法廷中に、絶叫が響き渡った。
「嫌ですわぁぁぁ!! 絶対に嫌ですわぁぁぁ!! なんでわたくしが死ななきゃいけませんのぉぉぉ!?」
ベルティナは椅子から転げ落ちた。
床を転がる。
手足をばたつかせる。
「おかしいでしょう!? わたくし、頑張りましたのよ!? ちゃんと頑張りましたのにぃぃぃ!!」
「被告人! 静粛に!」
「静かにできるわけないでしょうがぁぁぁ!!」
ベルティナは泣き叫んだ。
「わたくし、まだ十八歳ですのよ!? これから素敵な殿方と結婚して、可愛い子供を産んで、毎日お菓子を食べて……!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死に叫ぶ。
「まだ何にもしていませんわぁぁぁ!!」
騎士たちが駆け寄る。
ベルティナは床にしがみついた。
「嫌ですわ! 離してくださいまし! 絶対に離れませんわ!」
「被告人! 抵抗するな!」
「嫌ぁぁぁ!! お父様ぁぁぁ!! ミュゼリアぁぁぁ!! 助けてくださいましぃぃぃ!!」
騎士たちに引きずられながら、ベルティナは叫び続けた。
その声は、法廷の扉が閉まるまで、ずっと響いていた。
◇ ◇ ◇
処刑は、三日後に決まった。
王都中央広場。
公開斬首刑。
ベルティナは、地下牢でその知らせを聞いた。
「……三日後?」
彼女は、呆然と呟いた。
「……そんな」
鉄格子の向こうに立つミュゼリアは、何も言わなかった。
「……ねえ、ミュゼリア」
「……はい」
「……わたくし、死ぬんですの?」
侍女は、唇を噛んだ。
「……はい」
ベルティナは、しばらく黙っていた。
そして、突然笑い出した。
「あはは……!」
「……お嬢様?」
「……もう! そんなわけありませんわ!」
彼女は、必死に笑顔を作った。
「きっと、何かの間違いですもの!」
「…………」
「だって、わたくしは侯爵令嬢ですわよ!?」
「…………」
「お父様だって、殿下だって、きっと助けてくださいますわ!」
ミュゼリアの目から、涙が落ちた。
「……お嬢様」
「……何ですの?」
「……申し訳、ございません」
ベルティナは、首を傾げた。
「……どうして、あなたが謝るんですの?」
ミュゼリアは、震える声で答えた。
「……私は、何もできませんでした」
「…………」
「……ずっと、おそばにいたのに……」
ベルティナは、静かに彼女を見つめた。
そして、ふっと笑った。
「……馬鹿ね」
「……え?」
「あなたは、いつも助けてくれたじゃありませんの」
ミュゼリアは、顔を上げた。
「……お嬢様」
「わたくしが失敗するたびに、後片付けをしてくれて……」
ベルティナは、少しだけ笑った。
「……何度も、何度も……」
涙がこぼれる。
「……本当に、ありがとう……」
ミュゼリアは、声を上げて泣いた。
ベルティナも、泣いた。
二人は鉄格子越しに手を握り、しばらく泣き続けた。
◇ ◇ ◇
処刑前夜。
ベルティナのもとに、一通の手紙が届いた。
差出人は、ルシェリオ王子だった。
彼女は、震える手で封を切った。
そこには、短い文章が記されていた。
『ベルティナ嬢。
君が人々を救おうとしたことは、理解している。
しかし、王国には秩序が必要だ。
君の犠牲によって、民の怒りは鎮まり、王国は再び平和を取り戻すだろう。
どうか、王国のために最後の務めを果たしてほしい。
ルシェリオ』
ベルティナは、何度も読み返した。
一度。
二度。
三度。
そして。
「…………」
手紙を、ゆっくりと畳んだ。
「……そうですの」
小さく呟く。
「……わたくしが死ねば、みんな幸せになるんですのね」
誰も答えない。
ベルティナは、少しだけ笑った。
「……なら」
声が震える。
「……最後くらい、ちゃんと役に立てるのかしら……」
その夜。
彼女は、眠れなかった。
何度も目を閉じた。
何度も祈った。
どうか、明日が来ませんように。
どうか、誰かが助けてくれますように。
どうか。
どうか。
もう一度だけ、やり直せますように。
けれど。
朝は、必ずやってきた。
◇ ◇ ◇
処刑当日。
王都中央広場には、数千人の民衆が集まっていた。
広場の中央には、高い木製の処刑台。
その上には、黒い布を被せられた台座が置かれている。
隣には、巨大な斧を持った処刑人が立っていた。
ベルティナは、騎士たちに連れられて広場へ現れた。
白い囚人服。
乱れた髪。
痩せた頬。
かつての華やかな侯爵令嬢の面影は、ほとんど残っていなかった。
「……寒いですわ」
彼女は、小さく呟いた。
秋の風が、頬を撫でる。
広場から、怒号が響いた。
「人殺し!」
「娘を返せ!」
「死んで償え!」
石が飛んできた。
ベルティナの額に当たり、血が流れる。
「……痛っ!」
彼女は、思わず顔を覆った。
「ちょ、ちょっと! 何をなさいますの!?」
さらに石が飛ぶ。
肩に当たる。
背中に当たる。
「痛いですわ! やめてくださいまし!」
騎士たちは、何も言わなかった。
ベルティナは、涙を浮かべながら処刑台へ上がった。
足元が震える。
膝が笑う。
心臓が、壊れそうなほど速く鳴っていた。
「……あの」
彼女は、処刑人を見上げた。
「……本当に、やるんですの?」
処刑人は、無言だった。
「……冗談、ではありませんの?」
返事はない。
「……ねえ」
ベルティナは、必死に笑った。
「……わたくし、ちゃんと反省しましたわよ?」
処刑人は、斧を持ち直した。
「……もう、魔法も使いませんわ」
涙がこぼれる。
「……お料理もしません」
声が震える。
「……洗濯だって、しませんわ」
彼女は、処刑人の袖を掴んだ。
「……だから」
小さな声で、懇願する。
「……助けてくださいまし……」
処刑人は、静かにその手を外した。
「……ごめんなさい」
それだけを、呟いた。
ベルティナは、呆然とした。
◇ ◇ ◇
処刑台の前に、王子が現れた。
ベルティナの顔が、ぱっと輝いた。
「殿下ぁ!」
彼女は、思わず駆け寄ろうとした。
しかし、騎士に腕を掴まれる。
「殿下! 来てくださったんですのね!」
王子は、静かに彼女を見つめた。
「……ベルティナ」
「よかったですわ! やっぱり助けてくださるんですのね!」
ベルティナは、涙を流しながら笑った。
「わたくし、信じていましたわ!」
王子は、何も言わなかった。
「……殿下?」
沈黙。
「……どうして、黙っていらっしゃるんですの?」
王子は、静かに口を開いた。
「……君には、最後まで立派でいてほしい」
「…………」
「王国のために、誇りを持って刑を受けてほしい」
ベルティナは、ゆっくりと首を振った。
「……嫌ですわ」
小さな声だった。
「……そんなの、嫌ですわ」
王子は、目を伏せた。
「……すまない」
ベルティナは、震える手を伸ばした。
「……殿下」
王子は、背を向けた。
「……待って」
彼は、歩き出した。
「……待ってくださいまし」
ベルティナの声が、大きくなる。
「……殿下ぁ!」
王子は、振り返らなかった。
「嫌ですわぁぁぁ!! 置いていかないでくださいましぃぃぃ!!」
ベルティナは、泣き叫んだ。
「わたくし、まだ死にたくありませんわぁぁぁ!!」
騎士たちが、彼女を台座へ連れていく。
ベルティナは、必死に抵抗した。
「嫌ぁぁぁ!! やめてくださいまし!!」
足をばたつかせる。
腕を振り回す。
騎士の手を噛もうとする。
しかし、抵抗は虚しかった。
彼女は、台座の前に跪かされた。
首を、黒い布の上へ置かされる。
冷たい木の感触が、肌に伝わった。
「……いや」
ベルティナは、震えた。
「……いやですわ」
涙が、台座を濡らす。
「……わたくし、まだ……」
声が途切れる。
「……幸せに、なっていませんのに……」
◇ ◇ ◇
処刑人が、斧を持ち上げた。
広場が静まり返る。
ベルティナは、必死に目を動かした。
父を探す。
ミュゼリアを探す。
ネフィルカを探す。
ゼルヴァンを探す。
けれど、どこにも見つからなかった。
ただ、無数の民衆が彼女を見つめていた。
怒り。
憎しみ。
悲しみ。
そして、期待。
彼女の死を待つ人々の顔だった。
「……ねえ」
ベルティナは、ぽつりと呟いた。
「……わたくし」
声が震える。
「……本当に、何も上手くいきませんでしたわね……」
涙が、頬を伝う。
「……でも」
彼女は、少しだけ笑った。
「……頑張ったんですのよ……」
誰にも聞こえないほど、小さな声だった。
「……本当に……頑張ったんですの……」
処刑人が、斧を構える。
ベルティナは、目を閉じた。
そして。
「……あっ」
突然、何かを思い出したように目を開いた。
「……そうですわ!」
彼女は、ぱっと顔を上げようとした。
「わたくし、まだ最後のお願いをしていませんわ!」
処刑人の動きが、一瞬止まる。
「……何だ?」
「お菓子ですわ!」
「……は?」
「最後に、お菓子を食べたいですわ!」
ベルティナは、必死に叫んだ。
「ケーキでも、焼き菓子でも、何でもいいですわ! わたくし、昨日から何も食べていませんのよ!」
処刑人は、困惑した。
広場がざわめく。
「……最後の食事は、昨夜出されたはずだが」
「緊張して食べられませんでしたの!」
「……そうか」
「ですから! せめて最後に、甘いものを!」
処刑人は、少しだけ考えた。
そして、懐から小さな包みを取り出した。
「……これしかない」
中には、一粒の砂糖菓子が入っていた。
ベルティナは、目を輝かせた。
「まあ!」
処刑人が、彼女の口元へ運ぶ。
ベルティナは、ぱくりと食べた。
甘い。
ほんの少しだけ、甘かった。
「……美味しいですわ」
彼女は、涙を流しながら笑った。
「……ありがとうございます」
処刑人は、何も言わなかった。
ただ、静かに斧を握り直した。
ベルティナは、再び台座に首を置いた。
今度こそ、覚悟を決めようとした。
けれど。
「……やっぱり嫌ですわぁぁぁ!!」
最後の最後で、彼女は泣き叫んだ。
「死にたくありませんわぁぁぁ!! 誰かぁぁぁ!! 助けてくださいましぃぃぃ!!」
斧が、振り上げられる。
「お父様ぁぁぁ!!」
風を切る音。
「ミュゼリアぁぁぁ!!」
鋼の刃が、朝日を反射する。
「殿下ぁぁぁ!!」
そして。
「いやあああああああああああああああああっ!!」
斧が、振り下ろされた。
鈍い音が響いた。
白い囚人服が、赤く染まる。
ベルティナ・ラズフェルドの首は、胴体から切り離された。
処刑台の上を、血が流れていく。
彼女の最後の叫びは、そこで途切れた。
広場に、歓声が上がった。
「正義は果たされた!」
「王国万歳!」
「これで安心だ!」
人々は笑い、泣き、抱き合った。
誰も、彼女の最後の言葉を覚えていなかった。
誰も、彼女がどれほど努力したのかを考えなかった。
ただ、一人の侯爵令嬢が死んだことで、王国は平和を取り戻したのだと信じた。
◇ ◇ ◇
処刑から一ヶ月後。
王都では、盛大な祝祭が開かれていた。
疫病の流行は、ようやく収束しつつあった。
王宮は新しい治療薬の開発を発表し、ルシェリオ王子は民衆の前で演説を行った。
「我々は、悲劇を乗り越えた!」
広場に歓声が響く。
「多くの犠牲を忘れず、これからも王国の平和のために尽くそう!」
人々は拍手を送った。
王子は、穏やかに微笑んだ。
その隣には、新しい婚約者が立っていた。
美しく、聡明で、魔法の才能に恵まれた公爵令嬢。
彼女は、完璧な礼を披露した。
誰も転ばなかった。
誰もドレスを破かなかった。
誰も騒がなかった。
完璧な式典だった。
一方。
王都の片隅にある、小さな墓地。
そこには、名も刻まれていない墓石が一つあった。
ミュゼリアは、その前に膝をついていた。
手には、小さな焼き菓子の包み。
「……お嬢様」
彼女は、静かに呟いた。
「……今日は、お好きだったお菓子を持ってまいりました」
墓石の前に、包みを置く。
「……本当は、もっと早くお持ちしたかったのですが……」
声が震える。
「……申し訳、ございません……」
ミュゼリアは、顔を覆った。
涙が、指の隙間から落ちる。
風が吹いた。
木々が揺れる。
遠くから、祝祭の音楽が聞こえてきた。
ミュゼリアは、しばらく泣いていた。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
「……お嬢様」
彼女は、墓石を見つめた。
「……あなたは、本当に……」
少しだけ、笑った。
「……何をやっても、上手くいかない方でしたね……」
返事はない。
「……でも」
ミュゼリアは、涙を拭った。
「……私は、あなたに仕えられて……」
声が詰まる。
「……幸せでした……」
その言葉は、風に消えた。
遠くの広場では、花火が上がった。
人々は笑っていた。
王子は、新しい婚約者と手を取り合っていた。
王国は、平和だった。
そして。
何をやっても上手くいかなかった侯爵令嬢は、最後の最後まで、何一つ上手くいかなかった。
彼女が望んだのは、ただ一つ。
誰かの役に立って、褒められて、幸せになること。
けれど。
その願いが叶うことは、二度となかった。
なぜなら。
ベルティナ・ラズフェルドは、もうこの世にいないのだから。
【完】




