シナモンと蜂蜜
5分だけ寝る事にしてソファに横になったら、目が覚めたのは夜の11時過ぎだった。
「あ、お母さんのタバコ買ってなかった……!」
テーブルには転がったチューハイの空き缶と、黄色い半額シールが貼られたコンビニ弁当の空容器----。
残業帰りにヘロヘロになって買ったから、何弁当だったかなんて、覚えてなんかいない。
口の中に、まだうっすらと揚げ物の匂いが残ってるし、全体的に茶色かったから、多分、フライ弁当か、メンチカツ弁当----だったとは思うんだけど。
(まあ、そんな事はどうでもいいか)
ちゃんと節約して半額で買ったのは確かだし、申し訳程度に付いてたきんぴらごぼうで野菜も取れて、栄養バランスもバッチリだ。偉いぞ私。
問題は、目が覚めたのが、この時間だという事だ。
「もう! ビールにしたら絶対寝落ちすると思ったから缶チューハイにしたのに、これじゃ意味ないじゃん!」
金曜の夜のせっかくの我慢も、これですっかり水の泡だ。
ビールだけに。
----いや、そんなしょーもない事を言っている場合じゃない。
私は、ソファの周りに脱ぎ散らかした仕事用のスーツやら何やらを拾い集め、急いで着る。
あとは財布と鍵、折り畳み傘とスマホを肩掛けエコバッグに投げ込んで準備完了だ。
ブラウスがちょっとヨレヨレになってる気もするけど、こんな時間の近所のコンビニなら、誰かと会う事もないから、これで十分でしょ----うん。
「じゃ、行ってくるね」
返事はない。
アパートの部屋には、私以外誰もいないから。
タンス横の小さな丸テーブルには、水を入れたコップが一つ。
写真は、置いてない。
今日は、母の十四回目の命日だ。
父は大のタバコ嫌いだったが、私が小学生の頃から、父は単身赴任でほとんど不在だった。
なので、母は食卓に灰皿を置いて一日中いつでも好きにタバコを吸っていた。
洗い物を終えた後。
洗濯物を干し終えた後。
家計簿を付けた後。
背もたれの擦り切れた椅子に深く腰掛けて、窓の外を眺めながら----。
長い時間をかけてタバコ一本を大事に吸い、乳白色の煙に包まれているその姿は、ちょっとした秘密の儀式めいていて、そんな時の母は母の顔をした別人に見えた。
----正直、苦手だった。
(別に、だから私は吸わない、って訳じゃないけど……)
それでも、実家を出てからは、母の命日には必ず水とタバコだけは供えるようにしている。
それなのに、初めてタバコの用意を忘れてしまった。
メンバーが一人風邪で欠勤して、プロジェクトの今日の分のスケジュールがめちゃくちゃになったから、とか、理由はある。
でも、要するに、慣れてしまったんだと思う----母の不在に。
(今ならまだ間に合う……間に合え……っ!)
通い慣れている道でも、暗い住宅街の中にポツンとコンビニの灯りが見えると、無性に安心する時がある。
今夜がまさにそうだった。
「すみませーん! タバコ下さーい……!」
つい2時間ほど前に半額弁当と缶チューハイを買った時と同じレジだが、店員さんの姿はない。
(……あ、お客さんだ)
この時間には珍しく、隣のレジ前にも女の人が立っていた。
歳は私よりも、ちょっと上くらい、といった感じだろうか。
少しほんわりした雰囲気で、左の目元に泣きぼくろが一つ。
LEDの灯が、前下がりのボブに、CMか! ってくらい輝く天使の輪を作っている。
パリッとした仕立ての良いスーツを着て、肩に掛けた紺色のレザートートに、ムスク系の香水が嫌味に思えない絶妙さで合っていた。
(うーん……同じくらいの歳で、同じスーツ姿なのに、絶望的なセンスの差を感じる……)
ヨレヨレのブラウスの袖を、意味もなく引っ張り、私はレジ奥のタバコの棚に目を凝らした。
(えーと、ホープは……)
銘柄は言えるけど、番号が分からないのが毎回困る。
「すみませーん!」
もう一度呼んだ途端、
「お待たせしましたぁ!」
店の奥と、レジの向こうから、ほぼ同時に店員さんが二人、駆け足で出て来た。
一人は白髪頭で、オーナーさん。
もう一人は金髪の学生風のバイト君だ。
「17番下さい」
「あっ、あの、タバコ……えーと、17番……の、ホープをお願いします」
女の人と私が同時に言った。
って言うか、女の人の方がちょっとだけ早かった。
二人の店員さん達は、頭をぶつけんばかりの勢いで棚を覗き、顔を見合わせている。
「あー申し訳ありません、ホープ、今日一つしかないですね……」
オーナーさんが、私達を見ながら申し訳なさそうに白髪頭を掻く。
「そうですか……ならいいです」
一つしかないなら、仕方ない。
隣の女の人とパピコみたいに分けられる訳でもないし。
「ホントすみませんね……最近あまり出ないもんで」
オーナーさんは私に何度も頭を下げて、女の人の方にホープを渡す。
「じゃ、私はこれで」
私は踵を返すと、急いでドアに向かった。
次に近いコンビニで買えれば、なんとか日付けは跨がないで済む計算だ。
「え、他のじゃダメなの!?」
その声に私はびっくりしてレジを見る。
スーツの女の人が、目を丸くして、手にしたホープと私を交互に見てた。
「あっ、えっと……ホープじゃないとダメな人なんで、他で探します」
私だって、本当のところは別の銘柄で済ませて早く帰って寝たいところだけど、祥月命日の今日だけはホープを供えてあげたいのだ。
「……貴女、確かこの近くの人でしょ?」
「え? あ……まあ、そうですけど……」
私は思わず、ブラウスの袖のシワをまた引っ張っていた。
私はこの人を知らないけれど、何故かこの人は私を知ってるようだ。
「なら、この辺りでホープなんて置いてるの、ここだけよ」
「え、そうなんですか!?」
タバコなんてどこも同じ品揃えだと思っていたので、普通に衝撃を受けてしまう。
「やっぱり知らなかったんだ? じゃ、店長、ホープはこの人に売ってあげて」
「……承知いたしました」
女の人はホープを店長に返し、トートから長財布を出した。
「いや、いいですよ! 先に頼んだのはそっちですから!」
「でも、なんか貴女今にも死にそうな顔になってるし、すぐ吸わないとマズいんじゃない?」
ん? 私もしかしてニコチン中毒の人とかと思われてる?
「いえ、ええと、死んでるのはウチの母で……母はホープしか吸わなくて、それで今日が祥月命日で……私自身はそもそもタバコは吸わないから、大丈夫なんです」
テンパり過ぎて下手な翻訳機能みたいな喋り方になってしまった。
女の人とオーナーさんともう一人の金髪君の間に、何とも言えない沈黙が漂う。
気まずい。
カラオケでサビを熱唱しているところへ、いきなりスタッフが入って来た時くらいに気まずい。
「……私は全然別のでも大丈夫だから、その……お母様にはホープをお供えしてあげて」
何とも言えない表情のまま、女の人が言う。
「いえ、どうせ暇だから、隣町のコンビニ行ってきますよ。そこの橋渡った先に何軒かありますし、どこかにはあるでしょ……多分」
女の人は首を振って、また財布のファスナーを開ける。
年季の入ったレザーの長財布は、綺麗な飴色をしていた。
「店長、やっぱりそのホープ下さい。あとピースも一つ追加で」
セルフレジで手際良く支払いを済ませると、女の人はそのままホープを私に手渡してきた。
「へ?」
反射的に受け取ってしまった。
「私ね、仕事で嫌な事があったらピース、大事な仕事の前にはホープ、って感じで吸う事にしてるの」
「え、それじゃ今日は……」
女の人は、少し疲れた顔で笑った。
「でも、今日は打ち合わせでホントに疲れたし、ピースにしておくわ……そもそも私の勝手なジンクスなんだから、気にしないで」
「でも……!」
私は、女の人の前に渡されたばかりのホープを突き出した。
「……だったら、なおさらホープも吸って下さいよ!」
こんな綺麗な女に、疲れた顔をしたままで金曜の夜を過ごして欲しくない、という自分でも良く分からない使命感にも似た思いが私を突き動かしていた。
「母には一本だけあげてるから、あとはいつも残っちゃうんです。私、タバコ苦手なんで」
「ちょっと店長ぉー! もう降ってきましたよぉー!!」
ゴミ出しに出ていたらしきバイト君が、素っ頓狂な声を上げながらバタバタと走り込んで来た。
「予報だと明け方からだったのに、こんなんめっちゃハズレですよぉ……」
「……あら、もうこんな時間! って、凄い雨じゃないの!」
慌ててスマホのニュースサイトを開いたら、思い切り豪雨警報の文字が出てきた。
「……傘は、あるんですか?」
「ないわね」
女の人は軽く溜息を吐いて、髪をかき上げた。
「タクシーもなさそうですし、家、すぐそこですから雨宿りがてらホープを吸って行って下さい」
「それは助かるけど……あの……そこまでしてもらっちゃって本当にいいの?」
本気で悩んでる声だ。
「全然大丈夫ですから早く行きましょう!」
止みそうにない雨をドア越しに見て観念したのか、女の人はスーツのポケットから名刺入れを取り出す。
「あ、私は雨森っていうの、雨森粧子……化粧の粧に子、って書いて粧子って呼んでね」
「芝沼美晴です。よろしくお願いします!」
勢い良く頭を下げた私に、粧子さんは「名前の割には私なんかよりも全然雨女ね」と笑う。
名前だけのシンプルなデザインの白い名刺を、私は濡れないよう財布に入れた。
「さ、そうと決まったら行きましょう! 急がないと十二時になっちゃうわよ!」
「あっ、はい……!」
粧子さんの勢いに押されるようにして、私はピースの箱をエコバッグの底にしまう。
「部屋、片付けるんでちょっと玄関先で待っててもらってもいいですか?」
「そんな気を使わなくていいのよ、たまたま同じ物を買おうとしただけなんだから」
パシャパシャと雨水が跳ねる足元に気を付けながら、私達は身を寄せ合うようにして走った。
雨はどんどん激しくなってくる。
「ここです」
オートロックを開けて、エレベーターに乗った途端、粧子さんは私の部屋のある階のボタンを押した。
「……なんで知ってるんですか?」
「だって隣の部屋だから」
事もなげに言い、ドアが開くと、ずんずんと先に歩いて行く。
「隣……?」
表札のない部屋の手前で立ち止まると、粧子さんは鍵を取り出した。
「じゃ、三分で着替えてお邪魔するわね!」
「は、はい……」
ドアの前に傘を広げると、すぐに水溜りができ始めた。
スマホの時計を見る。
11時48分。
最低限あのテーブルの上は片付けなければ、と思い出し、私もダッシュで部屋に入る。
靴下を履き替え、ゴミ箱に弁当の空容器とチューハイの空缶を突っ込んで----そこでちょうどチャイムが鳴った----。
粧子さんは、紺のデニムに黒いカットソーという格好で来た。
手には缶ビール2本と、頂き物だというホテルのクッキーの青い缶。
私は小さな丸テーブルに、この部屋に越して来てから初めて母の灰皿を出した。
リモージュ焼きの掌サイズの灰皿。
その薄れた金彩が鈍く光っている。
「はじめまして、雨森粧子と申します」
座布団代りのラグマットに正座した粧子さんはクッキーの缶をそっと灰皿の前に置いて手を合わせ、軽く頭を下げた。
私はホープの箱から1本だけ抜き取って、灰皿の端に立てかける。
「ライターはないの?」
「いつも火は着けないでたから、ないんです」
あぁ、と頷き、粧子さんは正座したまましばらくその1本を無言で見詰めていた。
お茶でも出そうと思っていたのに、気付けば私も隣に正座していた。
「……じゃ、あとは粧子さんがどうぞ」
「ありがとう」
粧子さんは我に返ったような顔になって、ホープの箱を受け取る。
日付けはもう変わったところだった。
「ベランダ、いい?」
粧子さんが、ポケットから出した携帯灰皿を私に示す。
そういえば、ベランダなんて出た事がない。
私は慌ててサンダルを玄関から持って行った。
「どうぞ、ごゆっくり」
雨はまだ止んでいない。
お茶を取りにキッチンへ向かう途中、少しだけ開けたベランダのドアの向こうから、うっすらと煙が流れて来た。
ずっと忘れていた香り。
なのにすぐに鼻の奥がツンとした。
私の気配に振り返った粧子さんが、手すりに寄りかかりながらニッコリと手招きする。
私はまた玄関へ行って履き潰したスニーカーを引っ張り出した。
「……隣の部屋だから、景色はほとんど変わらないはずなのに、ちょっとだけズレて見えるのってなんか不思議な感じね」
隣に立つと、粧子さんが手にしたホープは、まだ長かった。
「はい、これは美晴さんの分」
不意に1本差し出される。
「お母さんの吸ってた味、知りたくない?」
「……そうですね」
私は自然に受け取っていた。
なんとなく、今がその時なんだなと思った。
「じゃ、それ咥えてこっち向いて」
「……?!」
初めて口にしたタバコの先に、粧子さんのタバコの先が、そっと触れる。
蝶々が止まったみたいに、静かに。
雨の音が大きくなった----気がした。
ゆっくりと吸い込むと、懐かしい香りが身体の中に広がっていくのが分かった。
甘くて。
少し苦くて。
でも柔らかい、焦げた蜂蜜みたいな香り。
「お母さん、いつも何見てたのかな……?」
「……分かんないけど、私はこれを吸うと明日も頑張ろう、って思うわね」
そっか、と私は呟いて煙を吐いた。
「まあ、吸わないでもそう思えるのが、ホントは一番なんだろうけど」
粧子さんが不意に芝居じみた低い声になる。
「……タバコとはタバコの葉を紙で巻いたもので、一端には火がつき、もう一端には愚か者がいる」
「……何ですかそれ?」
私が訊ねると「バーナード・ショーよ」と白い歯を見せた。
「ひどいディスですね」
「でも合ってるから反論できないのよ、あ……これはあくまでも私の場合、って意味でね!?」
ちょっと焦る粧子さんを見て、私はつい吹き出してしまう。
「それに私、彼に憧れてこの世界に入ったみたいなものだし……」
「……?」
バーナード・ショーって、名前しか知らない。
後で調べてみよう。
「私、本名は森夜雨子っていうの……夜の雨の子で、ようこ……肩書きは一応脚本家だけど、まだ全然売れなくて、何でも屋みたいな仕事ばっかりやって食い繋いでる感じ」
甘い煙の中で、それでも粧子さんは悪戯っぽく笑った。
「でもね、これを吸うと、何だかまだ頑張れる、今度の仕事は大成功するぞ、って思えるのよね……私にとってのタバコって、吸うモノというよりも、自分に魔法をかける大事な時間を作ってくれるモノ……なのかもしれない」
「……分かったような気がします」
しばらくの間、私達は並んでずっと雨音を聞いていた。
「……今日はありがとう」
「こちらこそ助かりました」
ほぼ同じタイミングで吸い終わって、私達は顔を見合わせた。
「タバコ、好きになりそう?」
「……月一くらいなら」
粧子さんは声を出さずに笑った。
その後、私達は部屋へ戻り、ビールを飲んだ。
私が洗い物をしている間に粧子さんはまたベランダに出てホープを1本吸って、灰皿に手を合わせてから帰って行った。
雨はまだ降っていたけれど、私は少しだけベランダの戸を開けたままにしておく。
電気を消し、私はソファに横になった。
目をつぶっても、シナモンと蜂蜜の甘い香りが、隣の部屋のベランダからぼんやりと漂っているのが分かった----。




