第9話 芽吹きの陽光月・咆咆の獅子牙
「――全隊、捕らえよ! 抵抗は死を意味すると知れ!」
騎士の号令が、冷たく乾いた朝の空気を切り裂いた。
同時に、銀色の甲冑を纏った十数人の聖騎士たちが、石畳を蹴り破らんばかりの勢いで突進を開始する。彼らの手にする白銀の剣先は、朝日を反射して残酷なまでの輝きを放ち、逃げ場を失った三人をその一点に封じ込めようと殺到した。
その殺意の渦の中心で、シリュウスの眼鏡の奥の瞳は、驚くほど冷静に、かつ超高速で「戦場」を解体していた。
「……周囲のマナ濃度、正常。重力係数の書き換え、承認。対象、前方扇状範囲の敵性個体のみ。――戦術演算、展開。『重力閾・獅子の檻』」
シリュウスが魔導書のページを親指で弾くと、黄金のマナが奔流となって噴き出した。
空中に描かれた幾千もの幾何学的紋章が、落雷のような速度で三人の周囲の石畳に焼き付けられる。突撃してきた聖騎士たちの体が、まるで見えない巨人の拳に空から叩き潰されたかのように、不自然な角度で地面へとめり込んだ。
「ぐ、あああッ!? なんだ、この重圧は……っ!」
「馬鹿な……詠唱も、魔法陣の構築時間もなしにこれほどの大規模術式を……!」
鎧が軋み、骨が鳴る。シリュウスの放った魔術は、単なる攻撃ではない。対象の質量そのものを一時的に十倍に跳ね上げ、自重によって自滅させる精密な「監獄」だった。
倒れ伏した騎士たちが悶絶する中、アルドナが一歩前に出る。彼女の右腕を覆っていた古びた包帯が、その内側に秘められた膨大なマナの圧力に耐えかねて、パァンという乾いた音と共に千切れ飛んだ。
露わになったのは、肘から指先にまで脈動しながら刻まれた、青白く発光する「竜の紋章」だ。
「……少し、静かにしててくれない? こっちは朝から気分が悪いのよ」
アルドナは、背負っていた大剣「裂界の牙」を抜く。その瞬間、周囲の空気がひりつくような殺気に支配された。彼女が剣を横一文字に薙ぐと、鋼が風を切る音はせず、代わりに「世界の膜が剥がれる」ような不吉な音が響いた。
それは竜の魔力と、レオファング家が誇る至高の剣技が融合した、文字通り空間そのものを喰らう絶技。
「……『断空』」
呟きと共に、目に見える風景が歪んだ。
彼女の剣筋をなぞるように、漆黒の断層が空間に刻まれる。そこから発生した真空の衝撃波が、聖騎士たちの堅牢な盾を薄紙のように引き裂き、彼らを数十メートル後方の城壁まで一気になぎ払った。断層の余波は、貴族街の美しい街灯を飴細工のように捻じ曲げ、堅固な石壁を深い裂け目が走る。
「この破壊力……その紋章……間違いない! あの一族、教会の禁忌に触れて滅ぼされたはずの『レオファング』の生き残りだ!」
指揮官の騎士が、恐怖と、千載一遇の獲物を見つけた歓喜が混じった絶叫を上げた。
「全員、聖なる加護を最大展開せよ! あれは獅子の皮を被った化け物、竜の呪いを受け継ぐ異端だ! 聖遺物を使え!」
騎士たちが血走った目で懐から聖印を取り出し、天に掲げる。
純白の光が重なり合い、三人の周囲を包囲する光の壁が築き上げられた。その「正義」を象徴する眩い輝きが、フィオラの瞳を射る。
彼女は、戦う術を知らない。なぜ自分たちがここまで憎まれ、追い詰められなければならないのかも分からない。けれど、自分のために、兄が眼鏡を曇らせて計算を続け、姉が呪われた腕を晒して傷ついている。
その事実が、フィオラの琥珀色の瞳の奥に、かつてない激しい「拒絶」の炎を灯した。
「……来ないで。私たちの、邪魔をしないで……!」
フィオラの叫びが、アライアの広場にこだました。
その瞬間、足下の影が生き物のように不自然に伸び、屋敷の周囲に滞留していた銀色の灰が、暴風となって渦を巻いた。ドルトン卿の残留思念、そしてこの街の地下に幾百年も眠り続けていた無数の名もなき死者たちの気配が、フィオラの願いに呼応して、この世に滲み出した。
「な、なんだ……!? 聖なる光が、影に食われていくぞ!」
騎士が放った浄化の矢が、フィオラの周囲に顕現した半透明の「灰色の壁」に触れた瞬間、煤のように黒ずんで崩れ落ちる。それは魔術の理論を超越した、純粋な「意志」による現象。
騎士団長が、戦慄に顔を引き攣らせてその奇跡的な異常を名付けた。
「……『冥顕』か! 死者の未練を実体化させおった! あの小娘、自らの魂を触媒に、死者の未練をこの世に具現化したというのか……!」
死者たちの囁きが、風となって広場を駆け抜ける。
恐怖に震える民衆たちは、目の前で起きている「神聖なる騎士」と「異形の三兄妹」の戦いを、息を呑んで見守ることしかできなかった。
「フィオラ、そのまま! 視界を塞ぐ! 出口を計算する!」
シリュウスが再び魔導書を高く掲げた。彼の脳内では、アライアの複雑な路地、敵の増援速度、そしてガリウスの馬車が待機している位置が、一万の数式となって猛烈な速度で処理されていく。
「――戦術演算、極致。光学的質量干渉。『獅子の咆哮』。……姉さん、一点集中!」
「言われるまでもないわ!」
シリュウスが指し示した空間に、黄金の閃光が突き抜けた。
聖騎士たちの重厚な包囲網の一角に、一瞬だけ風穴が開く。そこへ、アルドナが竜の力を全開にして踏み込んだ。彼女の足が石畳を爆砕し、一足飛びに敵の懐へと潜り込む。
だが、その先に立ち塞がったのは、増援として駆けつけた百人近い重装歩兵の槍衾〈やりぶすま〉だった。
「逃がさぬと言ったはずだ! レオファングの末裔よ、その命をもって教会への供物となれ!」
万事休すか――。
そう思われたその時、民衆の影から一台の荷馬車が、車輪から火花を散らすほどの猛スピードで突っ込んできた。
「おーい! こっちだ! 早く乗れッ!」
御者台で必死に手綱を引いていたのは、あの商人ガリウスだった。彼の肩には、フィオラの目にだけ見えるミーナの霊が座り、必死に三人を手招きしている。
「ガリウスさん……!? どうして、あなたまで……!」
「ミーナが、ミーナがうるさいんだよ! 『お父さん、今度は大事なものから逃げちゃダメだよ』ってな! ……さあ、飛び乗ってくれ!」
三人は迷わず馬車の荷台へと飛び込んだ。シリュウスが即座に魔導書を叩き、馬車の周囲へ、追撃を逸らすための「光学的屈折迷彩」と「音響遮断結界」を多重展開する。
「追え! 全門を封鎖せよ! アライアを包囲しろ!」
騎士団長の怒号が、遠ざかっていく。
ガリウスが導いたのは、表通りではない。ギルド長バネッサが、秘密裏に管理していた街の地下へと続く巨大な廃水溝の隠し入り口だった。
地下の湿った闇に滑り込む直前、フィオラは一度だけ、朝日を浴びるアライアの街を振り返った。
黄金色の山吹が揺れていた街道。ガリウスが届けてくれたパンの香ばしい匂い。そして、つい先ほどまで自分たちを羨望の眼差しで見ていた民衆が、今は「化け物」を見るような冷たい目で自分たちを指差している光景。
『アンバー』という偽りの平和、借り物の安らぎは、もうどこにもない。
三人の耳の奥には、今もなお、一族の真の名を呼ぶ、呪いのような騎士の勝ち誇った声が響いていた。
「……シリュウス、アルドナ姉さん」
地下水道の暗闇、滴る水の音だけが響く中、フィオラは二人の手を、痛いほど強く握りしめた。
「私……もう嘘はつきたくない。逃げるだけじゃなくて、いつか、本当のことを……私たちの物語を、ちゃんと『語れる』ようになりたい。この瞳で見たことを、なかったことにしたくないの」
シリュウスは無言でその手を握り返した。その掌は、演算による過負荷で熱を帯びていた。アルドナは暗闇の中で、静かに、けれど深く「裂界の牙」を鞘に納めた。その金属音は、決意の証のように重く響いた。
その瞬間、三人の絆は、かつてのレオファング家が持っていたどの歴史よりも深く、何物にも代えがたい「家族の誓い」へと昇華された。
地上では、騎士団長が砕けた剣の破片を握りしめ、憎しみに満ちた目で地下への入り口を睨んでいた。
「……レオファング。十年前、焼き尽くしたはずの獅子の牙が、再び世界に剥かれたか。……全軍に告ぐ。国家反逆罪として、彼らの首に懸賞金を懸けよ。地の果て、天の際まで追い詰め、根絶やしにするのだ」
芽吹きの陽光月。
降り注ぐ祝福の季節は、凍てつく殺気と鉄錆のような匂いに侵食され、その色を漆黒に変えようとしていた。
三兄妹の旅路は、真の名前を背負い、世界の理と対峙する「宿命の戦記」として、新たな、あるいは過酷な幕を開けたのだ。
次回、『第10話 芽吹きの陽光月・深淵の潜龍』
――重い石蓋が、地上の光を断絶するように低い音を立てて閉まった。その瞬間、世界から一切の色が奪われ、濃密な闇が三人を包み込んだ。
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