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黄昏の語り部フィオラ  作者: 弌黑流人


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第8話 芽吹きの陽光月・断絶の銀灰

 ドルトン卿の屋敷の門を潜った瞬間、そこには外界のアライアとは断絶された、時が凍りついたような静寂が横たわっていた。

 かつては贅を尽くしたであろう庭園は、今や枯死した薔薇の蔓が、まるで侵入者を拒む鉄条網のように絡みついている。一歩足を踏み出すごとに、足下の銀色の灰――それは積もった埃のようでもあり、燃え尽きた記憶の残滓のようでもある――が、かすかに舞い上がった。


「……空気が重い。マナが澱んで、死の匂いと混じり合っているわ」


 アルドナが鼻を鳴らし、外套の下で大剣の柄を強く握り直した。彼女の右腕を覆う紋章が、この場に満ちる異常なまでの霊素に反応し、火傷のような熱を放ち始めている。

 三人が玄関広間に辿り着くと、そこには華やかな衣装に身を包んだ、けれど目の奥にどす黒い欲望を張り付かせた男女が十数人、苛立った様子でたむろしていた。前領主ドルトン卿の親族たちだ。


「遅いではないか! ギルドが寄越したのが、こんな若造とガキだとは……。バネッサも焼きが回ったか!」


 一人の肥満体の男――卿の弟であるエドワードが、三人を値踏みするように睨みつけた。その背後には、冷笑を浮かべる従兄弟や、扇子で口元を隠しながら軽蔑の視線を送る貴婦人たちが控えている。


「挨拶は不要です。……私たちは『アンバー』。ギルドの依頼を遂行しに来ただけです」


 シリュウスは感情を排した声で応じた。彼の眼鏡の奥の瞳は、親族たちではなく、屋敷の天井付近で蠢く「灰色の渦」を見据えている。

 その時、広間のシャンデリアが突如として激しく揺れ、悲鳴のような金属音が響き渡った。


『……帰れ……。わしの言葉を盗もうとする賊どもめ……。失せろッ!』


 凄まじい衝撃波が広間を駆け抜け、親族たちが無様に床に伏せる。だが、フィオラだけはその場に立ち尽くし、真っ直ぐに階段の上を見つめていた。彼女の琥珀色の瞳には、そこに立ち、怒りに顔を歪ませながら涙を流す、一人の老人の姿が映っていた。


「……ドルトン卿。あなたは、盗まれるのが怖いんじゃなくて、間違えられるのが怖いんですね」


 フィオラの小さな声が、嵐のような咆哮を貫いて響いた。

 亡霊の影が、ぴたりと動きを止める。


「な、何を言っている! いいから早く遺言を聞き出せ! 隠し金庫の鍵はどこだ! 北の領地の権利書はどこに隠した!」


 エドワードがフィオラの肩を強引に掴もうと手を伸ばした。

 その瞬間、パキリ、と空気が凍りつく音がした。


「――その手で触れるな」


 シリュウスが、魔導書を開くことさえせずに、極小の重力結界を展開した。エドワードの手は、フィオラの服に触れる寸前で見えない壁に阻まれ、凄まじい圧力で弾き飛ばされる。


「ひ、ひぃっ……!」

「私たちは死者の声を届ける『語り部』。……あんたたちの財布を潤すための道具じゃない。次、この子に触れようとしたら、その腕を二度と使えないようにしてやる」


 普段の温厚さが嘘のような、凍てつくような殺気。シリュウスの冷徹な言葉に、親族たちは蜘蛛の子を散らすように壁際へと退いた。アルドナもまた、抜剣はしないものの、重厚な殺気を放って彼らを牽制する。


「……シリュウス、お願い。私が『深く』潜る間、守っていて」

「わかっているよ、フィオラ。……行って。君の成すべきことを」


 フィオラが杖を突き、ゆっくりと階段を登り始める。シリュウスは全魔力を投じ、フィオラの周囲に黄金色の防護結界を展開した。同時に、アルドナは大剣を引き抜き、実体化し始めた影の魔物――領主の怒りに引き寄せられた下位の悪霊たちを、一閃のもとに切り裂く。

 フィオラがドルトンの霊の前に立った。

 周囲の風景が歪み、かつての、けれど色褪せた記憶の断片が溢れ出す。


「……卿、私に見せてください。あなたが、死の間際まで握りしめていた本当の『後悔』を」

『……誰にも分からぬ。あやつらは、わしの地位と、わしの金しか見ておらぬ……。わしが、あの子に……セシルに、何をしたかも知らずに!』


 ドルトンの叫びと共に、フィオラの脳裏に映像が流れ込む。

 それは、若き日のドルトンが、身分の低い使用人との間に作った娘を、スキャンダルを恐れて街から追放する場面。泣き叫ぶ幼い少女セシル。冷酷に背を向けた自分。

 そして晩年。一人、病床で孤独に死を待つドルトンが、震える手で書き上げた、親族の誰にも渡したくない一通の手紙。


「……鏡。……鏡の裏なんですね」


 フィオラが呟いた。

 現実世界の書斎。フィオラは霊に導かれるように、壁に掛かった古びた大鏡の前に立ち、その額縁に隠された隠しボタンを、杖の先で優しく押した。

 カチリ、と小さな音がして、鏡が扉のように開いた。

 中から現れたのは、一通の羊皮紙と、小さな、けれど温かな光を宿した「銀の指輪」。


「……これが、ドルトン卿の本当の遺言です」


 フィオラは親族たちの前に戻り、毅然として読み上げた。


「『私のすべての財産と領地を、今アライアの孤児院で教師をしているセシル・アレンに譲る。……セシル、わしを許さなくていい。ただ、お前の人生が、わしの犯した罪によって汚されぬことだけを願っている』」

「ば、馬鹿な! そんな庶子の女にすべてだと!? 認めん、そんな遺言!」


 エドワードたちが一斉に襲いかかろうとした、その時。

 屋敷を覆っていた灰色の霧が、一気に、眩いばかりの銀色の粉雪へと変わった。ドルトン卿の霊が、フィオラを見つめて深く頭を下げ、光の中に溶けていく。

 それと同時に、屋敷全体の魔力が弾け、親族たちはその衝撃で広間の外へと押し出された。

 結末が訪れた。

 孤独だった老王の救済と、欲に目がくらんだ者たちの敗北。

 屋敷の窓から、朝の光が差し込み、銀色の灰を美しく照らし出す。


「……終わったね、フィオラ」


 シリュウスが魔導書を閉じ、フィオラの肩を支えた。フィオラは霊域への深いダイブによる疲労で、膝を微かに震わせていたが、その表情は穏やかだった。


「うん。……ドルトンさん、最後は笑ってたよ。セシルさんに会えるって」


 だが、安堵の時間は一瞬で切り裂かれた。

 屋敷の重厚な玄関扉が、内側から弾け飛ぶように開く。ドルトン卿の魔力によって広間から物理的に「排除」された親族たちが、罵声を上げながら転がり出てきたのだ。


「認めん! あんな、あんな出所も知れん手紙など、まやかしだ!」

「衛兵を呼べ! この詐欺師どもを捕らえろ!」


 エドワードが地べたを這い回りながら喚き散らし、豪華な衣装を泥に汚した貴婦人たちは顔を真っ赤にして叫んでいる。彼らの剥き出しの醜悪さは、朝の清浄な空気を汚す泥のようだった。

 その騒ぎを聞きつけ、貴族街を往来していた人々や、近隣の屋敷の使用人たちが遠巻きに集まり始める。


「おい、ドルトン卿の屋敷で何が……」

「あの三人は誰だ? ギルドの人間か?」


 野次馬たちの好奇の視線が集中する中、その喧騒を真っ二つに割るように、金属の擦れる冷たい音が響き渡った。


「――そこまでだ。騒がしい。静粛にせよ」


 野次馬たちが悲鳴を上げて左右に飛び退く。

 朝霧の向こうから現れたのは、バネッサの使いでも、街の自警団でもなかった。

 白金に近い銀色の甲冑を纏い、深紅の外套を翻した一団。教会の精鋭――聖騎士たちが、整然とした隊列で屋敷の門前を封鎖したのだ。

 先頭に立つのは、昨日の入城時にシリュウスたちを呼び止めた、あの冷徹な瞳の騎士だった。

 彼が右手を掲げると、聖騎士たちが機械的な動作で半円を描き、三兄妹と、喚き散らしていた親族たちをも包囲した。その圧倒的な威圧感に、先ほどまで騒いでいたエドワードたちは、一瞬で顔を青ざめさせて口を噤んだ。


「……ようやく出てきたか。中立都市での無許可の魔導行使は重罪だ。……ましてや、死者の声を弄ぶ、忌まわしき異端の術。これ以上の行使は、教会の正義に対する明白な反逆とみなす」


 騎士が、腰に帯びた重厚な長剣をゆっくりと引き抜いた。抜き放たれた白銀の刃が、朝の光を反射して、見る者の網膜を焼く。


「な、騎士様! よくぞ来てくれた!」


 エドワードが、救いの神を見つけたかのように騎士に縋り付こうとした。


「こいつらです! こいつらがドルトン卿の遺言を偽造し、我々の正当な権利を……!」

「黙れ、俗物が」


 騎士は一瞥もくれず、剣の柄でエドワードを突き放した。


「私は貴族の遺産争いなどに興味はない。……私が追っているのは、十年前、教会の聖堂から『不浄なる血』と共に消え去った、大罪人の末路だ」


 騎士の視線が、シリュウス、そして彼に守られるように立つフィオラに固定された。

 周囲を取り囲む民衆たちは、ただならぬ空気を感じて息を呑む。中立都市アライアにおいて、教会がここまで公然と武力を行使するのは極めて異例のことだった。


「……アンバー、と言ったな。……その魔導書をこちらへ渡せ。中身を我々の聖法式に照らし合わせ、精査させてもらう」


 アルドナが「裂界の牙」の柄に手をかけ、一歩前に出た。彼女の背中の筋肉が、極限まで張り詰めているのがフィオラにはわかった。


「……不当な拘束よ。私たちはギルド長バネッサ直々の依頼を遂行していただけ。文句があるなら、彼女に直接言いなさいな」

「バネッサか。あの老いた隼も、随分と危うい橋を渡るようになったものだ。……だが、教会の権限は都市の規約を凌駕する。……それにな、少年」


 騎士が、重厚な鉄靴の音を響かせて一歩、歩み寄った。

 彼はフィオラの琥珀色の瞳を、逃さぬようにじっと覗き込んだ。その距離、わずか数歩。


「……その瞳の色。そして、この清冽〈せいれつ〉でありながら、深淵の底を覗くような不吉なマナの波形。……十年前、業火に包まれた『レオファング』の屋敷から、忽然と姿を消した生き残りの赤子。……そしてそれを連れて逃げた兄と姉。……よく似ていると思わないか?」


 フィオラの心臓が、耳元で鐘を打ったかのように激しく跳ねた。

 騎士の背後、従者が持つ大型の魔導具が、振り切れるような警告音を鳴らし、真っ青な光を四方に放っている。それは紛れもなく、三人の血筋に刻まれた、隠し通せるはずのない「真実」に反応していた。

 遠巻きに見ていた街の人々の間に、戦慄が走る。


「レオファング……? まさか、あの反逆者の英雄の……」

「あの子供たちが、あの『獅子の牙』の生き残りだっていうのか!?」


 ざわめきが波のように広がり、好奇の視線は一瞬で「恐怖」と「嫌悪」へと塗り替えられていく。


「……人違いですよ、騎士様」


 アルドナが、氷のように冷たい声で言い放った。


「私たちはただの、名もなき、居場所のない流れ者。……無実の旅人に剣を向けるのが教会の正義だというのなら、笑わせないで」

「口が減らぬな。……逃がさんぞ。全隊、その三人を捕らえよ! 抵抗し、術を発動させる兆しがあれば、その場で手足を切り落としてでも無力化せよ。死なせぬ限り、教皇庁への『供物』としては事足りる」


 騎士の冷酷な号令と共に、聖騎士たちが一斉に抜剣した。

 朝の霧が立ち込めるアライアの貴族街は、今や逃げ場のない処刑場へと変貌していた。

 『アンバー』という偽名の仮面が粉々に砕け散り、三兄妹は、ついに隠し続けてきた宿命の荒波の中へと、真っ向から放り込まれたのだ。


「……フィオラ、僕の手を離さないで!」

「うん……! お兄ちゃん、アルドナ姉さん!」


 シリュウスの魔導書が、主の決意に応えるように黄金の輝きを放ち、アルドナの大剣が鞘を離れて咆哮を上げる。

 激突の瞬間。

 アライアの街に、三兄妹の真実と戦いの始まりを告げる鐘の音が、重く、長く響き渡ろうとしていた。

 次回、『第9話 芽吹きの陽光月・咆咆の獅子牙』


 「――全隊、捕らえよ! 抵抗は死を意味すると知れ!」


 騎士の号令が、冷たく乾いた朝の空気を切り裂いた。


 ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!

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