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黄昏の語り部フィオラ  作者: 弌黑流人


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第7話 芽吹きの陽光月・星霜の白銀

 冒険者ギルド「暁の翼」の二階へと続く木造の階段は、一段踏みしめるごとに、三人の覚悟を試すような重い音を立てた。

 一階の喧騒が遠ざかり、代わりに廊下の奥から漂ってくるのは、上質な葉巻の香りと、幾多の死線を潜り抜けてきた者だけが放つ、肌を刺すような静かな威圧感だった。


 「……シリュウス、術式を二重に。いつ引き抜くことになってもいいようにしておきなさい」


 アルドナが、隣を歩く弟にだけ聞こえる低声で告げた。彼女の手は外套の下で、すでに大剣の柄を、指が白くなるほど強く握りしめている。

 シリュウスは無言で頷き、眼鏡の縁を押し上げた。彼の指先は、魔導書のページに刻まれた不可視の術式をいつでも解放できるよう、微かに震えながらも正確な位置に固定されている。

 廊下の突き当たり、黒檀の重厚な扉をシリュウスがノックする。


 「……入れ」


 短く、けれど深い響きを持つ女の声。

 室内には、大きな執務机を背に、窓から差し込む残照を浴びて椅子に深く腰掛けた初老の女性がいた。アライア冒険者ギルドの長、バネッサ。かつて「氷原の隼」と謳われ、引退後もその辣腕で中立都市の均衡を守り続けている女傑だ。


 「……アイゼン村から来た『アンバー』の一行だね。掛けなさい。……立ち話をするには、君たちが持ち帰った『真実』は重すぎる」


 シリュウスとフィオラが椅子に座り、アルドナがその後ろで壁を背にして立った。バネッサは、机に置かれたシリュウスの報告書を、指先でトントンと叩く。


 「地底回廊の攻略、見事だった。だが、私が聞きたいのは戦果じゃない。……あそこの地縛霊たちは、何と言っていた? ……いえ、訂正しよう。その娘、フィオラ。お前は彼らに何を『語らせた』?」


 バネッサの鋭い眼光が、フィオラの琥珀色の瞳を射抜いた。

 フィオラは膝の上で手を組み、逃げることなくその視線を受け止めた。


 「……カイルさんは、ただ、お父さんに贈り物を届けたかっただけでした。死んでもなお、届けられなかった後悔が、彼をあそこに留めていたんです。私は……その想いを、通訳しただけです」

「通訳、か。……謙虚だね」


 バネッサは葉巻を灰皿に置くと、身を乗り出した。


 「だがね、その力はアライアでは金よりも、剣よりも価値がある。……今、この街の貴族街では、一人の亡霊が統治の根幹を揺るがしている。前領主、ドルトン卿だ。彼は遺言を残さずに急逝した。そのせいで、跡目争いが激化し、街の経済は停滞している。……誰も、彼の真意を聞き出せない。霊媒師も、魔導師も、皆、彼の怒りに触れて精神を病んで帰ってきた」

 「……その仕事を、僕たちに受けろと言うのですか?」


 シリュウスが、冷徹な響きを含んだ声で割り込んだ。


 「僕たちは静かな旅を望んでいる。街の権力争いに首を突っ込むつもりはありません」

「断る選択肢があると思っているのかい?」

 

 バネッサの唇が、嘲笑うように弧を描いた。


 「門のところにいた『銀の騎士団』。彼らは君たちの『不自然さ』を嗅ぎ回っている。アイゼン村からの報告書、そして君たちの洗練された術式展開……。私が一言『この者たちは怪しい』と囁けば、今夜にも君たちの宿は包囲されるだろう」


 室内の温度が、一気に氷点下まで下がった。

 アルドナの殺気が膨れ上がり、シリュウスの魔導書が微かなマナを帯びて発光し始める。


 「……脅しですか」

 「いいえ、取引だよ。……ドルトン卿の『声』を聞き、争いを収めなさい。そうすれば、私が君たちの身元を保証し、教会の手から逃れるための『裏の通行証』を融通しよう。……悪い話じゃないはずだ」


 沈黙が支配する執務室。フィオラは、兄の背中が小さく震えているのを感じていた。守るための嘘、生きるための妥協。彼女は、シリュウスの服をそっと引いた。


 「……お兄ちゃん。私、やりたい。……その亡霊さん、きっと、すごく悲しいんだと思う。声を聞いてほしいのに、誰も聞いてくれないから、怒ってるんだよ。……カイルさんと同じだよ」


 シリュウスは長く、重い溜息を吐いた。妹のこの純粋さが、自分たちの唯一の光であり、同時に最大の危うさであることを彼は知っている。


 「……わかりました。引き受けましょう。ただし、報酬とは別に、教会の動きに関する情報は逐一提供していただきます」

「話が早くて助かるよ。……明朝、屋敷へ案内させよう。今夜は、ゆっくり休みたまえ」


 ギルドを後にした三人は、すでに夜の帳が降りたアライアの街を、重い足取りで歩いた。

 予約していた宿「黄金の山吹亭」に戻ると、食堂の隅で、昼間の商人ガリウスが、山のような荷物と共に待ち構えていた。


 「おお! アンバーさん! 待っていたよ!」


 ガリウスの顔は、昼間よりもずっと晴れやかだった。彼の隣には、大きな籠いっぱいに詰められた、焼きたてのパンが置かれている。


 「約束通り、パンを焼いてきたよ! 娘のミーナが言っていた通り、少し焦がしてしまったが……これでも、わしの持てる最高の小麦とバターを使ったんだ。食べてくれ!」


 フィオラが籠を覗き込むと、香ばしい、温かな匂いが溢れ出した。それは、かつて故郷ではないけれど、故郷のように大切だった場所で、エリンが焼いてくれたパンの匂いにどこか似ていた。


 「わあ……。ガリウスさん、ありがとう」

 「礼を言うのはこちらだよ、フィオラちゃん。……あんたのおかげで、わしは今、ようやくミーナと一緒に歩いている実感が持てている。……このパンは、あの子と一緒にこねたんだ」


 ガリウスは、誰もいない空中に向かって微笑んだ。そこには、確かにフィオラの目にだけ見えるミーナの笑顔があった。

 三人は食堂の隅で、ガリウスを交えてパンを囲んだ。

 シリュウスがパンを一口かじる。バターの豊かな香りが口いっぱいに広がり、冷えた心が少しだけ解けていく。


 「……おいしいね、お兄ちゃん」

 「ああ……。そうだね」


 シリュウスは答えたが、彼の視線は窓の外、暗い通りを走査していた。

 エリンとの約束。必ず生きて戻るという誓い。ガリウスという善良な人間を騙しているという罪悪感。それらすべてが、パンの味と共に飲み込まれていく。


 「ガリウスさん」


 アルドナが、パンをちぎりながらぶっきらぼうに言った。


 「あんた、教会の騎士の知り合いはいる? あいつら、何を基準に人探しをしているの」


 ガリウスは顔を近づけ、声を潜めた。


 「……風の噂だがね、彼らは『紋章』を探しているらしい。……古い、忘れ去られたはずの英雄の紋章だ。それと、マナの波形。……なんでも、教会の宝物庫から盗まれた『竜の核』に反応する魔導具を持っているとかで……」


 アルドナの手が止まった。

 彼女の右腕、包帯の下に刻まれた紋章。そしてシリュウスの演算能力。すべてが教会の「標的」に合致している。

 食事が終わり、ガリウスが去った後、三人は宿の部屋へ入った。

 フィオラとシリュウスが眠りについた後、アルドナは一人、窓辺で月を見ていた。彼女は右腕の包帯を解き、赤黒く光る紋章を見つめる。それは呪いか、あるいは守護か。

 不意に、通りを歩く規則正しい足音が聞こえた。

 アルドナは息を殺し、窓の隙間から下を覗く。

 

 月光に照らされた石畳を、昼間のあの銀色の騎士が歩いていた。

 彼は立ち止まり、懐から一枚の羊皮紙を取り出す。そこには、金色の糸で「咆哮する獅子」の紋章が描かれていた。……三人の本来の家紋、「レオファング」の印。

 騎士は宿を見上げ、冷酷な笑みを浮かべた。その手にある魔導具が、微かに、けれどはっきりと青い光を放っている。


 (……気づかれたか。いや、まだ絞り込めてはいないはず)


 アルドナは「裂界の牙」を静かに引き寄せ、妹の寝顔を見た。

 平和な時間は、いつも指の間から零れ落ちる砂のように短い。

 翌朝。

 アライアを包む深い朝靄の中、三人は貴族街の最奥、前領主ドルトン卿の屋敷へと向かった。

 聳え立つ黒い門。手入れの行き届いていない庭園には、枯れたバラの棘が刺すように絡みついている。

 屋敷の玄関を跨いだ瞬間、フィオラの耳に、凄まじい衝撃となって「叫び」が飛び込んできた。


 『……許さぬ……! 誰一人として……わしの言葉を汚す者は、許さぬ……!』


 それは、怒りというよりも、果てしない孤独に耐えかねた悲鳴に近かった。

 フィオラは杖を強く握り締め、自分にだけ見える「灰色の影」が蠢く大広間を見据えた。


 「……フィオラ、大丈夫かい?」

 「……うん。お兄ちゃん。……この人、すごく泣いてる。……声が、枯れるまで」


 三人は、人間の欲望が渦巻く呪われた屋敷の奥へと、一歩を踏み出した。

 背後で、重い扉が閉まる音が響いた。


 次回、『第8話 芽吹きの陽光月・断絶の銀灰』


 ――ドルトン卿の屋敷の門を潜った瞬間、そこには外界のアライアとは断絶された、時が凍りついたような静寂が横たわっていた。


 ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!

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