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黄昏の語り部フィオラ  作者: 弌黑流人


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第5話 芽吹きの陽光月・陽光の山吹

 街道の勾配が緩やかになり、前方の視界が大きく開けた。

 アイゼン連峰の峻険な岩肌はいつの間にか背後へと退き、代わって三人の目の前に広がったのは、春の陽光を浴びて黄金色に揺れる山吹の群生地だった。その鮮やかな黄色は、まるで地面に太陽の光が溜まっているかのように眩しく、旅人の目を射る。

 風が吹き抜けるたび、山吹の細い枝がさらさらと乾いた音を立ててしなり、黄金の波を作る。地底の湿った死の匂い、腐敗したマナの毒に焼かれた喉には、この草いきれの熱気と、眩いばかりの生命力が何よりの薬だった。


 「……あ、見て、お兄ちゃん。山吹の花がこんなにたくさん」


 フィオラが杖を指し示した先では、無数の小さな花弁が陽光を反射していた。彼女は地底での過酷な交流の後遺症を振り払うように、深く息を吸い込む。

 だが、隣を歩くシリュウスの警戒は解かれていなかった。


 「ああ、綺麗だね。……でもフィオラ、あまり道から外れないで。地底回廊に近いこの辺りは、まだ魔力の澱みが残っている可能性がある。不浄なマナに当てられた花に触れれば、また君の瞳に負担がかかる」


 シリュウスは歩きながらも、絶えず魔導書のページに指先を這わせ、周囲のマナ密度を測定していた。彼の眼鏡の奥の瞳は、花を愛でる余裕を見せつつも、獲物を狙う鷹のように鋭く周囲を走査している。一見、穏やかな旅の兄妹に見えるが、その足取りには一切の隙がない。


 「……シリュウス、あんたは少し神経質すぎるわ。少しは肩の力を抜きなさい」


 アルドナが、肩に担いだ大剣「裂界の牙」をわずかに揺らして鼻で笑った。彼女の視線は、街道の先――陽炎が揺れる地平線を見据えている。


 「警戒は必要だが、萎縮しすぎては剣は鈍る。……それより、見て。あそこに誰かいるわよ」


 アルドナの視線の先、街道が大きく曲がる地点に、一台の荷馬車が止まっていた。

 馬車は横転こそしていないが、右の後輪が深い溝に嵌まり込んでいるようだ。傍らでは、色鮮やかな刺繍が施された服を纏った小太りの男が、途方に暮れたように馬の首を撫で、必死になだめていた。


 「助けを呼びに行くにも、この辺りは人通りが少ないしね……」


 シリュウスがそう呟くと同時に、男がこちらに気づき、顔を輝かせて必死に手を振った。


 「おーい! そこの旅の方々! 助けてくれ! 車輪が、車輪が不運にも溝に喰われてしまって、びくともせんのですよ!」


 三人は一瞬だけ足を止め、無言で視線を交わした。アルドナは顎をしゃくり、「こういう交渉事はあんたの役目でしょ」と無言の圧力をシリュウスにかける。シリュウスは小さく溜息を吐くと、柔和な笑みを顔に貼り付け、男に歩み寄った。


 「お困りですか。私たちは旅の者ですが、何か手伝えることがあれば」

 「おお、恩にきる! 私は商人のガリウスという。この先の中立都市アライアへ向かう途中だったのだが、この有様で。馬も疲れてしまって、もう一歩も引こうとしないんだ」


 ガリウスと名乗った男は、額の汗を派手な色のハンカチで拭いながら、切実に現状を訴えた。

 彼はアライアで珍しい鉱石や布、染料を取り扱う商人だという。馬車の荷台には、丁寧に梱包された商品が山のように積み上がっており、その隙間から、地底回廊付近でしか採れないという青い染料の独特な香りと、北方の山脈で採れる香草の匂いが混じり合って漂っていた。


 「……いい匂い」


 フィオラが馬車の傍らで鼻をくんくんと動かす。


 「ガリウスさん、この馬車の荷物……なんだか、とっても懐かしい匂いがする」

 「ほう、お嬢ちゃん、鼻がいいね! これは北方の山脈でしか採れない貴重な香草だよ。故郷を思い出す旅人も多いんだが、あんたがたもあっちの方の生まれかい?」


 ガリウスの何気ない問いに、シリュウスの瞳の奥が一瞬だけ冷たく光った。だが、彼は即座にそれを隠し、穏やかに首を振った。


 「いえ、あちこちを回っておりますので。……よし、姉さん。手伝ってもらえるかな。僕が結界で荷台の重さを一時的に軽減する。その隙に、車輪を溝から引き上げてほしい」

 「……ふん。力仕事担当ってわけね。……そこの馬、少し大人しくしてなさい」


 アルドナは大剣を近くの木に立てかけ、袖をまくり上げた。彼女が馬の鼻面を不器用に、けれど確かな安心感を与える手つきで撫でると、荒れていた馬が不思議と大人しくなった。その際、彼女の右腕を覆う包帯の隙間から、鈍い銀色の光が一瞬だけ覗く。ガリウスはそれを「珍しい装飾品か何か」だと思ったようだが、その力強さに息を呑んだ。


「いくよ、三、二、一……今だ!」


 シリュウスが魔導書を開き、流れるような動作で高度な浮遊演算術式を起動した。

 馬車の周囲に複雑な幾何学模様の青い光が走り、荷物の重みが物理的な法則から切り離され、ふわりと浮き上がる。

 その瞬間、アルドナが荷台の後部に手をかけ、驚異的な筋力で一気に引き上げた。


 「――っ、はあ!」


 ずぼり、という湿った音と共に、巨大な車輪が溝から抜けた。

 ガリウスは目を丸くし、顎が外れんばかりの勢いでその光景を眺めていた。ただの旅人が見せるには、あまりに鮮やかで洗練された「術」と「力」だった。軍の精鋭魔導師でも、これほど静かに、かつ正確な術式展開は容易ではない。


 「……驚いた。あんたがた、ただの冒険者じゃないね? これほどの連携……まるで一つの生き物のように息が合っている。どこかの王宮勤めだと言われても信じるよ」

 「いえ、ただの『アンバー』という名の流れ者ですよ。……さあ、ガリウスさん。車輪が壊れていないか、今のうちに点検を」


 シリュウスは事も無げに術を解き、再び魔導書を閉じた。

 ガリウスは首を傾げながらも、何度も感謝を述べながら車輪の確認を始めた。その間、フィオラは馬車の荷台の隅、山積みになった布の山の上に、透明な「何か」が座っているのに気づいた。

 それは、十歳にも満たない小さな女の子の姿をした残留思念だった。

 彼女はガリウスの忙しなく動く背中を、悲しそうに、けれど慈しむような目で見つめていた。


 「……ガリウスさん。あなたの荷物の中に、古い木彫りの人形はありませんか?」


 フィオラの唐突な問いに、ガリウスの手が止まった。


 「……人形? ああ、あるよ。売り物じゃないし、もうボロボロなんだが、ずっと持ち歩いている。……どうしてそれを知っているんだい?」

 「その子が、ずっとそれを抱きしめて、あなたの隣に座っています。……『お父さん、もう無理して太らなくていいよ。健康が一番なんだから』って、笑いながら言っていますよ」


 ガリウスの顔から、商人の仮面が剥がれ落ちた。

 彼は震える手で、荷台の奥、厳重に隠された小さな小箱を取り出した。中には、フィオラが言った通りの、古ぼけた木彫りの人形が入っていた。それは、彼が数年前に流行り病で亡くした一人娘、ミーナの形見だった。


 「……ミーナ、なのか。そこに、いるのか……?」


 ガリウスは誰もいない空間に向かって、空しく手を伸ばした。

 フィオラは静かに頷き、少女の唇の動きを、その心の波紋を、一つずつ丁寧に紡ぎ始める。


 「『お父さんの焼くパンが、世界で一番好きだったよ』。……そう言っています。ガリウスさん、あなたが商人になって忙しくなる前、毎日焼いてくれたあの少し焦げたパンの味が、彼女の一番の宝物なんだって」


 ガリウスはその場に膝をつき、人形を抱きしめて号泣した。


 「……わしは、ミーナに不自由させたくなくて、金稼ぎに必死になって……。パンを焼く時間さえ惜しんで、あの子を一人にしてしまった……。なのに、あの子は、あんな焦げたパンを……」

 『お父さん、泣かないで。今夜、宿に着いたら、また焼いてくれる? ミーナ、見てるから』


 フィオラがその言葉を伝えると、ガリウスは何度も何度も頷いた。


 「焼くとも、焼くとも! 一番いい小麦粉を買って、お前のために最高のパンを焼くよ、ミーナ!」


 山吹の花が揺れる街道で、親子の想いが数年の時を超えて交差した。

 シリュウスとアルドナは、その光景を少し離れた場所で見守っていた。フィオラの力が、ただの「呪い」ではなく、誰かの止まった時間を動かす「赦し」になる瞬間を、彼らは何度も見てきた。けれど、その度にシリュウスは、偽名を名乗り続ける自分たちの不誠実さに胸を痛めるのだった。

 やがて涙を拭いたガリウスは、立ち上がり、三人に深々と頭を下げた。


 「アンバーさん、本当にありがとう。この恩は一生忘れん。……お礼と言っては何だが、アライアへ行くなら気をつけて。最近、教会の『銀の騎士団』が、この辺りで妙な人探しをしているらしい。あんたがたのような腕利きは、あらぬ疑いをかけられないよう、早めに宿を確保したほうがいい」

 「銀の騎士団、ですか……。貴重な情報をありがとうございます」


 シリュウスの瞳に緊張が走った。

 三人はガリウスと別れ、再び街道を歩き出す。黄金色の山吹が風に吹かれ、彼らの旅路を祝うように舞い上がった。

 だが、フィオラは背後に冷たい視線を感じ、一度だけ振り返った。

 そこにはただ、青い空と山吹の海が広がっているだけだ。しかし、彼女の琥珀色の瞳には、逃れられぬ宿命の影が、少しずつ、けれど確実に近づいてくるのが見えていた。


 「……行きましょう、二人とも。アライアの門が見えてきたわ」


 アルドナの声に導かれ、三人は黄金の絨毯を踏みしめ、次なる対話の待つ都市へと足を踏み入れた。


 次回、『第6話 芽吹きの陽光月・夕映えの黄金』


 ――街道の両脇を埋め尽くしていた山吹の黄金色は、夕闇の訪れと共にしっとりとした深い影を帯び、代わって都市の活気が風に乗って三人の鼻をくすぐる。


 ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!


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