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黄昏の語り部フィオラ  作者: 弌黑流人


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第4話 芽吹きの陽光月・朝凪の翡翠

 地底回廊の深く重い闇を抜け、湿り気を帯びた石段を一段ずつ踏みしめて地上へと戻った瞬間、フィオラの視界は弾けるような白光に包まれた。

 肺の奥まで満たしたのは、雨上がりの清冽な風だ。つい数刻前まで、腐敗したマナの毒に焼かれ、死者の怨嗟と後悔に耳を塞いでいたことが、まるで遠い異世界の出来事であったかのように錯覚する。

 朝霧は跡形もなく晴れ上がり、アイゼン連峰の切り立った稜線が、抜けるような濃紺の空を鮮やかに切り裂いていた。岩肌に残る水滴が陽光を浴びて、無数の宝石を撒いたように煌めいている。


 「……終わったのね、本当に」


 フィオラは杖を支えに、大きく息を吐いた。隣では、シリュウスが魔導書の術式を静かに解除し、眼鏡の奥の瞳を和らげている。

 三人が回廊の入り口から数分ほど歩いた場所にある、古びた石造りの休憩所へ戻ると、そこには、焚き火の跡を虚ろな目で見つめていた老人、トーマスの姿があった。


 「……おお、戻られたか。よくぞご無事で……」


 トーマスは、岩から滑り落ちるようにして立ち上がった。泥に汚れた彼の手は、小刻みに震えている。その顔に刻まれた深い皺には、期待と、それ以上に「息子は私を恨んでいたのだ」という答えを突きつけられることへの、耐え難い恐怖が滲んでいた。自責の念という毒は、時に魔物の牙よりも深く人を損なう。

 シリュウスが無言で歩み寄り、懐から取り出した小さな布包みを差し出した。

 中から現れたのは、淡い薄紅色の光を宿した原石。陽光の下で、それはまるで生まれたての朝焼けを閉じ込めたかのように、優しく、力強く脈動した。


 「……これ、は。カイルが……あいつも言っていた、早天の原石……」

 「カイルさんの贈り物です、トーマスさん」


 フィオラが、トーマスの目をごまかさずに真っ直ぐに見つめて告げた。


 「彼は、崩落の瞬間まで、この石を離しませんでした。お父さんの誕生日に、どうしてもこれを渡したかったんだって。……ずっと、謝りたかったそうです」


 だが、トーマスは差し出された石を受け取ろうとはしなかった。それどころか、顔を歪めて激しく首を振った。その瞳には、救いを拒絶するような頑なな絶望が宿っている。


 「嘘だ……そんな綺麗な話があるものか! あいつは、わしを睨みつけて家を出たんだ。あの日、わしがあいつの夢を笑い、役立たずだと罵ったから……。あいつはわしを呪って死んだに決まっている。こんな石、あいつの怨念に違いない。わしを一生苦しめるために、あんたたちに持たせたんだ!」


 老人の叫びは、静かな朝の空気を切り裂いた。彼は自分を許すことができない。息子を死なせた報いとして、永遠に憎まれていなければならないと思い込んでいた。

 その様子を傍らで見ていたアルドナの眉が、わずかに動いた。彼女は周囲の魔物の気配を警戒しつつ、大剣の柄に置いた手に力を込める。彼女の脳裏に、今はなき両親の姿がよぎった。自分たちもまた、多くの言葉を交わせぬまま故郷を追われ、大切な人を失ってきた。もしあの時、一言でも「愛している」と言えていれば。あるいは、その言葉を受け取れていれば。老人の拒絶は、かつての自分たちが味わった癒えぬ傷を抉るようだった。


 「……トーマスさん、聞いてください」


 フィオラは怯むことなく、さらに一歩踏み込んだ。彼女の琥珀色の瞳は、老人の背後に漂う、今にも消え入りそうなカイルの残留思念を捉えていた。


 「カイルさんが言っています。『お父さんのその癖、まだ直ってないんだね』って」


 トーマスの動きが止まった。


 「……あの日、家を出る時。お父さんは怒鳴りながらも、本当は泣きそうな顔で、震える手で鼻の頭をこすっていた。……カイルさんは、それを見ていたんです。不器用なあなたの優しさを、彼はちゃんと分かっていました。……今も、お父さんがそうやって自分を責めるのを、悲しそうに見ています」


 鼻の頭をこする癖。それは、トーマスが感情を抑えきれない時に無意識に出る、家族しか知り得ない特徴だった。トーマスの瞳が激しく揺れる。


 「……あいつ、そんなことまで。わしは、あんなに酷いことを言ったのに……」

「彼は言っています。子供の頃、お父さんが直してくれたあの錆びた採掘スコップが、今でも彼の宝物だったって。……お父さんの大きな手が大好きだったって。彼は、あなたに愛されていたことを誇りに思って、あの闇の中でも、最期まであなたのことを考えて笑っていましたよ」


 フィオラの言葉は、もはや単なる情報の伝達ではなかった。それは死者と生者を結ぶ、魂の交流そのものだった。彼女の瞳から溢れ出す確信に、トーマスの心の氷が音を立てて砕け散った。


 「……ああ、カイル……。許しておくれ……わしこそ、お前に、愛してると一言も言えなかった……。ありがとう、ありがとう……」


 トーマスは原石をひったくるように奪い、それを自分の額に押し当てて泣き崩れた。その背中を、シリュウスが静かに見つめている。彼は手元の羊皮紙に、ギルドへの完了報告を綴りながら、そこに一筆書き添えた。「依頼主、トーマス殿の精神的打撃は甚大。近隣の知己による継続的な見守りを強く推奨する」。それは、冷静な分析を装った、彼なりの精一杯の慈悲だった。


 「……行こう。ここは、もう僕たちの居るべき場所じゃない」


 シリュウスが、そっとフィオラの肩に手を置いて促した。

 三人は、石を抱きしめて嗚咽するトーマスに背を向け、街道へと歩き出した。

 去り際、トーマスが顔を上げ、掠れた声で問いかけた。


 「アンバーさん……。あんたたちは、一体何者なんだ? ただの冒険者には見えん……」


 アルドナの背中が、一瞬だけ硬直した。偽名を名乗るたびに、英雄「獅子のレオファング」としての誇りが、薄い紙を剥ぐように削り取られていく。だが、彼女は振り返らずに、風の中に言葉を投げた。


 「……ただの通りすがりの、語り部よ。名前なんて、ただの記号に過ぎないわ」


 三人はそのまま、翡翠色の草原がなだらかに続く街道を下っていった。

 道の脇には、この時期にしか咲かない「翡翠の鐘」という名の小さな花が群生している。それはアイゼン村の特産であり、同時に、エリンが好んで工房の窓辺に飾っていた花でもあった。

 シリュウスがふと立ち止まり、その一輪にそっと指を触れた。

 指先に触れる冷たい露と、微かな花の香り。それが、エリンの髪の匂いや、工房に漂っていた彼女の生活の気配を鮮烈に呼び起こす。この花を一輪摘んで、彼女への手紙に添えられたら――。シリュウスの心に、激しい郷愁が押し寄せる。だが、彼はその指を、まるで熱い鉄に触れたかのように引き離した。


 (……いや。思い出は、あの村に置いてきたんだ。僕は今、『アンバー』として、前だけを見なければならない)


 シリュウスは花を摘むことなく、視線を上げた。愛しているからこそ、今は後ろを向くことが最大の罪に思えた。彼は一度だけ深く呼吸し、再び妹の歩幅に合わせて歩き出す。


 「……お兄ちゃん。エリンさんの匂い、した?」

 「……ああ。でも、今はアライアを目指そう。やるべきことは、まだ始まったばかりだ」


 フィオラは兄の強がりの中に潜む、深い決意と痛みを、その琥珀色の瞳で見通していた。彼女は何も言わず、兄の歩みに寄り添った。三人は、自分たちの本当のルーツ――禁忌の森にあるはずの「失われた家」への地図を持たぬ旅を続ける。

 しかし、そんな彼らの背後、街道を遥か遠くから見下ろす崖の頂には、不穏な影が落ちていた。

 銀の装飾が施された重厚な甲冑を纏い、深紅の外套を風になびかせた一人の聖騎士。その傍らには、地面に残ったマナの残滓に反応して青く光る水晶の魔導具が置かれていた。

 騎士の手には、教会の最高司祭による金色の封蝋がなされた「異端追跡命令書」が握られている。


 「……間違いない。竜の呪毒が染み付いた剣筋、高密度の演算結界。そして、不自然なほどに浄化された死霊の跡。……レオファングの子供共、ついに見つけたぞ」


 騎士はアイゼン村での聞き込みを思い出していた。あの武具店の女、エリン・アイゼン。彼女は確かに何かを隠していた。騎士の問いに対して見せた、あの一瞬の動揺。守るべき誰かがいる者の目。


 「あの女、後でたっぷり吐かせてやる。だが、まずはこの獲物どもだ。……逃がさん。教会の正義を汚す、不浄なる英雄の血筋。その根を断つまでな」


 騎士の冷酷な呟きは、高所の強い風に一瞬でかき消された。

 街道を進むフィオラは、ふと背筋を這い上がるような得体の知れない悪寒を感じて立ち止まり、激しく振り返った。


 「……フィオラ? どうかしたかい? 顔色が悪いよ」

 「ううん……。なんでもない、お兄ちゃん。……ただ、誰かに、見られているような気がして」

 「この開けた街道でかい? ……僕の結界には反応がないけれど、警戒は強めておこう。アルドナ姉さん、少しペースを上げてくれ」

 「言われなくても。嫌な匂いが風に乗ってきたわ」


 アルドナの言葉に、フィオラは杖を突き、不安を振り払うように元気に歩き出した。

 目の前には、春の陽光に満ちた眩しいばかりの緑の道。だが、その一歩先には、教会の刃と、世界に隠された真実が、牙を剥いて待ち構えていた。


 次回、『第5話 芽吹きの陽光月・陽光の山吹』


 ――アイゼン連峰の峻険な岩肌はいつの間にか背後へと退き、代わって三人の目の前に広がったのは、春の陽光を浴びて黄金色に揺れる山吹の群生地だった。


 ご拝読ありがとうございます。次回もお楽しみに!


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