第35話 逃避行の果て空の境界へ
勝利の余韻に浸る時間は、一秒たりとも、瞬きの一瞬すら残されてはいなかった。
ミストラル村の広場に無惨に横たわるのは、砕け散った深紅の宝剣火鼠の残骸と、その破片によって全身を切り刻まれながらも、瞳に狂気的な信仰の火を灯し続ける騎士レオン・ヴァルムの姿であった。彼はもはや自力で立ち上がることも叶わぬ致命傷を負いながらも、震える手で自身の胸甲に埋め込まれた緊急通信用の大型魔導結晶を握りつぶした。
「……神の……光は、……決して……潰えぬ……。……追撃の……天使たちが、……貴様らを、地獄の底まで……追い詰めるだろう……」
喉の奥から絞り出されたその言葉が、不吉な呪詛となってミストラルの空に響き渡る。直後、遥か彼方の地平線から、聖教会の本隊が放つ数千の魔導信号が、明けの明星さえも覆い隠すほどの光の洪水となって、このミストラル村を目指して収束し始めた。
「お姉ちゃん、お兄ちゃん、急いで! 教会の本隊、聖教騎士団の第二陣がもうすぐそこまで、この場所を特定して来てる!」
語り部としての鋭敏な感覚で災厄を察知した末妹のフィオラが叫び、崩れかけた家路の先にある、断崖絶壁へと続く険しい山道を指し示した。
「わかってるわよ!……シリュウス、立てる!? エリン、あんたも大丈夫ね!」
アルドナが愛剣「裂界の牙」を背負い直し、泥を噛んで跪くシリュウスの腕を、強引に、しかし確かな慈しみを込めて引き上げた。
シリュウスの恋人であるエリンは、その問いに言葉で答える代わりに、自身の腰に巻いた鍛冶師特製の道具袋から数個の火薬筒を取り出した。彼女の動きは、先ほどの激闘を経たことでより一層の冴えを見せ、村の入り口へと繋がる路地に、迷いのない手つきで複雑な連鎖トラップを仕掛けていく。
「アルドナさん、ここは私が『壁』を作るわ。私の作った爆薬は、騎士団の馬足を止めるくらいには役に立つ。……シリュウスをお願い!」
エリンの瞳には、アイゼン村で過ごしていた頃の柔和な面影はなく、ただ愛する者の退路を死守しようとする、孤独な戦士の冷徹な決意だけが宿っていた。
一行は、ミストラル村の裏手に位置する、垂直に近い角度で天へと伸びる険しい岩壁「天を突く梯子」へと駆け出した。そこは、かつての古代巡礼者たちが自身の信仰を証明するために、心身を削りながら登攀したとされる、空の遺跡へと至る唯一の通路である。
背後で、エリンが設置した火薬が腹に響く轟音を立てて爆ぜ、教会の先遣隊を瓦礫の山で足止めする。しかし、聖教会の追撃はもはや常軌を逸していた。空を駆ける魔導騎兵たちが、朝焼けの雲を無惨に引き裂きながら、四人の頭上へと容赦のない光の矢を降らせ始める。
「くっ……、空からも来てるわね! フィオラ、防壁の旋律を絶やさないで! 一つでも漏らしたら、全員雲の下へ真っ逆さまよ!」
アルドナが飛来する光の矢を大剣の腹で強引に薙ぎ払いながら、足場の悪い、指先一つで命を繋ぐような岩場を驚異的な身体能力で駆け上がる。
しかし、登攀の半ばで、取り返しのつかない異変が起こった。
先頭を走っていたシリュウスの足取りが急激に乱れ、彼は岩壁に崩れるように手を突いたまま、ぴくりとも動けなくなったのだ。彼の右腕で黄金色に輝いていた腕章が、不気味な黒いノイズを混ぜながら、激しい明滅を繰り返している。
「シリュウス!? どうしたの、しっかりして!」
エリンが悲鳴に近い声を上げ、滑落の危険も顧みず彼に駆け寄り、その顔を覗き込む。シリュウスの瞳は焦点が合わず、虚ろに開かれたまま、冷たい汗が滝のように流れ落ちていた。
黄金の腕章は、今のシリュウスの不安定で細い魔力回路を強引に接続・拡張し、奇跡的な魔導の行使を可能にしていた。しかし、その代償はあまりにも重かった。腕章は不足する魔力を補うため、彼の脳内にある大切な「記憶の貯蔵庫」を、生きた燃料として無慈悲に食い潰していたのだ。
「……え、りん……? 君、は……。……ごめん、……誰、だったかな。……僕は、……何のために、誰を……守ろうとしていたんだっけ……」
シリュウスの声からは、彼を彼たらしめていた全ての感情と色彩が抜け落ちていた。
腕章の負荷が、ついに彼の意識の最深部にまで到達し、最愛の恋人であるエリンという存在、彼女と過ごした数多の季節さえも、忘却の海へと沈めようとしていた。
「嘘……、そんなの、嘘よ……」
エリンの身体が、絶望に打ち震える。最愛の男性に、自分の名前を忘れられる。共に過ごした日々を無にされる。それは、彼女にとって、教会の刃に心臓を貫かれるよりも遥かに過酷で、残酷な拷問であった。
けれど、エリンは泣かなかった。彼女はシリュウスの氷のように冷たい手を、自身の体温を分かつように両手で包み込み、自らの額を彼の額へと、痛いほど強く押し当てた。
「忘れてもいいわ、シリュウス。あなたが忘れた分だけ、私があなたの名前を何度でも呼び続ける。あなたの心が空っぽになって、真っ白な頁になっても、私がもう一度、新しい思い出でそこを埋め尽くしてあげる。……だから、お願い。今はまだ、立ち止まらないで。一緒に、あの高い空を見に行こう。約束したでしょう?」
エリンの瞳から溢れた涙が、シリュウスの頬を濡らし、黄金の腕章へと滴り落ちる。その瞬間、狂ったように明滅していた腕章の輝きが静かに安定し、黄金色の琥珀から柔らかな熱が、シリュウスの枯渇した精神へと流れ込んだ。
「……エリン。……ああ、そうだね。……君は、僕の……僕が命を賭けても守るべき、恋人だ……」
シリュウスの瞳に、微かな、しかし揺るぎない理知の光が戻る。彼は自身の足で、震えながらも再び立ち上がり、岩壁を登り始めた。
「姉さん、フィオラ。……先を急ごう。……僕の記憶が、完全にこの世界から消えてしまう前に、……この物語の続きを、僕たちの目で、見届けなきゃいけないんだ」
そこからの登攀は、もはや地獄のような時間の連続であった。
高度が上がるにつれ酸素は薄くなり、吹き付ける強風は鋭いナイフのように皮膚を切り裂く。
アルドナの右腕は、レオファングの力の限界に達し、その指先からは黒い血が混じった汗が滴り落ちていた。フィオラの笛の音も、体力の限界による呼吸の乱れから、かすかな悲鳴のように震え続けている。
それでも、四人は止まらなかった。背後に迫る教会の追手たちの呪詛に満ちた怒号と、魔導騎兵の翼が空を切る不吉な音が、彼らを極限の先へと追い詰めていく。
そして、ついにその運命の瞬間が訪れた。
重く立ち込めていた雲海を突き抜け、視界を遮る霧のカーテンを強引に引き裂いた、その先。
そこには、地上の喧騒と血の臭いから完全に隔離された、絶対的な静寂と神性に満ちた白銀の世界が広がっていた。
天空に浮かぶ巨大な浮遊島。その中央に鎮座するのは、かつて地上の王たちがどれほど望んでも決して辿り着くことができなかった神の住処、空の遺跡の入り口であった。
白一色の、継ぎ目一つない巨大な石材で築かれた円柱群と、見たこともない古代文字が、青白い光を帯びて刻まれた巨大な大門。そこには、数千年の時を経てもなお衰えることのない、圧倒的な威厳と、見る者を拒絶するような神聖さが宿っていた。
「……あれが、……私たちが、レオファングの真実を求めて……辿り着いた……」
末妹のフィオラが、感嘆のあまり愛用の笛を落としそうになりながら、掠れた声で呟く。
語り部として、この世界の影に隠された数多の物語を収集し、紡いできた彼女の魂が、かつてないほどに激しく共鳴していた。そこには、レオファングにかけられた呪いの真実、聖教会の抱える千年規模の欺瞞、そしてこの世界がどのように始まったのかという、はじまりの物語が、文字通り眠っているのだ。
しかし、運命は四人に、安らかな安息を容易くは与えなかった。
空の遺跡の入り口、その巨大な門の前には、聖教会の最高機密とされる重層封印術式が幾重にも張り巡らされていた。そして、その結界の中心には、先ほどのレオン・ヴァルムをも遥かに凌駕する圧倒的な魔圧を放つ、教会の最高指導層「枢機卿」直属の、封印守護騎士たちが、一分の乱れもない静粛な隊列を組んで待ち構えていたのだ。
「ここまでだ、敗残の獣ども、そして物語の穢れを運ぶ者たちよ。ここから先は、無垢なる神の領域であり、人の立ち入るべき聖域ではない。貴様らがその身に抱えた呪いと共に、この雲海の下へ、永遠の奈落へと堕ちるがいい」
守護騎士の長が、一言の感情も交えずに告げ、静かに白銀の剣を抜く。その剣先から放たれるのは、これまでの追手とは次元の違う、大気も魔力も、そして空間そのものをも固定し、術式の発動を許さない絶対的な「沈黙」の結界。
「……最後の一歩まで、とことん邪魔してくれるわね。……いいわよ、望むところだわ」
アルドナが、黒く染まりきった右腕で大剣を、骨が鳴るほどに握りしめる。
「フィオラ、最後の旋律の準備はいい? シリュウス、エリン。ここをぶち抜けば、全部わかる。私たちの運命が、誰に、何のために歪められたのかを。……行くわよ、私たちの新しい物語を、この空の頂に刻み付けるために!」
「ええ、行きましょう! アルドナさん、……シリュウス、私もあなたの翼になるわ!」
エリンが二振りの短剣を構え、シリュウスが黄金の腕章に、文字通り自身の存在の全てを賭した最後の魔力を込める。
「……みんなを、失うわけにはいかない。この物語の結末は、僕たちが決めるんだ」
シリュウスの、静かではあるが、鋼のように硬質な決意。
空の遺跡。その鉄壁の入り口を巡る、最大にして最高の、そして物語の転換点となる突破戦が、今、数千年の時を超えて聳〈そび〉え立つ巨大な遺跡に見守られるかのように、鮮烈な幕を開けようとしていた。
次回、『第36話 神の沈黙と語り部の宣誓』
――空の遺跡。その白銀の巨門の前に広がる空間は、一瞬にして生命の鼓動を拒絶する「絶対的な無」の世界へと変貌した。
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