第33話 ミストラル村防衛戦
夜明け前の蒼い静寂が、無機質な鉄の響きと、大気を引き裂く魔導の咆哮によって無惨に切り裂かれた。
ミストラル村を包囲するように展開したのは、聖教会の誇る精鋭、異端審問官直属の執行部隊である。彼らはレオファングの残党を抹殺し、禁忌の物語をこの世から抹消するため、一切の慈悲を捨てて村への侵攻を開始した。
村の境界に設置された魔導障壁が、教会の重魔導砲の直撃を受けてガラスのように砕け散る。その爆風が家々を揺らし、安らぎの時間は終わりを告げた。
「みんな、落ち着いて! 計画通り、村の奥の隠し通路へ急いで!」
混乱の渦中にある村の広場で、エリンの声が鋭く、凛として響き渡った。その動きは、かつてのアイゼン村で見せていた穏やかな鍛冶師の娘の姿からは想像もつかないほどに洗練され、一分の無駄もなかった。
鍛冶職人として長年重い鎚を振り、鉄を叩き続けてきたことで培われた、しなやかで強靭な広背筋。そして、獲物の微かな熱や金属の歪みを見逃さない職人特有の観察眼。彼女は村人たちを誘導しながら、同時に自身の腰に帯びた二振りの短剣を、獲物を狙う野獣のような鋭い指つきで確認した。
「シリュウス、これを持って。……ううん、あなたの『命』の一部にして」
避難の喧騒の中、エリンはシリュウスの右腕に、一つの装飾品を強く、祈りを込めて巻き付けた。
それは、アイゼン村の特産である黄金色の琥珀「アンバー」を贅沢にあしらった、特製の腕章であった。
「これは……?」
シリュウスが、その腕章から溢れ出す、かつての彼が持っていた魔力とは異なる「温かな重み」に目を丸くする。
「私の鍛冶師としての技術と、カシウスさんから託された秘蔵の魔導回路を組み込んだの。精神汚染からあなたの魂を保護し、今のあなたの不安定な魔力を圧縮して、かつての高度な術式を再構築するための心臓。……シリュウス、あなたの膨大な知識は森が奪ったかもしれない。けれど、私があなたの隣で、あなたの失われた記憶の代わりになる。だから、何も恐れずにその力を使って」
腕章に埋め込まれた黄金琥珀が、シリュウスの心音に呼応するように輝くと同時に、彼の全身に、失われていたはずの魔力の激しい拍動が蘇った。かつての彼なら瞬時に導き出したであろう複雑な術式の構成図は、まだ濃い霧の向こうにある。しかし、腕章が持つ「魔力循環保護」の機能が、シリュウスの肉体に深く刻み込まれた術師としての本能を、強引に、かつ優しく呼び醒ましていく。
これまで構築してきた知を失った魔導師は、愛という名の増幅器を得て、今、再び戦場へと立ち上がった。
「……ありがとう、エリン。……僕の中に、新しい力が流れてくるのがわかる。……計算はできなくても、身体が戦い方を覚えているんだ」
その時、村の正門が再び激しい衝撃を受け、粉々に爆散した。
「来やがったわね、しつこいクソ野郎ども!!」
アルドナが咆哮し、身の丈を超える大剣「裂界の牙」を担いで飛び出す。彼女の剣の柄には、エリンが丹念に織り上げた「慈愛の鞘」が、右腕の異形化に伴う耐え難い痛みを和らげるように白く輝いている。
「フィオラ、戦況の合図を出しなさい! エリン、あんたは裏から回れるわね!? 好きに暴れてやりなさい!」
「ええ、任せて、アルドナさん。……一瞬で片付けるわ」
エリンの姿が、一瞬にして朝靄と硝煙の中に溶け込んだ。
物音一つ立てず、大気の流れすら乱さない彼女の身のこなしは、まさに一流の斥候そのものであった。彼女は教会の部隊が展開する死角を縫うように影から影へと移動し、背後から音もなく敵の懐へと潜り込む。
教会の審問官が魔導杖を掲げ、大規模破壊術式を放とうとした、その瞬間。
「……終わりよ」
背後の闇から、エリンの二振りの短剣が音もなく閃いた。
「(……!?)」
声を上げる暇すら与えない。エリンの刃は、魔導衣のわずかな継ぎ目を正確に貫き、術者の意識を一瞬で断ち切る。流れるような動作で彼女は、鍛冶職人の知恵で調合した特殊な火薬煙幕弾を地面に叩きつけた。
爆ぜる黒煙が戦場を覆い、教会の陣形が混乱に陥る。
「今よ、フィオラ!!」
エリンの鋭い号令が響くと同時に、フィオラが唇に当てた笛から、猛る嵐の月を鎮め、仲間の感覚を研ぎ澄ませる浄化の旋律が溢れ出した。
フィオラの奏でる音色は、煙幕の中に潜む敵の所在をアルドナの脳内へと鮮明に投影する。
「見える……。見えるわ、エリンの作ってくれた最高の隙が!」
アルドナの剛腕が大剣を旋回させ、視界を奪われた審問官たちをゴミ屑のように薙ぎ払っていく。そして、その中央でシリュウスが腕章を掲げた。
「圧縮……加速……。魂に刻まれた理、解き放て!」
もはや以前のような悠長な詠唱は必要ない。シリュウスは腕章の魔力圧縮機能を使い、最小限の魔力で最大効率の雷撃魔導を放った。黄金色の琥珀を通して放たれた雷光は、エリンが事前に敵の足元に撒いていた、鍛冶師特製の導電性金属粉に吸い込まれるように誘導され、敵の主力部隊を一網打尽にした。
しかし、勝利の予感が漂いかけたその時。
立ち込める煙を「熱」そのもので焼き払い、一人の男が戦場の中央へと降り立った。
深紅の甲冑を纏い、手には炎を吹き上げる宝剣を握った若き騎士。聖教会の誇る若き俊英、レオン・ヴァルムである。
「レオファングの生き残り……。ようやく追いついた。この宝剣『火鼠』の錆となれ」
レオンが掲げた宝剣から、猛烈な熱風が吹き荒れる。それは、先ほどまで戦場を支配していたエリンの煙幕を無慈悲に散らし、周囲の建物を瞬時に炭化させるほどの威力を持っていた。
「厄介なのが来たわね……!」
アルドナが大剣を構え直すが、レオンの踏み込みは彼女の予想を遥かに超えていた。
「遅い!!」
深紅の軌跡。火鼠から放たれた一閃が、アルドナの防御を強引に弾き飛ばす。レオンの剣技は正統にして苛烈。教会の教義を盲信し、一切の迷いがないその一撃は、アルドナの野生の勘すらも凌駕し始めていた。
「させない!」
エリンが横合いから影のように飛び出し、レオンの喉元へ短剣を突き出す。しかし、レオンは一顧だにせず、全身から炎の衝撃波を放った。
「くっ……!」
エリンは間一髪で後退するが、熱波が彼女の頬をかすめる。
「鍛冶師の娘、小細工は神の前では無力だ。……焼き尽くしてくれる!」
レオンの剣が、太陽のごとき輝きを増す。
シリュウスは、腕章を通して流れてくる膨大な戦況情報を必死に整理しようとしていた。知識としての戦術は失われた。けれど、今の彼には、共に戦う仲間たちの「心の震え」が、黄金の回路を通してダイレクトに伝わってくる。
(……姉さんが弾かれた。エリンが距離を取らされた。……フィオラの旋律が、熱に押されている。……なら、僕がやるべきことは、一つだけだ)
シリュウスは、かつてなら「効率が悪い」と切り捨てたであろう、全魔力を一点に集中させる禁忌の行使を選んだ。
「エリン、アルドナ姉さん! 僕を信じて、一瞬だけ道を空けて!」
シリュウスの叫びに、二人は即座に反応した。
アルドナが無理やりレオンの剣を受け止め、エリンが足元に最後の特殊火薬を投げ込む。
「何をするつもりだ、無能な魔導師が!」
レオンが嘲笑し、火鼠を振り下ろそうとしたその瞬間。
シリュウスの腕章が、村中の魔力を吸い上げるかのように、目も眩むような黄金の輝きを放った。
「圧縮……全開放。……名もなき裁きを受けろ!」
黄金の琥珀から放たれたのは、熱をも凍らせるような、純粋な「静止」の魔導。レオンの放つ業火を物理的に凍結させ、その動きを数秒間だけ完全に封殺する、今のシリュウスにしか生み出せない奇跡の一撃であった。
「今よ、アルドナさん!!」
「言われなくても、ぶっ飛ばしてやるわよ!!」
氷りついた炎の隙間を、アルドナの渾身の一撃が突き抜ける。
ミストラル村を揺るがす大爆発と共に、深紅の騎士レオン・ヴァルムが大きく後退した。
しかし、彼はまだ倒れてはいなかった。宝剣「火鼠」が、主の怒りに応えるように、より一層不吉な紅蓮の光を放ち始める。
「面白い……。物語の残党どもが、これほどまでの牙を持っているとはな。……次で全てを灰にしてやろう」
教会の追手、そして深紅の騎士との死闘は、まだ始まったばかりであった。
次回、『第34話 黄金の腕章と双刀の舞』
――若き騎士レオン・ヴァルムがその身を焼きながらも振るう宝剣「火鼠」からは、神の憤怒を具現化したかのような、悍ましくも美しい真紅の劫火が溢れ出していた。
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