第32話 凪の刻にまどろむ約束
地獄のような魔の森の境界線を越えた瞬間、肺の最深部にまで流れ込んできたのは、腐肉と怨念が混じり合った毒々しい霧ではなかった。それは、冷たくもどこまでも清冽な、新しい一日の始まりを告げる夜明けの風であった。
アルドナは、肩に食い込んでいたシリュウスの身体を、割れ物を扱うような手つきでゆっくりと地面に下ろした。彼女の右腕を肩口まで覆い尽くしていた黒い鱗は、森の核である虚無を穿った衝撃とその後の余波により、その禍々しい活動を一時的に休止させている。今はただ、古びた鉄の傷跡のような鈍い光沢を放ちながら、彼女の肌の上で不気味に沈黙を保っていた。
フィオラは糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ち、震える手でシリュウスの胸元に耳を押し当てた。ドク、ドクと、微かではあるが、一定の規律を持って刻まれる生命の鼓動。フィオラはその音を聴き、ようやく自分たちがまだこの世に繋ぎ止められていることを、そして何より大切だった二人の兄姉を失わずに済んだことを確信し、声にもならない嗚咽を漏らして涙を流した。
三人が決死の思いで辿り着いたのは、魔の森の反対側、伝説に名高い「空の遺跡」へと至る巡礼路の難所に位置する隠れ里、ミストラル村の入り口であった。
苔生した古びた石造りの門の向こう側から、闇を切り裂くようにいくつかの松明の明かりが揺れながら近づいてくる。
「……誰か、そこに、いるの……?」
フィオラが掠れた喉を震わせ、問いかける。
松明の橙色の光が、泥と返り血に塗れた三人の満身創痍の姿を冷酷に、しかしどこか慈しむように照らし出した。その揺れる光の輪の中から、一人の女性が、祈るように両手を胸の前で組み、狂おしいほどの情動を瞳に宿して駆け寄ってくるのが見えた。
「シリュウス……! アルドナさん、フィオラちゃん! ああ、神様……っ!」
その、耳に馴染んだ温かい声を聞いた瞬間、シリュウスがゆっくりと、現実と夢の狭間を彷徨うように重い瞼を持ち上げた。
「……え、りん……? 君、なの……?」
彼の視界は白く濁り、かつてその明晰な脳内に図書館のように整然と収められていた膨大な語彙、魔導工学の術式、そして冷徹な論理学の体系は、今や猛火に焼かれた後の羊皮紙のようにスカスカの灰と化していた。以前の彼を彼たらしめていた「天才」としての断片は、森の悪意に抗うための燃料として使い果たされてしまったのだ。
それでも、目の前に跪き、自分の泥だらけで傷ついた手を必死に握りしめて泣きじゃくっている女性が、自分の魂が、たとえ己を失ってでも守り抜きたかった唯一無二の光であることだけは、言葉を介さずとも本能が痛いほどに理解していた。
カシウス。
あの底の知れない、食えない男は、死地での約束を違えることはなかった。彼は教会の目を盗み、独自の経路を用いてエリンたち一行を密かに脱出させ、このミストラル村へと先回りさせていたのだ。アイゼン村が襲撃された際、散り散りになって行方不明と思われていた村人たちの数人も、彼の用意した「糸」に手引され、この平穏な里に保護されていた。
「良かった……。本当に、間に合ってくれたのね……」
エリンはシリュウスの青ざめた頬を、自身の体温を分かつように両手で包み込んだ。
シリュウスは彼女の顔をじっと見つめ、何か気の利いた言葉、あるいは再会の喜びを定義するに足る論理的な一節を紡ごうとして、ふと困惑したような、迷子のような表情を見せた。以前の彼であれば、この劇的な再会を詩的に、あるいは冷徹に分析して伝えただろう。けれど、今の彼にできるのは、ただ不器用な、あまりにも無垢な子供のような微笑みを浮かべることだけだった。
「……エリン、……会いたかった。……ごめんね、……すごく、心配させた、みたいだ」
その語彙の少なさは、飾りのないシリュウスの真心を剥き出しにし、エリンの心の琴線を激しく震わせた。彼女の瞳からは、より一層激しい大粒の涙が零れ落ちた。
ミストラル村での、束の間の休息が始まった。
この村は、かつて空の遺跡を崇める巡礼者たちが心身を清めるために立ち寄ったとされる歴史ある集落であり、険しい岩山と深い緑に囲まれた自然の要塞でもある。まさに、猛る嵐の月が一時的な凪を見せるこの刻にふさわしい、静謐と安らぎに満ちた地であった。
三兄妹は村の長老の配慮により、村の外れにある小さな、けれど手入れの行き届いた家をあてがわれ、そこでの三日間の休息を許された。
一日目、三人は泥のように眠り続けた。
アルドナの身体は、右腕に宿した異形の力の激しい反動により、触れるのがためらわれるほどの高熱を発していた。フィオラは眠気を押し殺し、冷たい水で絞った手拭いを何度も姉の額に当て、つきっきりで看病を続けた。
シリュウスもまた、深い昏睡の中にいた。彼は、隣でエリンが片時も離さず握り続けている手の温もりを唯一の道標として、霧散した記憶の断片を、たった一人の自分という存在に繋ぎ合わせるような、長く静かな精神の旅を続けていた。
二日目、アルドナの熱がようやく下がり、三人は久しぶりに同じ食卓を囲むことができた。
ミストラル村の豊かな大地が育んだ素朴な麦のパンと、薬草を隠し味にした温かい野菜スープ。
「……美味しい、ね。……アルドナ、姉さん。……これ、すごく、温かいよ」
シリュウスがゆっくりと、不器用な手つきでスプーンを動かしながら、以前の彼からは想像もつかないほど素直に笑う。
その様子を、アルドナはどこか痛ましげに、けれどそれ以上に深い愛おしさを込めた眼差しで見守っていた。
「ええ、そうね。……シリュウス、あんた、本当に言葉が丸くなったわね。前はもっと、隙あらば小難しい理屈を並べて人を煙に巻く、可愛げのない弟だったのに」
「……そう、だったかな。……なんだか、……難しい言葉や考えは、全部あの暗い森に置いてきちゃったみたいだ。……でも、……今のほうが、食べたものがちゃんと、お腹の底に響く気がするんだ」
シリュウスの飾り気のない言葉に、看病で疲れていたフィオラも小さく、けれど幸せそうに笑った。学術的な知識の大部分は失われたかもしれない。けれど、彼の中に流れるレオファングとしての不屈の誇りと、家族を想う無私の優しさは、以前よりも透明な純度を増しているように思えた。
三日目。
猛る嵐の月がその狂暴な牙を一時的に収める「凪の刻」は、村全体を柔らかく穏やかな光で包み込んでいた。
シリュウスはエリンと連れ立って、村の広場と豊かな緑が一望できる小さな丘の上に座っていた。
「ねえ、シリュウス。……覚えてる? 私たちがまだアイゼン村にいた頃、……いつか一緒に、遠い国の海を見に行こうって約束したこと」
エリンがシリュウスの肩にそっと頭を預け、祈るような心地で問いかける。
シリュウスは青く晴れ渡った空を見上げ、しばらくの間、何かを必死に手繰り寄せるように沈黙した。そして、エリンの震える手を優しく、力強く握り返した。
「……全部は、思い出せないんだ。……その時の言葉も、景色も、僕の中から消えてしまったかもしれない。……でも、……エリン。君を幸せにするっていうその約束の『熱』だけは、……僕の心の一番深いところに、ちゃんと残ってる。……それだけで、……信じてくれるかな」
エリンはその言葉を聞き、この世の何よりも尊い宝物を手に入れたかのように、幸せそうに目を細めて微笑んだ。
「十分よ。それだけで、私はあなたの隣で、世界の果てまでだって行けるわ」
けれど、そんな奇跡のような幸福な時間は、無慈悲な砂時計の砂が最後の一粒を落とすように、終わりを迎えようとしていた。
村の外周で、フィオラが物語の断片を探すように何気なく空を仰いだ、その時。
語り部として長年死者の声に耳を澄ませ、磨き上げられてきた彼女の鋭敏な感性が、微かな空気の震えを敏感に感知した。
それは、自然が奏でる風の音でも、鳥の羽ばたきでもなかった。それは、誰か強い意志を持った魔導師によって意図的に放たれた、獲物の居所を探り当てるための、冷徹で無機質な魔導の波。
「……お姉ちゃん。……来てるよ、あいつらが」
フィオラが家の中に駆け込み、剣の調整をしていたアルドナに告げる。
アルドナは即座に大剣「裂界の牙」を手に取り、獣のような鋭い眼光を、平和な村を囲む森の向こう側へと向けた。
「……ああ。教会の執念深い野郎どもね。……凪の刻が終わるのを待っていたのか、案外早いお着きじゃないの」
四日目の夜明け前、静寂は暴力的に破られた。
村の境界線に張り巡らされていた防衛用の結界と、連動する索敵の魔導具が、耳を劈〈つんざ〉くような激しい警報を鳴り響かせた。
教会の追手。彼らは、三兄妹が死の森を抜けた僅かな痕跡を執念で特定し、着実に、そして確実にその包囲網を狭めていたのだ。カシウスが幾重にも施したはずの偽装工作も、聖教会の威信を懸けた総力戦的な索敵網を、完全に欺き続けることは不可能だった。
「エリン、村人たちを連れて今すぐ村の奥にある隠し通路へ避難して。……シリュウス、動ける? 身体は言うことを聞く?」
アルドナの短い、けれど重い問いに、シリュウスは震える手で、革表紙の剥げかかった魔導書を再び開いた。
かつてのような、天災をも操る高度な重層術式を組み上げることは、今の彼にはもう叶わない。複雑な魔導幾何学を空中に描くことも、もはや不可能に近い。
けれど、彼にはまだ、愛する者を守るために魂の全てを使い果たし、なおも消えずに燃え続けている、命の残滓が赤々と宿っているのだ。
「……計算は、もうできない。……でも、……僕の身体と心は、戦い方を覚えているんだ」
シリュウスの瞳に、かつての冷徹な鋭さとは全く質の異なる、静かな、けれど決して屈することのない青い意志の炎が灯った。
フィオラは、兄たちの背中を見守るように、再び愛用の笛を構える。
「今度は、私が物語の先回りをする。……教会の追手なんかに、私たちの物語の結末を勝手に書かせたりしない!」
凪の刻は終わり、運命の嵐が再び轟音を立てて動き出す。
空の遺跡へと続く険しき道は、今、鮮血と不屈の決意で、朝焼けよりも赤く染まろうとしていた。
三兄妹、そしてエリン。運命という名の巨大な潮流に翻弄されながらも、自らの足で希望へと歩むことを選んだ彼らの、次なる死闘の幕が今、切って落とされた。
次回、『第33話 ミストラル村防衛戦』
――夜明け前の蒼い静寂が、無機質な鉄の響きと、大気を引き裂く魔導の咆哮によって無惨に切り裂かれた。
ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!




