第31話 三つの魂が紡ぐ一つの黄昏
霧が晴れたのではない。
三人が集まったその場所だけが、あまりに強烈な個の意志と家族という名の絆によって、森の支配を力ずくで跳ね除けていた。
アルドナは、背負ったシリュウスの重みを肩に感じながら、目の前に立つフィオラの姿をその瞳に焼き付けた。フィオラの頬は涙と泥で汚れ、その手足は小刻みに震えている。けれど、その指先が握りしめている語り部の笛からは、先ほどまでの絶望を焼き払うような、黄金色の魔力が力強く脈動していた。
「フィオラ、よく……よく、無事でいてくれたわ」
アルドナの声は掠れ、喉の奥からは鉄の味がした。
右腕を覆う黒い鱗は今や肩口を越え、彼女の頸筋にまで侵食を始めている。その鱗の一つ一つが心臓の鼓動に呼応して嫌悪感を催すほどに拍動し、彼女の意識を人ならざる獣の領域へと引きずり込もうと絶え間なく誘惑していた。全身を走る神経の痛みは、火に焼かれるよりも鋭い。それでも、彼女が正気を保っていられるのは、背中に感じるシリュウスの微かな、けれど確かな心音と、目の前の末妹が放つ温かな光があるからだった。
「お姉ちゃん、その腕……。それに、お兄ちゃん……どうして、そんな、虚ろな顔をしてるの」
フィオラが駆け寄り、シリュウスの青ざめた顔を見て息を呑む。
シリュウスの瞳は薄く開いているが、そこにはかつての理知的な鋭さはなく、ただ虚空を彷徨う赤子のような無垢さが漂っていた。彼は、フィオラをこの悪意ある幻影から救い出すための演算に、自らがこれまで積み上げてきた記憶と膨大な知識の全てを注ぎ込み、精神を空っぽの抜け殻にしてしまったのだ。
けれど、フィオラの震える手がシリュウスの冷たい頬に触れた瞬間、彼は微かに唇を震わせた。
「……ああ、……フィオラ。……計算、通り……だ。……君は、笑って……いなきゃ……いけないんだよ」
断片的な、消え入りそうな言葉。けれど、そこには失われたはずの愛が、論理という枠組みを超えた強烈な残留思念となって宿っている。
フィオラは唇を血が滲むほど強く噛み締め、溢れ出す涙を強引に手の甲で拭った。
「……うん。分かってるよ、お兄ちゃん。……お姉ちゃん、……来るよ。森が、私たちの物語を、無理やり絶望で終わらせようとしてる」
フィオラが指し示した先。霧の深淵から、巨大な穴のような、あるいは世界の裂け目そのもののような異形が姿を現した。
それは樹木の化け物でも、伝説に語られる魔獣でもない。
この禁忌の森そのものが持つ、生命を、そして紡がれる物語を喰らおうとする捕食の意志が結晶化した概念の塊、虚無の奏者であった。
それは数多の物語を食らい、形を失った死者たちの怨念を幾層にも重ね合わせた、巨大な歪みの渦。そいつが再び、三人の絆を断ち切るべく、空間そのものを震わせ、精神を内側から破壊する不快な不協和音を奏で始める。
「シリュウスの知識を奪い、フィオラの声を奪おうとし、私の身体を汚した。……この森は、私たちの家族という物語が、そんなに気に食わないみたいね」
アルドナが、腰の大剣「裂界の牙」を再び力強く握り直す。
彼女の右腕の鱗が、沸騰する殺意に呼応して激しく拍動し、周囲の霧を焼き払うほどの黒い雷光を放った。
「フィオラ、あんたは道を奏でなさい。シリュウスが残した、あの不合理な愛の光を導くの。……私は、そいつを切り刻む牙になる。……シリュウス、あんたはそこで、私たちの勝利を数えてなさい!」
アルドナが爆発的な踏み込みで地面を蹴った。
その瞬間の初速は、もはや肉眼では追えない。彼女が通った後の大地は、踏み込みの圧力に耐えきれず大きく爆ぜた。
黒い鱗の腕から放たれる一撃は、もはや剣技という次元を遥かに超えている。それは、レオファングの血に刻まれた忌まわしき破壊衝動を、愛する者を守り抜くという鋼の意志で強引に制御し、指向性を持たせた純粋な暴力の奔流であった。
虚無の奏者が、無数の「かつて敗れた者たちの腕」を模した霧の触手を放つ。それら一本一本が、触れた者の記憶を凍らせ、存在を希釈する呪いを帯びていた。
しかし、アルドナはそれらを避けることすらしない。
「邪魔よ!!」
アルドナの右腕が不気味に膨張し、大剣が黒い閃光を纏う。横一閃に振り抜かれた刃は、迫り来る呪いの触手群を一瞬で霧散させた。剣速が音速を超え、生じた衝撃波が周囲の樹木を薙ぎ倒していく。
虚無の奏者が絶叫のような不協和音を放ち、アルドナの脳内に「お前も、いずれは異形となって家族を食らうのだ」という絶望的な予言を叩き込む。
だが、彼女の心は一塵も揺らがなかった。
「そんな古い、終わった物語で、今の私を止められると思わないことね!」
アルドナは空中で体を捻り、重力を無視したような軌道で虚無の核へと肉薄する。
右腕の鱗が裂け、そこから溢れ出した高密度の魔力が大剣を巨大な光の刃へと変貌させた。
縦に振り下ろされた絶技が、虚無の奏者が展開した何層もの防護結界を、薄い紙を裂くように容易く突破していく。
背後で、フィオラが覚悟を決めて語り部の笛を構える。
彼女が奏でるのは、もはや死者の魂を宥めるための静かな調べではない。
アルドナの振るう剣に命を吹き込み、シリュウスの失われた知性に代わる指針となり、そして自分自身の震える心に勇気と意味を与える、黄昏の行進曲。
フィオラの奏でる黄金の旋律が、荒れ狂うアルドナの剣筋を正確に導き、霧が撒き散らす悪意のノイズを一つずつ無効化していく。
知性を失い、ただそこに座しているだけのシリュウスの身体からも、まるで奇跡のように、無意識のうちに魔力が溢れ出していた。それは淡い青い光となって、アルドナの背中を、そしてフィオラの歌を包み込み、決して破られない守護の楯となって二人を支え始めた。
三つの魂が、今、完全に一つに重なる。
知識を失った兄。身体を異形に捧げた姉。物語を背負い、高らかに歌う妹。
それぞれが何かを欠き、ボロボロになり、満身創痍でありながらも、その欠損こそが、完璧な論理や強靭な肉体だけでは決して到達できない、宇宙で最も強固な最強の絆となっていた。
「これが、私たちの……レオファングという呪いじゃない、アイゼン村で育んだ……家族の物語だあああ!!」
アルドナの喉が裂けるほどの絶叫と共に、大剣が虚無の核を真っ向から、寸分違わず穿つ。
同時に、フィオラの笛の音が最高潮に達し、その傷口から圧倒的な黄金の光を流し込んだ。シリュウスの魔力がその光を増幅させ、森の奥深くに数千年にわたって澱のように溜まっていた「絶望」と「忘却」を、一気に浄化していく。
世界が白く反転し、猛る嵐の月の狂おしい咆哮が、嘘のように穏やかな夜風へと変わっていく。
空間を埋め尽くしていた粘着質な霧は霧散し、空には、雲の合間から淡い月光が差し込み始めた。
すべてが終わった時。
三人は、夜明け前の静かな森の境界に、折り重なるようにして横たわっていた。
アルドナの右腕の鱗は、その役割を終えたかのように静かに拍動を沈め、フィオラの笛は、主の胸元で役目を終えて静かに揺れている。
シリュウスは、ゆっくりと、重い瞼を押し上げた。
「……ああ。……空が、……なんて綺麗なんだ……」
その瞳には、まだ深い、記憶の霧がかかっている。かつて彼が誇っていた、星の数ほどもある膨大な知識が、すべて戻ったわけではない。複雑な数式も、歴史の知識も、多くが指の間から零れ落ちた砂のように失われたままだ。
それでも、彼が真っ先にその瞳に映したのは、隣でボロボロになりながらも、泣き笑いの表情を浮かべている、二人の妹と姉の顔だった。
「……お帰り、……シリュウス」
アルドナが、血と泥に塗れた傷だらけの手で、弟の細い手を、二度と離さないというように強く握る。
「……ただいま、……お兄ちゃん。……本当によく頑張ったね」
フィオラが、二人の手の上に自分の小さな手の温もりを重ねた。
失ったものはあまりに多い。けれど、それ以上に、彼らは決して奪われることのない「自分たちの物語」を守り抜いたのだ。
猛る嵐の月は去り、彼らの物語は、また新しく、真っ白な一頁をめくる。
それは黄昏の語り部フィオラが、いつか必ず、最高に幸福な結末として書き記すことになる物語の、大切で、そして心からの喜びに満ちた、輝ける一場面であった。
次回、『第32話 凪の刻にまどろむ約束』
――アルドナは、肩に食い込んでいたシリュウスの身体を、割れ物を扱うような手つきでゆっくりと地面に下ろした。
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