第30話 記憶を抉る亡霊の囁き
フィオラが喉を裂き、魂を削って解き放った叛逆の音色は、一時的にではあるが、この森を支配し続けていた「沈黙の奏者」の冷酷な旋律を押し返した。しかし、彼女を包囲する霧の海は晴れるどころか、より一層深く、重く、肺の奥までこびり付くような粘り気のある闇へと変質していく。
『……いいだろう。お前がそこまで不確かな「生」の事実に執着し、抗うと言うのなら、見せてやろう。お前が心の最も深い奥底に封印し、あえて語ることを拒み、直視することから逃げ続けてきた、最大の「未完の物語」を』
霧の奥から響く声は、もはや無機質な音の重なりなどではなかった。それはフィオラ自身の罪悪感を直接指先で撫で回すような、生理的な嫌悪感を催させる冷ややかな湿り気を帯びていた。
不意に、周囲の空間が急速に熱を失い、凍りついていくような感覚に襲われた。
フィオラの足元、それまで泥に塗れていた地面から、真っ赤な彼岸花が、まるで大地が血を流し、滲み出すように次々と咲き乱れる。その不吉な紅の円環の中心に、一人の人物が、静かに立っていた。
「……嘘……。どうして、あなたが、ここに……? お母、さん……っ」
フィオラの声が激しく震え、語り部の笛を握る指先から、一気に血の気が引いていくのが分かった。
そこに立っていたのは、数年前のあの日。アライアからの絶望的な脱出行の最中に、追っ手の刃をその身に受け、三兄妹を逃がすために盾となって倒れた、母エルーカの姿であった。
彼女の体は、あの日フィオラが泣きながら見捨てた時と同じように、無数の深い傷に覆われ、衣服は赤黒く染まっている。けれど、その瞳に宿っているのは、かつての慈しみや愛情ではない。そこには、底知れない恨みと、そして救いようのない絶望の色だけが、泥のように沈殿していた。
『フィオラ……。どうして、私を一人、あんな暗い場所に置いていったの?』
エルーカの幻影が、一歩、また一歩と、傷口から絶え間なく血を流しながら歩み寄ってくる。彼女が踏みしめた場所の彼岸花が、さらに色濃く、毒々しく拍動する。
『お前は「語り部」だと自称して、他人の人生を言葉に変えて悦に浸っているけれど、私の最期を、誰かに正しく語ったことはあるのかい? お前の父さんに、私の最期の苦しみや、あの日のお前の冷たさを伝えたのかい?』
「それは……。違う、違うの。私は、だって、私は……!」
フィオラの思考が、急速に凍結し、正常な判断力を失っていく。
そう。彼女は、母の死についてだけは、どんなに月日が流れても、一度として「物語」として紡いだことがなかった。あまりにも重く、あまりにも痛ましく、語り部としての技術をすべて動員しても、その喪失の激しさを、言葉という名の檻に閉じ込めることができなかったからだ。
それはフィオラにとって、人生の中で唯一、語ることから逃げ出し続けてきた「空白の頁」であり、癒えることのない剥き出しの傷口であった。
『お前は、物語という名の薄っぺらな綺麗事で、死者たちが味わった本物の苦痛を覆い隠しているだけだ。シリュウスの誇り高き知性を焼き尽くし、アルドナの身体を醜い異形に変えてまで、お前が繋ごうとしている「黄昏」に、一体何の意味があるというんだ? 私を見捨てて手に入れたその汚れた命で、お前は何を語ろうというんだ。お前は、私たちの犠牲の上に胡坐をかいているだけではないか』
「違う! お母さんは、私たちを助けるために、自分から……!」
『私は助けたかったのではない。呪われたレオファングの連鎖を、お前たちと共に死ぬことで終わらせたかったのだよ。……さあ、フィオラ。私の名前を、お前の呪われた物語の中に、その血塗られた手で書き記してごらん。私がどんなに無惨に、どんなに絶望して死んでいったか、お前のその笛で、残酷に奏でてみせるがいい』
エルーカの幻影の手が、ゆっくりと、蛇のような動きでフィオラの細い喉元へと伸びる。
その氷のように冷たい指先が触れた場所から、フィオラの記憶の中に大切に仕舞われていた、母との温かな思い出の断片が、次々と凄惨な「苦痛」へと変換されていく。
幼い頃、母が耳元で歌ってくれた優しい子守唄。冬の日に母が一生懸命編んでくれた、少し不恰好なマフラーの温もり。それらすべてが、自分たちを見捨てて死んでいった、孤独な女の呪詛の歌へと強引に書き換えられていく。
フィオラは膝をつき、子供のように嗚咽を漏らした。
シリュウスが積み上げた論理を奪われたように、アルドナが戦士としての身体を異形に蝕まれたように、フィオラもまた、「心の支え」であった家族の記憶を、最悪の形で汚され、奪われようとしていた。
(ああ……。やっぱり、私は、ダメな子だ。……死者たちの声を届けるなんて言いながら、一番大切だったお母さんのことさえ、救えない。……お母さんの物語を、……誇りある、美しいものに書き換えることさえ、できない……)
意識が急速に遠のき、世界が白く塗り潰されていく中、フィオラは暗闇の向こう側、かすかに揺れる光の断片を見つめた。
そこには、今まさに、自分という希望を救い出すために、この世の果てのような深淵へと飛び込もうとしている、アルドナとシリュウスの姿が、蜃気楼のように揺らめいている。
アルドナの背中で意識を失い、眼鏡は割れ、知性の欠片も感じさせないほど髪を乱して、ただの無力な子供のように眠るシリュウス。
右腕を悍ましい異形に変え、人間であることを辞める一歩手前で、獣のような咆哮を上げながら、一歩一歩、泥濘を蹴り進むアルドナ。
彼らの今の姿は、決して美しくも、英雄らしくもなかった。
むしろ、レオファングという一族の呪いに翻弄され、運命にズタズタに引き裂かれた、惨めな敗北者の姿に見えたかもしれない。
けれど。
(……あんなに、……あんなにボロボロで、傷だらけなのに。……二人とも、まだ、諦めていない。私のために、……あんなに必死に……)
フィオラの瞳の奥に、小さく、けれど鋭く、何物にも消せない火が灯った。
シリュウスは、生涯をかけて積み上げた知性を失ってでも、フィオラを信じるという、計算を超えた「不合理」を選び取った。
アルドナは、愛する人との平穏な日々や、人としての尊厳を捨ててでも、妹を抱きしめるという「野性」を選び取った。
なら、自分はどうだ。
「語り部」である自分が、もっとも愛し、尊敬した人の死を恐れて、その物語を「なかったこと」にして、自分の殻の中に逃げ続けていて、いいはずがない。
「……お母さん。……ううん、お母さんの形をした、森の幽霊さん」
フィオラは、震える脚に力を込め、ゆっくりと、大地を噛みしめるように立ち上がった。
彼女は、自分を絞め殺そうとしていたエルーカの、氷のように冷たい手を、自らの小さな、けれど体温の宿った両手で、優しく包み込んだ。
「お母さんの死は、……決して悲劇なんかじゃない。……お母さんがあの日、私たちを逃がしてくれたのは、呪いを終わらせるためなんかじゃなくて……私たちが、その先の『続き』を自分たちの足で書くためだったんだよ。……そうでしょう?」
フィオラは語り部の笛を、今度は唇ではなく、自分の胸の鼓動、生きている証である拍動がもっとも強く響く場所に、ぎゅっと押し当てた。
彼女は、森に奪われた言葉や、汚された記憶を、無理に取り戻そうとはしなかった。
代わりに、今、この瞬間、自分の胸の中で激しく打ち鳴らされている「恐怖」と、それを上回る「愛」と、揺るぎない「決意」の振動を、そのまま音に変えることに決めたのだ。
「私が語るのは、お母さんの無惨な最期じゃない。……お母さんが命を懸けて守り、繋いでくれた、私たちの不器用な『今』だ!」
フィオラが、全身の毛穴から魔力を噴き出させるようにして、渾身の力を込めて笛を奏でた。
それは、先ほど奏でた絶望への叛逆を遥かに超える、眩いほどの、まるで夕陽の最後の一閃のような「黄金色の旋律」であった。
物語は、過ぎ去った過去を悼み、閉じ込めるためだけにあるのではない。
物語とは、残酷な現実を塗りつぶし、そこに新しく、誰にも侵されない「意味」を与えるためにあるのだ。
フィオラの笛から溢れ出した圧倒的な光は、辺り一面に咲き乱れていた呪いの彼岸花を白く浄化し、エルーカの幻影を、あの日、最後に三兄妹を見送った時の、あの穏やかで、慈愛に満ちた、誇らしげな微笑みへと書き換えていった。
『……ああ、フィオラ。……本当に、大きくなったわね』
幻影のエルーカが、最後に実母の声でそう優しく囁いて、眩い光の中に溶けていく。
その瞬間、フィオラの周囲を重苦しく覆っていた「沈黙の奏者」の呪縛が、ガラスが砕け散るような音を立てて崩壊した。
霧が晴れた、その先。
そこには、泥と返り血に塗れながらも、意識のない弟を背負ってこちらへ懸命に駆け寄ってくる、アルドナの姿があった。
「フィオラ!! 無事なのね、フィオラ!!」
「お姉ちゃん……!! お兄ちゃん……っ!!」
離れ離れになっていた三兄妹が、ついに、この呪われた深淵で出会う。
けれど、物語の捕食者である森の意志は、最後の最後で、彼らに最大の、そして残酷な試練を突きつけようとしていた。
彼らを決して生きては逃がさない。この森の一部として、三人の絆を、永遠に閉ざされた物語の中に封印するために。
次回、『第31話 三つの魂が紡ぐ一つの黄昏』
――三人が集まったその場所だけが、あまりに強烈な個の意志と家族という名の絆によって、森の支配を力ずくで跳ね除けていた。
ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!




