第3話 芽吹きの陽光月・早天の薄紅
地底回廊の入り口は、巨大な怪物がその顎を開いているかのように、三兄妹を暗澹たる闇で迎え入れた。
外を支配していた乳白色の霧は、洞窟の内部へと流れ込むに従って、不気味な紫がかった靄へと変質していく。それは地脈から漏れ出した腐敗したマナの残り香であり、生者の肺を焼く死の吐息だった。
「……空気が重いな。マナの濃度が異常だ」
シリュウスが眉をひそめ、魔導書の表紙に刻まれた銀の回路をなぞった。彼の指先が触れた瞬間、青白い幾何学模様が空間に浮き上がり、三人の周囲に薄い光の膜を展開する。シリュウスの「隔離結界」だ。
この結界は物理的な攻撃を防ぐだけでなく、外部の濁った魔力を遮断し、内側の空気を清浄に保つ役割を果たしている。これがあるからこそ、魔力の感受性が人一倍強いフィオラも、この毒性の強い地下深くで呼吸を繋ぐことができるのだ。
「シリュウスお兄ちゃん、ありがとう。……少し、胸のつかえが取れた気がする」
フィオラは杖を両手で握りしめ、兄の横顔を見上げた。シリュウスの視線は、結界の演算を維持しながらも、常に妹の体調を気遣っている。その献身的な眼差しは、彼がアイゼン村に残してきた恋人、エリンへ向けるものとどこか似ていた。
自分を守るために、彼は愛する人との時間を捨て、こうして闇の中に身を置いている。フィオラはその献身を痛いほどに感じ、胸の奥が小さく疼いた。
「感謝するのはまだ早いわ。……見なさい、先客よ」
アルドナの低い声が、洞窟の壁に反響した。
彼女が指し示した先、湿った岩肌の影から、幾つもの赤い光が浮かび上がる。それは「影這いの黒豹」と呼ばれる変異獣だった。マナの腐敗に当てられ、知性を失い、ただ動く者の肉を喰らうためだけに存在する獣。
黒豹たちは、シリュウスの張った結界の輝きを疎むように唸り声を上げ、音もなく岩壁を蹴った。
「シリュウス、フィオラを頼むわ。……不浄な血は、一滴も通さない」
アルドナが背中の「裂界の牙」を抜いた。
凄まじい風切り音と共に、大剣の刀身が露わになる。彼女が柄を握り締めると、右腕の包帯の下で銀の鱗が激しく明滅し、剣に宿る竜の血と共鳴した。
最初の一匹が、死角である天井からアルドナの首筋を狙って跳ねる。
だが、アルドナは視認することさえ困難な速度で、巨大な鉄塊を振り上げた。
「――堕ちなさい」
肉を断つ音ではない。空間そのものが「削り取られる」ような、不快な破裂音が響いた。
黒豹の身体は、アルドナの剣が触れた瞬間にその存在を消失させ、断面から黒い塵となって霧散していく。アルドナの剣は「斬る」のではなく、対象が持つマナの結合を強制的に「剥離」させるのだ。
次々と襲いかかる獣たちを、アルドナは舞うような剣筋で屠っていく。その戦いぶりは、もはや人間というよりは、暴力の化身に近い。
しかし、フィオラの琥珀色の瞳には、別のものが映っていた。
斬り捨てられた獣たちの死骸から、行き場を失った微かな意識の断片が、悲鳴を上げながら消えていく。
「……痛いって。みんな、お腹が空いて、ただ帰りたかっただけなのに……」
フィオラが杖を抱きしめ、小さく震える。
彼女にとって、戦闘はただの勝利ではない。命が壊れる瞬間に溢れ出す、剥き出しの「痛み」を、自分の一部として受け止める過酷な儀式でもあった。
「フィオラ、聞かなくていい。意識をカイルさんに集中させるんだ。彼の魂が導く場所へ、僕たちを案内してくれ」
シリュウスがフィオラの肩を抱き、結界の出力を上げる。彼の温かな魔力がフィオラの耳元を包み込み、外界の不浄な声を一時的に遠ざけた。
「……うん。大丈夫、できるよ。……カイルさん。お願い、もう一度教えて。どこに、お父さんへの贈り物を隠したの?」
フィオラが目を閉じると、暗闇の中に一本の「光の糸」が見えた。
それは、死者が現世に残した最後の執着が織りなす、魂の導線。その糸は、さらに地下深く、崩落の激しい第三通路の奥へと伸びている。
三人は、アルドナが切り開いた死体の道を通り、地底の深淵へと潜っていく。
進むほどに気温は下がり、代わりにマナの圧力は増していく。結界を維持するシリュウスの額に、じわりと汗が滲んだ。
「……ここだわ」
アルドナが足を止めた。
そこは、天井が大きく崩れ、巨大な岩が折り重なるようにして通路を塞いでいる場所だった。冷たい地下水が岩の隙間から滴り、絶望的な沈黙が場を支配している。
その岩陰に、一際濃い「滞留」があった。
煤で汚れ、あちこちの骨が折れたままの姿で、自分の亡骸の傍らに立ち尽くす青年――カイルだ。
「……カイルさん?」
フィオラがそっと、光の膜から手を出し、虚空へと伸ばした。
本来、生者と死者の手は重なることはない。だが、フィオラの琥珀色の瞳が彼を捉え、彼女がその名を呼んだ瞬間、境界線がわずかに揺らいだ。
『……見えて、いるのか……?』
カイルの声が、冷たい風のようにフィオラの脳裏に直接響いた。
それは、父トーマスへの謝罪、採掘中の恐怖、そして、自分がもう二度と朝日の光を拝めないという事実への、静かな絶望だった。
「はい。見えています。……トーマスさんに会いました。お父さん、あなたの帰りをずっと待っています。謝らなきゃいけないのは、自分の方だって……泣いていました」
カイルの魂が、びくりと震えた。
『父さんが……? そうか……。俺は、ただ……。あの日、喧嘩をしたまま家を出たのが、悔しくて。……これを渡せば、仲直りできると思って……』
カイルの霊体が、岩の隙間を指し示した。
そこには、彼が命を賭けて守り抜いた、手のひらサイズの小さな石が転がっていた。それは地底の毒に侵されていない、純粋なマナを宿した「早天の薄紅」色に輝く原石だった。
「シリュウスお兄ちゃん、あの岩の裏……」
シリュウスは頷き、細緻な結界操作で、崩落の危険がある岩を一時的に固定しながら、杖を使ってその石を慎重に引き寄せた。
手に入れた原石は、暗い洞窟の中で、まるで夜明け前の空のように、淡く、けれど力強い希望の色を放っている。
「……美しいな。これが、彼の遺した交流の証か」
シリュウスの言葉に、カイルの魂は、安堵したように薄く透け始めた。
『頼む。それを……父さんに。……俺は、父さんの息子で……幸せだったと……』
「……伝えます。必ず」
フィオラが強く頷いた瞬間、カイルの影は粒子となって霧散し、地底の闇へと還っていった。
彼をこの世に繋ぎ止めていた重い未練が、フィオラという「語り部」を通じることで、清らかな光へと昇華されたのだ。
「終わったわね。……シリュウス、この場所は長くは持たない。崩落が再開する前に脱出するわよ」
アルドナが大剣を鞘に納める。彼女の右腕の脈動も、戦いの終わりと共に静まりを見せていた。
三人は、手に入れた「薄紅色の原石」を大切に抱え、再び地上を目指して歩き出した。
背後では、カイルの魂が解放されたことで、滞っていたマナの澱みがゆっくりと霧散していく。
地上へと続く長い階段を登る間、シリュウスはふと、自分の懐の銀板に触れた。
カイルが父に届けたかった想い。自分がエリンに届けたい想い。
形は違えど、それは同じ「愛」という名の執着なのだと、彼は改めて噛み締めていた。
「……フィオラ、よくやったね。君が彼の声を聞かなければ、あの石は永遠に闇の中で失われていた」
「ううん。……私は、ただ、彼が言いたかったことを代わりに言っただけだよ。……お兄ちゃんこそ、ずっと結界で守ってくれて、ありがとう」
フィオラは、兄の手の温かさを感じながら、地上から差し込む微かな光を見つめた。
出口には、今も息子を待ち続ける老父、トーマスがいる。
彼にこの石を渡した時、どんな対話が生まれるのか。それはきっと、悲しいだけの別れではないはずだと、フィオラは信じていた。
乳白色の朝霧は、いつの間にか晴れ渡り、アイゼン連峰の稜線から、眩いばかりの陽光が差し込み始めていた。
三兄妹の物語は、まだ始まったばかり。
最初の一歩を刻んだ彼らの影は、長く、力強く、濡れた地面に伸びていた。
だが、その陽光の裏側で、三人を追う「熱を持たない視線」が、まだ近くに潜んでいることを、彼らは知る由もなかった。
次回、『第4話 芽吹きの陽光月・朝凪の翡翠』
――地底回廊の深く重い闇を抜け、湿り気を帯びた石段を一段ずつ踏みしめて地上へと戻った瞬間、フィオラの視界は弾けるような白光に包まれた。
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