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黄昏の語り部フィオラ ―聖教会が恐れた禁忌の記録、語り部が紡ぐ真実の逆転劇―  作者: 弌黑流人
第三章 猛る嵐の月

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第29話 記憶を啜る笛の音

 音が、消えた。

 いいえ、正確には世界から「意味」という概念が剥がれ落ちてしまったのだ。

 フィオラは、視界を完全に遮る真っ白な霧が立ち込める森の深淵で、ただ一人、座標を失った漂流者のように立ち尽くしていた。彼女の耳には、先ほどから執拗に、そして不気味なほど甘やかに、あの「笛の音」が響き渡っている。

 かつて彼女がその耳で拾い上げ、胸に刻んできた死者たちの声には、どれほど深い悲しみや未練の中にも、その人がこの地上を確かに踏みしめ、生きてきた証である「物語」の温もりが宿っていた。けれど、この森の奥底から溢れ出し、神経を逆なでする旋律には、生命の残り香すら存在しない。それは、すべての物語を無価値なゴミとして処理し、ただ静寂だけを唯一の正解とする、空虚な捕食者の歌であった。


 「……アルドナお姉ちゃん? シリュウスお兄ちゃん……? どこにいるの……? 誰か、返事をして……っ」


 フィオラは乾いた喉を震わせ、張り裂けんばかりの想いを込めて、たった二人の家族の名前を呼んだ。

 けれど、震える唇から零れ落ちたはずの言葉は、外界へ放たれた瞬間に霧へと溶け、彼女自身の耳に届くことさえなかった。まるで世界そのものが、彼女の「声」という存在証明を、不快なノイズとして拒絶しているかのようだった。

 フィオラは震える手で、胸元に下げた小さな語り部の笛を、縋るように握りしめる。

 人々の想いを拾い、それを物語として後の世へ繋いできた彼女にとって、声と音を奪われることは、自らの魂が、あるいは積み上げてきた生そのものが生きたまま削り取られていくのと同じ、耐えがたい苦痛であった。


 『無駄だよ、小さな、哀れな語り部さん』


 霧の向こう側から、何重にも重なり、響き合う死者たちの囁きが聞こえてくる。

 それは、この「猛る嵐の月」の悪意に飲み込まれ、己を己たらしめる物語を失って消えていった、無数の「残骸」たちの成れの果てだ。


 『ここには誰もいない。お前の発する不確かな言葉を拾い上げる者も、お前が紡ぎ出す物語を心に書き留める者も、もうこの森には一人として存在しない。……お前がこれまで命懸けで守り、紡いできたあの美しい黄昏の物語も、ここではただの、意味を持たないガラクタのノイズに過ぎないんだよ』

 「……違う。私の物語は、ちゃんと、届いているはず……。私を信じて託してくれた、みんなの想いを、私はこの胸に預かっているんだから……!」


 フィオラは涙を堪え、必死に反論しようと言葉を紡ごうとした。だが、声を出そうとするたびに、喉の奥が鉄を焼くような熱を帯び、鋭い刃で裂かれるような激痛が走る。

 視線を落とせば、彼女の足元から、黒い蔦のような意思を持つ霧が這い上がり、彼女の影をじわじわと侵食していた。

 この森の主は、フィオラの「語る力」を、彼女の存在の源泉を啜り、彼女をただの「声を失った空っぽな器」に作り変えようとしていたのだ。

 不意に、世界の平衡感覚が大きく揺らいだ。

 フィオラの目の前に、かつてアイゼン村で共に笑い、共に泣いた愛すべき人々の姿が、陽炎のようにゆらゆらと立ち上がる。

 いつも優しく微笑み、彼女に物語をねだった村の人々。けれど、目の前の彼らには目も、鼻も、言葉を発する口さえもなく、ただ真っ白な、のっぺりとした仮面を貼り付けたような、悍ましく不気味な姿をしていた。


 『ねえ、フィオラ。君が自慢げに語ってくれた私たちの物語は、今どこへ行ったの? 誰も覚えていない、誰の心にも残らない物語に、一体どんな価値があるというの? 結局、お前がやっていることは、死者の声を都合よく弄んでいるだけではないのかい?』

 「……あ……ああ……。そんな、そんなことない……っ!」


 フィオラは恐怖に顔を歪め、後ずさりをした。

 彼女の脳裏から、大切に、それこそ自分の命よりも重く保管してきた「物語の断片」が、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。

 あの時、誰がどんな瞳で笑ったのか。誰が、どんな祈りを抱いてこの世を旅立ったのか。

 語り部としての記憶が、この「記憶を啜る笛の音」に共鳴し、彼女の制御を完全に離れて、霧の深淵へと絶え間なく吸い出されていく。

 シリュウスが自らの武器である知識を失ったように、フィオラもまた、自分がこれまで救ってきたはずの「人々の生きた証」を、強制的に忘却という闇へ葬り去られようとしていた。


 「思い出して……お願い、私の心から出て行かないで! あの人の寂しげな歌も、あの人の流した高潔な涙も、私が持っていなきゃいけないのに……私が語らなきゃ、みんな本当に消えてしまうのに……!」


 フィオラは溢れ出す涙を拭うこともせず、自らの頭を割れるほどの力で押さえた。

 けれど、残酷な記憶の流出は止まらない。

 故郷の面影を宿すアイゼン村の穏やかな風景が霧に溶け、エリンとシリュウスが互いの存在を慈しむように微笑み合っていた、あの宝石のような昼下がりの光景が、セピア色に褪せて砕け散っていく。

 彼女が語り部としてもっとも恐れていたこと――「誰も語らなくなり、誰からも忘れ去られることで、その人が二度目の、本当の死を迎えてしまうこと」が、今、彼女自身の内側で、もっとも無慈悲な形で起きようとしていた。


 『さあ、もう楽になろう。肩に食い込む重たい物語の袋など、すべてここに捨ててしまえばいい。語ることをやめ、覚えることをやめれば、この引き裂かれるような苦しみからも解放される。お前はただ、この静かで安らかな霧の中で、永遠に眠り続ける物語の塵になればいいんだ』


 甘く、抵抗しがたい誘惑が、笛の音に乗ってフィオラの精神をじわじわと麻痺させていく。

 彼女の指先から、しなやかだった力が抜け、命よりも大切にしていた語り部の笛が地面に落ちそうになった、その時。

 フィオラの耳に、今まで彼女が拾い集めてきたどんな死者の声よりも、ずっと生々しく、泥臭く、そして焼けるように温かい「音」が届いた。

 それは、シリュウスが、自らの命を削り、理知を焼き尽くして放った、あの「不合理な愛」の凄まじい残響であった。

 論理を捨て、積み上げた記憶を燃料として燃やし、それでもなお「妹を助けろ、フィオラを守れ」と魂の底から叫んだ、不器用で誇り高い兄の、執念の咆哮。

 そして、その叫びに応え、絶望の霧を黒い鱗の腕で切り裂き、深淵へと迷いなく突き進む、姉アルドナの激しい鼓動の音。


 (……お兄ちゃん? お姉ちゃん……、生きてる。そこに、いるんだね……?)


 霧に侵食され、真っ白な虚無に塗り潰されかけていたフィオラの心に、鮮烈な「青」と「赤」の色彩が、稲妻のように飛び込んできた。

 それは語り継がれるべき過去の物語ではない。まだ一文字も書き終えられていない、今この瞬間も激しく燃え続け、未来を切り拓こうとしている「現在進行形の命」の輝きであった。

 語り部であるフィオラが、過去の死者たちの声ばかりに囚われ、その重圧に沈みそうになっていた時、彼女を現世という確かな大地へと繋ぎ止めたのは、まだ語り終えられていない、不完全で、けれど誰よりも自分を愛してくれる家族の「生の声」だったのだ。


 「……まだ、終わらせない。……私が語る物語も、お姉ちゃんの命懸けの戦いも、お兄ちゃんの命を賭した計算も……まだ、何一つ終わらせたりしない!」


 フィオラは、泥の中に崩れ落ち、膝をつきながらも、指先から滑り落ちかけた笛を、今度は自らの爪が食い込むほどの強さで握りしめた。

 喉は裂け、声は掠れ、これまでに預かった大切な記憶の半分は、霧に奪われてしまったかもしれない。

 けれど、彼女の胸の奥底には、シリュウスが命と引き換えに残してくれた「計算を超えたバグ」が、決して消えることのない不滅の火種となって、赤々と宿っていた。

 フィオラは、震える唇を、血の滲む語り部の笛に寄せた。

 彼女が今から奏でようとしているのは、誰かの魂を宥めるための鎮魂歌ではない。

 自分たち三兄妹が、この呪われ、悪意に満ちた森で今もなお泥を啜りながら生きていることを、この冷酷な世界に、そしてこの「物語の捕食者」である森そのものに突きつけるための、最大級の「叛逆の調べ」であった。


 『な、何を……!? お前の語り部としての根源である記憶は、もう半分以上、私たちが啜り尽くしたはずだ! 語るべき言葉も、想い出も、お前の中にはもう残っていないはずなのに! 何を吹こうというのだ!』


 霧の奥深くから、これまでの余裕を失った、焦燥と困惑に満ちた声が響き渡る。

 フィオラは、目に溜まった涙を振り払いながら、凛とした、けれどどこか底知れぬ狂気さえ感じさせる、美しい微笑みを浮かべた。


 「……物語も、言葉も、今の私にはいらない。……私が今ここで奏でるのは、……私たちが、生きてここにいるっていう……たった一つの、残酷なまでの事実だけだから」


 フィオラが、渾身の力を込めて笛を一吹きした、その瞬間。

 森全体を支配し、彼女の心を折ろうとしていた「沈黙の奏者」の笛の音が、不快な悲鳴を立てて逆流し始めた。

 彼女が奏でる音色は、旋律ですらない。それは魂を削り、命を絞り出すような、剥き出しの意志の咆哮であった。

 奪われた記憶、失われた物語、そのすべての喪失の「痛み」さえも、彼女は新しい旋律の一部として取り込み、倍にして森へと叩き返そうとしていた。


 「聴いて……これが、私たちの、黄昏の物語の続きだよ……っ!」


 フィオラの周囲で、彼女を縛り付けていた蔦のような霧が、その叫びに耐えかねて次々と弾け飛ぶ。

 だが、この森の真の主は、まだその貪欲な食欲を諦めてはいなかった。

 彼女の魂を、その誇り高き物語を完全に消し去るために、森は最大級の絶望的な幻影――「かつて彼女が最も深く愛し、けれど語りきることができなかった、あの死者たち」を、もっとも残酷な形で呼び覚まそうとしていた。

 三兄妹の絆が、フィオラの「語り部」としての命が、真の意味で試される刻が来る。


 次回、『第30話 記憶を抉る亡霊の囁き』


 ――フィオラが喉を裂き、魂を削って解き放った叛逆の音色は、一時的にではあるが、この森を支配し続けていた「沈黙の奏者」の冷酷な旋律を押し返した。


 ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!


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