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黄昏の語り部フィオラ ―聖教会が恐れた禁忌の記録、語り部が紡ぐ真実の逆転劇―  作者: 弌黑流人
第三章 猛る嵐の月

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第28話 零を穿つ不合理の意志

 熱い。脳が、沸騰している。

 シリュウスの頭蓋の中では、数万、数十万もの数式が火花を散らし、幾何学模様の結晶が絶叫を上げて砕け散っていた。この霧の中で直面した、自らの過去と知識を啜る「笛の音」に対抗するため、彼が選んだ手段は、自らの脳を魔導演算機として極限までオーバーロードさせ、記憶と人格を燃料に、世界そのものの物理定数を書き換える禁忌の術式――「概念干渉演算」の強制起動であった。


 「あ、が……あ、ああああああ……!」


 口の端から溢れるのは、言葉の体をなさない鮮血と、内臓を直接灼かれたような熱い吐息だ。シリュウスは地面に這いつくばり、湿った泥を噛み締めながら、必死に自らの魔導書に震える指を這わせる。

 視界の端から、現実を繋ぎ止める「概念」が剥がれ落ちていく。

 先ほどまで彼という人間を定義し、世界の秩序を説明していた高度な論理学の基礎が瓦解し、世界が意味を持たない線の集まりへと還元されていく。重力、質量、魔素の流動。それらすべてを測るための物差しが、彼の中から物理的に消滅していく。

 それだけではない。第27話で暴かれた、己の内面に潜む「冷徹で臆病な本音」さえも、今は術式の炎の中に放り込まれ、意識の深淵を焼き尽くしていた。

 アルドナの、あの強く頼もしい背中の広さ。

 フィオラが淹れてくれた、少し苦い薬草茶の香り。

 父ガゼルが、何も言わずに自分の頭に乗せた、節くれだった手の温もり。

 それらを守るために、彼はそれらについての「記憶」を燃料にするという、耐えがたい矛盾の地獄を彷徨いながら、なおも演算の速度を加速させる。


 (忘れる……。僕を作ってきた大切な欠片が、灰になって消えていく……。けれど、……あの子たちの物語が、ここで終わらずに続いていくのなら……僕は、空っぽの抜け殻になっても構わない!)

 『そうだ、シリュウス。すべてを燃やし尽くせ』


 脳内で、もはや姿も輪郭も曖昧になった「冷徹な自分」が、遠くの方で嘲笑っている。


 『知識も、積み上げた功績も、記憶も、愛さえも、すべてはただの脆弱な電気信号に過ぎない。燃え尽きて、後に何も残らぬ灰になれば、お前はただの肉の塊だ。レオファングの誇り高き知者でも、戦術家でもない、ただの、名もなき死体だ』

 「……うるさい。……名なんて、いらない。……僕は、ただの……弟であり、兄であれば、それでいい!」


 シリュウスは、熱を帯びた頭を地面に何度も打ち付け、その激痛の衝撃で、霧散しかける意識を強引に繋ぎ止めた。

 視覚が奪われ、漆黒に塗り潰された網膜の裏側には、依然として、この森の防衛システムが吐き出した冷酷な文字――「生存確率:0.0000パーセント」という数字が、明滅する呪いのように浮かび続けている。

 シリュウスは、感覚のなくなった右の指先を自ら噛み切り、溢れ出す鮮血を筆にして、網膜に浮かび上がる「0」という絶望の数字を、物理的に塗り潰した。


 「……計算に……体温などはない、と……僕はかつて誇らしげに言った。……けれど……」


 血が視界を紅く染め、鋭い痛みが狂いかけた正気を繋ぎ止める。


 「……僕が、今、ここに踏み止まっている理由は、計算じゃない。……愛しているからだ。……それ以上の解なんて……この世の、どこにもいらない!」


 シリュウスの魂が、喉が裂けるほどの咆哮を上げた。

 同時に、彼の全身から吹き荒れる青白い魔力の炎が、臨界点を突破し、周囲の空間そのものを歪ませた。

 キィィィィィィン、という、空間そのものが耐えきれずに悲鳴を上げるような凄まじい金属音が響き渡り、彼を無機質な情報として閉じ込めていた虚無の檻が、粉々に砕け散った。

 その衝撃の余波で、シリュウスの眼鏡が粉砕され、鋭い破片が彼の頬を深く切り裂く。

 だが、彼はもう痛みを感じなかった。

 脳の大部分を焼き尽くし、自分が誰であるかさえ、自らの名前さえも怪しくなったその深い暗闇の中で、彼はたった一つの「光の道」を見つけ出していた。

 それは、合理的な演算が導き出した道ではない。アルドナが血を流しながら切り拓き、フィオラが歌いながら繋いできた、泥臭く、けれど美しい絆の痕跡であった。


 「……いた。……ようやく、見つけた……」


 力なく呟いたシリュウスの指先が、虚空の一点を震えながら刺す。

 その瞬間、停滞していた霧を力ずくで裂いて、凄まじい嵐が吹き抜けた。


 「――シリュウス!!」


 聞き間違えるはずのない、力強く、そして今はなりふり構わぬ焦燥に満ちた絶叫。

 右腕に宿った黒い鱗を、守るための牙として肯定し、自らの内なる闇を力に変えたアルドナが、空間の裂け目をこじ開けて飛び出してきた。

 アルドナの目に映ったのは、血の海の中に横たわり、砕けた眼鏡を傍らに、虚ろな瞳でただ天を見つめている、変わり果てた弟の姿であった。


 「シリュウス! しっかりして、シリュウス!」


 アルドナは大剣「裂界の牙」を投げ出し、異形となった右腕を構うこともなく、弟の今にも折れそうな痩せた肩を抱き寄せた。

 アルドナの腕の中にあるシリュウスの体は、術式の代償で驚くほど異常な熱を帯びており、そして、命の灯火を使い果たしたかのように、羽毛のように軽くなっていた。


 「……ああ、姉さん……」


 シリュウスは、ぼやけて焦点の合わない視界の中で、必死に自分を抱きしめる姉の顔を、心の輪郭で捉えた。


 「……見てよ。……言った通りだろう? ……計算通り、だよ。僕が……ここで、……世界で一番不合理な、愚かな術式を解いていれば……姉さんが来る確率は、……100パーセント、だった。……僕の、勝ちだ」

 「何が勝ちよ、馬鹿! こんなにボロボロになって……! 知ってるわよ、あんたの計算がいつも土壇場でギリギリだってことくらい! 勝ちなんて、もう言わなくていいから……!」


 アルドナの声が、熱い涙に潤んで激しく震えている。

 彼女は、シリュウスの瞳に宿っていた、あの透徹した「知性の輝き」が、今は消え入りそうなほど微かであることを悟っていた。

 彼は、自分たちを、そしてこの絆を救い出すために、何よりも大切にしていた自分の頭脳を、その才能のすべてを、神への捧げ物にしてしまったのだ。


 「……姉さん、……泣かないで。……それより、早く……」


 シリュウスは、力を失いかけた、もはや感覚の消失した指先で、霧のさらに深淵、あの不気味な笛の音がもっとも高く響いている方角を、執念だけで指し示した。


 「フィオラが……あの子が、……消えちゃう。……あの子の真っ白な物語が……飢えた森に、食べられちゃう前に……助けて、あげて……」

 「分かってる。分かってるわ、シリュウス。あんたを一人にはしない。フィオラも、必ず連れ戻す。……だから、もう喋らないで。今は、休んで」


 アルドナは、弟の火傷しそうなほど熱い額に、自らの額をそっと寄せた。

 シリュウスの意識は、そこでぷつりと途絶えた。

 最後に残ったのは、失われた膨大な知識の代わりに、彼の胸の奥で静かに灯り続ける、不器用なほど純粋な「愛」という名の残り火だけであった。

 アルドナは、意識を失ってぐったりとしたシリュウスを、自分の背にしっかりと、二度と離さないという鉄の意志を込めて固定した。

 彼女の右腕の鱗が、弟の献身に応えるようにさらに激しく拍動し、殺意を純粋な魔力に変えていく。


 「待ってなさい、フィオラ。……シリュウスが、あんたの居場所を教えてくれた。……今度は、お姉ちゃんがその物語を、絶望から救い出す番よ」


 アルドナは、シリュウスが最期の力で指し示した、暗黒の深淵へと、一歩を踏み出した。

 そこでは、末妹フィオラが、自らの「存在」そのもの、そして紡いできた「物語」そのものを賭けた、あまりにも孤独で過酷な闘いに身を投じようとしていた。

 三兄妹の絆を試す森の悪意は、ついにその最深部へと、彼らを誘い込む。


 次回、『第29話 記憶を啜る笛の音』


 ――音が、消えた。

 いいえ、正確には世界から「意味」という概念が剥がれ落ちてしまったのだ。


 ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!


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