第27話 記憶を啜る笛の音
思考の海が、濁っていく。
シリュウスは、ひび割れた眼鏡の奥で、激しく明滅し、頁が勝手にのたうつ魔導書を必死に凝視していた。ここまで自らの知性の限界に直面し、信じてきた合理性の殻を自ら砕こうとした彼を待っていたのは、解放でも救済でもなかった。それは、より狡猾で、より残酷な、魂の深層を蝕む「精神の檻」であった。
霧の奥から、ヒュウ、ヒュウと、乾いた風が吹き抜けるような、あるいは行き場を失った赤子が暗闇で啜り泣くような、不気味な笛の音が響いてくる。
その旋律が鼓膜を震わせ、脳髄に達するたびに、シリュウスが長い年月をかけて構築し、磨き上げてきた緻密な演算回路が、酸を浴びせられたかのように目に見えて腐食していくのが分かった。思考の一片が剥がれ落ちるたび、彼の鼻腔には焦げたような、あるいは肉の腐ったような不快な臭いが漂う。
「……く、そ……。音波による精神干渉か? いや、これはもっと……根源的な……概念の侵食だ……」
シリュウスは耳を塞ごうとしたが、腕がまるで重力に逆らうことを禁じられた鉛のように重い。指先一つ動かすのにも、全身の魔力を振り絞らねばならぬほどの負荷がかかっている。
この笛の音は、空気を振動させて届く物理的な音ではない。彼の脳内に堆積した「記憶」そのものを触媒にして、神経の最も奥深い場所から直接響き渡っているのだ。
笛の音が一段と高く、狂気を孕んだ高音を奏でた瞬間、シリュウスの視界が万華鏡のように歪み、現実の禁忌の森が掻き消えた。
眩暈が収まった時、彼はアイゼン村の、あの静かな書庫の中に立っていた。
窓から差し込む陽光はどこまでも暖かく、空気中に漂う埃が光の粒となって、穏やかに舞っている。そこは彼が人生の中で最も愛し、世界の喧騒から逃れて最も深い安らぎを感じていた、聖域のはずだった。
だが、棚に並んだ愛読書を手に取ろうとして、シリュウスは喉の奥から乾いた悲鳴を上げた。
本の表紙には文字がなく、慌ててめくったページにも、知性の片鱗は見当たらない。そこにはただ、真っ黒な墨が呪詛のようにぶち撒けられた跡があるだけだった。彼がこれまで吸収し、血肉としてきた古の英知も、数理の美しさも、すべてが物理的に消去されていた。
『どうしたんだい、シリュウス。そんなに必死な顔をして。また新しい知識が欲しいのかい?』
背後からかけられた、聞き慣れたはずの自分の声。それに、シリュウスは心臓が凍り付くかと思った。
振り返ると、そこには自分と同じ顔、同じ体躯をした、けれど瞳の中に底なしの「虚無」を湛えたもう一人の自分が、影のように立っていた。
その「自分」は、酷く歪んだ、嘲笑を含んだ笑みを浮かべ、指先で透明な横笛を弄んでいる。
『お前は、この書庫で多くのことを学んだつもりでいた。世界の理、魔法の構成法則、レオファングの血塗られた歴史。……けれど、一番大切な「自分自身の正体」については、一行も、一文字も読まなかったようだね。あるいは、あえて読み飛ばしたのかな?』
「……お前は、僕の幻影か。それとも森が生み出したバグか。消えろ……消えてくれ!」
シリュウスは震える声で叫んだが、もう一人の自分は、答える代わりに笛を唇に当てて一吹きした。
その鋭利な音色が、書庫の偽りの平穏を無慈悲に引き裂く。
『お前の記憶を整理してやろう。お前がアルドナを「強い」と呼び、フィオラを「守るべき対象」と定義したのは、本当に純粋な愛情からか? お前の愛は、計算によって導き出された「最適解」という名の、ただの予定調和ではないのか?』
書庫の壁が、ひび割れた鏡のように音を立てて崩れ落ち、そこから凄惨な光景が濁流となって溢れ出した。
それは、アライアを脱出する際の記憶。背後から迫る執拗な追っ手の足音。血を流し、重傷を負いながらも、大剣を振るって自分たちを守るアルドナの傷だらけの背中。
『あの時、お前の脳内では、一秒間に何度も非情な「生存確率」が計算されていた。お前は、アルドナの生存率が四十パーセントを下回った瞬間、彼女を囮として見捨て、フィオラだけを連れて脱出するための最短ルートを、すでに算出していたはずだ。……違うかい? お前の脳は、いつだって最悪を想定し、その犠牲の中に家族を含めていた』
「……それは、最悪の事態を想定するのが、戦術家としての僕の役目だからだ! 感情に流されて全員が全滅するより、一人でも、二部でも生き残る道を探すのが、僕の……僕なりの誠実さだ!」
『誠実? 笑わせるな。それは冷徹な合理性という綺麗な名で包み隠した、醜い「臆病」だよ。お前は、自分が傷つくのが怖かった。自分が無力であることを認めるのが怖くて、数字という冷たい鎧を身にまとったんだ。アルドナの右腕の異形を見て、お前は一瞬でも「おぞましい」と思わなかったか? フィオラの「語り部」としての力が、いつか自分たちに制御不能な破滅を招くと、お前の計算式の端っこに小さく書き込まなかったか?』
笛の音が、シリュウスが脳の最も暗い奥底に封印していた、自分自身でも認めたくない、反吐が出るような「計算」を次々と暴き出していく。
シリュウスは耳を血が出るほど強く押さえ、頭を抱えて絶叫した。
「やめろ……! やめてくれ! 僕は、二人を信じている! 数式はあくまで、道標としての目安に過ぎない!」
『いいや、お前にとって数式こそが唯一の神であり、家族はその式を構成する変数に過ぎない。お前はフィオラの物語を紡ぐ手助けをしているふりをしながら、その物語が「自分の計算可能な範囲内の結末」に向かうよう、常に思考の糸で誘導してきた。……お前が愛しているのは家族じゃない。家族という存在を完全に管理できている、その傲慢な「万能感」だ』
もう一人の自分の、剃刀のように鋭い言葉が、シリュウスの精神の薄皮を一枚ずつ剥いでいく。
シリュウスの周囲で、かつて彼を支えていた書庫の本たちが、自ら発火するように青白い炎を上げ、灰になって宙に舞っていく。
それは比喩ではなく、彼がこれまで人生を賭けて蓄えてきた知識――彼という人間を規定していたアイデンティティが、この「記憶を啜る笛の音」によって物理的に剥奪されていることの証明であった。
「あ……ああ……。物理学の第三法則が……記述できない……。魔力循環の、基本術式が……消えていく。構築できない……何一つ、構築できない!」
底知れぬ恐怖が、冷たい汗となって全身の毛穴から噴き出す。
知性を、知識を失えば、自分はただの、剣も振れぬ、魔術も扱えぬ脆弱な少年に戻ってしまう。魔物と呪いに満ちたレオファングという一族の中で、唯一の誇りであり、生存するための盾であった「知性」という名の武器を、この森は根こそぎ奪い取ろうとしていた。
シリュウスの視界はさらに白濁し、思考の言語化さえも困難になっていく。
笛の音はさらに激しさを増し、その旋律は生存者への嘲笑から、死者を悼む「挽歌」へと変貌を遂げる。
霧がかった記憶の中のフィオラが、今まで見たこともないほど悲しそうな、拒絶の混じった顔で自分を見つめている。
『お兄ちゃん……どうして、そんなに怖い顔をして私たちを計算しているの? 私は、お兄ちゃんの数字になりたくないよ……。物語になりたくないよ……』
「フィオラ……違うんだ、僕はただ……君を失いたくないだけで……」
必死に手を伸ばそうとするが、彼の指先は、実体を失った陽炎のように透けて消えかかっていた。
彼がこれまでの癖で合理性を追求しようとすればするほど、彼自身の存在の強度は希薄になり、笛の音という「虚無」の渦に吸い込まれていく。
このままでは、彼はアルドナやフィオラの居場所を見つけ出す前に、自分がなぜ戦っているのか、自分が誰を愛していたのかさえも忘却し、ただこの森の静寂を構成する、意思なき一部になってしまう。
『さあ、シリュウス。最期のページの、最期の一行を破り捨てよう。お前の名前も、姉や妹の名前も、すべてを忘れて「無」という名の、誰にも侵されない完璧な数式になればいい。それが、お前の求めていた唯一の、間違いのない解だろう?』
シリュウスの瞳から、完全に光が消えた。
力なく膝が折れ、彼はアイゼン村の書庫だった残骸の上に崩れ落ちる。
知性という名の高く堅牢だった城壁は、今や完全に崩れ去り、彼の内面には、荒涼とした、雪さえ降らぬ冬の野原のような絶対的な空虚さが広がっていた。
だが、その完全な、あまりにも完璧な絶望の底で。
何の色も形もない、真っ暗になった脳裏の片隅に、たった一つだけ、計算式でも、論理でも、魔導言語でもない「ノイズ」がしぶとく残っていた。
それは、亡き母エルーカが、自分が幼い頃に、寝かしつけるために聞かせてくれた、不器用な鼻歌の記憶だった。
音楽としてはデタラメで、旋律も音階も無視した、数理的な法則性など微塵もない、純粋で、かつ爆発的な「感情」の断片。
(……あたたかい。……どうして、法則も論理もない、こんな不合理な音が、消えずに残っているんだ……?)
シリュウスは、泥と血に塗れた、感覚を失いつつある右手を、ゆっくりと、けれど折れぬほどの力で握りしめた。
空っぽになった彼の胸の奥に、かつてないほど強烈な「熱」が、小さな種火のように宿る。
「……計算が、合わない。……僕の知性をすべて奪い、記憶をすべて啜り尽くしても、……この『熱』だけは、どうしても消去できないのか」
彼は、自らの内に残されたその不合理な熱を、凍てついて機能を停止していた魔導回路へと、無理やり流し込んだ。
知性が奪われるなら、知性の代わりに、この「呪いのような熱」を燃料にして立ち上がるしかない。
シリュウスは、歪んだ、もはや像を結ばぬ視界の中で、魔導書の、文字がすべて消え去った白紙のページを力強く睨み据えた。その瞳には、知的な落ち着きではなく、獲物を屠る獣のような鋭い光が宿っている。
「……お前は、僕の記憶を啜〈すす〉り、腹を満たすと言ったな。……なら、啜りきれないほどの、内臓を焼き溶かす『劇毒』を飲ませてやる」
シリュウスの瞳に、狂気にも似た、不退転の光が戻る。
それは、自らの正気と命を燃料とした禁忌の術式の、不吉な予兆であった。
「生存確率零。再会確率零。……そんな薄汚い数式、僕がこの手で噛み砕いて、血反吐と共に灰にしてやる……!」
霧の奥で、笛の音が戸惑うように、不快な不協和音を奏で始める。
シリュウスという精緻な計算機は、今、自ら「暴走」し、論理の軛〈くひき〉を断ち切ることを選択した。
愛という名の、計算機にとっての最大にして最悪のバグを、この森の心臓部に叩きつけるために。
次回、『第28話 零を穿つ不合理の意志』
――シリュウスの頭蓋の中では、数万、数十万もの数式が火花を散らし、幾何学模様の結晶が絶叫を上げて砕け散っていた。
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