第26話 演算の果ての虚無
世界から、色彩が消えた。
シリュウスの視界を支配しているのは、網膜に直接焼き付いたかのような、膨大な数式と幾何学模様の羅列だった。彼の瞳は、もはや現実の霧を見てはいない。脳内で高速回転を続ける「戦術演算」が、周囲の空間をすべて座標と確率の束へと変換し、無機質な情報として処理し続けていた。
「……呼吸、一分間に四十二回。肺活量の低下、約十五パーセント。周囲の魔素濃度、規定値を大幅に超過。……異常だ。計算が、合わない」
シリュウスは、ひび割れた眼鏡の奥で、焦点の合わない瞳を激しく動かしていた。彼の手に握られた魔導書は、主の狂気じみた演算速度に呼応するように、ページが猛烈な勢いでめくれ上がり、摩擦で焦げたような匂いを放っている。
霧の中でアルドナとフィオラを見失ってから、彼は一秒間に数万回ものシミュレーションを繰り返していた。二人がどの方角へ、どれほどの速度で移動したのか。霧の流動、地面の起伏、そしてあの忌まわしい笛の音がもたらす精神干渉の波形。それらすべてを変数として組み込み、二人の居場所を導き出そうとしていた。
だが、導き出される「解」は、常に同じ結末を指し示していた。
(生存確率、零。再会確率、零。……そんなはずはない。僕の計算に、間違いがあるはずなんだ。入力した変数が不足しているのか? それとも、この空間の定数そのものが歪んでいるのか?)
シリュウスは震える指で、空中を掻くように数式を書き換える。
彼は信じていた。この世のすべては理によって支配されており、どれほど複雑な現象であっても、正しく式を立てれば必ず答えに辿り着けると。それが、非力な彼がレオファングという一族の中で、武力を持たぬ身として自分の存在を証明するための、唯一の武器だったからだ。
しかし、この「猛る嵐の月」が支配する迷宮は、彼の信じる物理法則そのものを嘲笑っていた。一歩進むごとに空間は捩じ切れ、数分前の座標は意味を失う。論理という名の羅針盤が、磁場を失ったかのように激しく振れ、指し示すべき「出口」を見失っていた。
『無駄だよ、シリュウス』
不意に、自分の声によく似た、けれど感情の欠落した「冷徹な声」が頭の中に直接響いた。
『お前は気づいているはずだ。この空間では一足す一が二になるとは限らない。お前が必死に解いている数式は、すでに前提条件から崩壊している。……お前の知性は、今や自分自身を追い詰めるための毒でしかないんだ。賢ければ賢いほど、お前は自分たちの死を正確に予見してしまうのだから』
「黙れ……! 僕は、僕の計算を止めるわけにはいかないんだ。止めれば、あの子たちが死ぬ。僕が解を見つけなければ、二人を救う道は永遠に閉ざされる。……計算しろ、もっと速く、もっと深く! まだ見落としている変数があるはずだ!」
シリュウスは、耳を塞ぎたい衝動を抑え、さらに思考を加速させた。加速しすぎた脳細胞が異常な熱を持ち、耳の奥で血管が拍動する音が、まるで巨大な太鼓を打ち鳴らしているかのように不気味に響く。
その時、過熱した彼の脳内に、一つの「新しい解」が浮かび上がった。
それは、二人の居場所ではない。
「三兄妹が生き残るための、唯一の生存戦略」として、彼の冷徹な知性が導き出した、もっとも合理的で、もっとも非情な回答だった。
(……アルドナを、切り捨てる?)
シリュウスの手が、ピタリと止まった。
計算結果が、残酷な事実を突きつける。
アルドナの右腕の異形化は、すでに制御可能な範囲を超えつつある。彼女が暴走すれば、その破壊的な魔力によって、精神的に敏感なフィオラの意識は完全に粉砕される。もしフィオラを救いたいのであれば、現時点でアルドナという「不安定要素」を隔離し、彼女を囮として教会の追っ手にぶつけることが、三兄妹全体の生存率を最大化させる唯一の方法であると、数式が冷酷に告げている。
『ほら、答えは出た。お前はいつだって「最適解」を求めてきただろう? 情に流されず、数式に従う。それが、力なき弱者が強者に勝つための、唯一の戦い方だと自分に言い聞かせてきたはずだ。今、お前は最高の戦術を思いついた。誇るがいい、シリュウス』
「違う……そんなの、僕の望む答えじゃない! そんな答えを出すために、僕は学んできたんじゃない!」
『望むかどうかは関係ない。客観的な数値こそが「真実」だ。お前は心のどこかで、アルドナを恐れている。あの大剣が、あの醜い鱗が、いつか自分を傷つけることを知っている。そして、フィオラの「死者の声を聴く力」が、自分たちがアイゼン村で隠してきた欺瞞を暴くことも恐れている。……本当は、一人になりたいんだろう? 重荷を下ろして、レオファングという名を捨てて、ただの、名もなき学者として安らぎたいと。計算は嘘をつかないぞ、シリュウス』
声は、シリュウスが心の奥底で無意識に計算し、恐怖から切り捨ててきた「醜い本音」を、一つ一つ丁寧に拾い上げて見せた。
合理性を追求するということは、感情を「計算のノイズ」として処理することに他ならない。
シリュウスが優れた戦術家であればあるほど、彼は家族という愛すべき存在を、単なる「リソース」や「駒」として効率的に運用しようとする自分自身に、無意識の恐怖と嫌悪を感じていたのだ。
「やめろ……やめてくれ! 僕は、二人を愛している! 駒だなんて思ったことは一度もない! 僕は、守りたいんだ……!」
シリュウスは叫び、血走った目で魔導書を床に叩きつけた。
だが、魔導書は地面に落ちる前に霧へと溶け、嘲笑うかのように再び彼の手に戻ってくる。
逃れられない。
彼の知性は、すでに外側を向くことをやめ、内側からの自食を始めていた。
高速で回り続ける演算回路が、自分の過去の行動、言葉、選択のすべてを再検証し、そこに潜む微かな「偽善」を暴き出していく。
(アライアでの脱出時、僕はフィオラを先に逃がした。それは、彼女が語り部として重要だからか? それとも、彼女の無垢な瞳に見つめられるのが、自分の汚れを自覚させられるようで苦しかったからか?)
(アルドナに無理を強いて前線に立たせてきたのは、彼女が強いと信じていたからか? それとも、彼女に泥を被らせることで、自分の手を汚さずに済むと無意識に計算したからか?)
「ああ……ああああああ! 止まれ、止まってくれ!」
シリュウスは頭を抱え、その場に蹲〈うずくま〉った。
知性という名の光は、今や彼の心を焼き尽くす獄炎へと変わっていた。
計算すればするほど、自分という人間の底の浅さが露呈し、愛だと思っていたものが、単なる「生存のための共依存」という冷めた数式に置換されていく。
視界から色が完全に失われ、すべてが白と黒の、無機質な二進法の世界へと沈んでいく。そこには、体温も、祈りも、希望もない。ただ、正解と不正解、そして死という結果だけが漂っている。
虚無。
何も信じられない。自分の脳が導き出す言葉さえ、信用できない。
彼は、自らの知性の果てにある、暗く深い穴の淵に立たされていた。
(……それでも、僕は)
虚無の淵で、シリュウスは消え入りそうな意識を、一人の少女の姿に繋ぎ止めた。
まだ旅が始まったばかりの頃、アイゼン村でフィオラが、彼の計算結果を見守りながらふと言った言葉。
『お兄ちゃんの計算は、とっても温かいね。みんなが死なないように、ずっとずっと、一生懸命考えてくれているのが分かるもん。……魔法よりもずっと、素敵な計算だよ』
その時、彼は鼻で笑って「計算に体温などないよ。それはただの統計と確率だ」と冷たく答えたはずだ。
だが、今、この極限の虚無の中で、彼の凍てついた心を唯一溶かしたのは、その「不合理で、根拠のない温かな言葉」だった。
(計算に、間違いがあったんじゃない。……計算だけで、すべてを救おうとした僕が、根本的に間違っていたんだ。愛を数式に代入しようとした時点で、僕は負けていたんだ)
シリュウスは、血の滲む唇を自ら噛み切り、その激痛によって強引に思考の加速を停止させた。
脳が悲鳴を上げ、視界に無数の火花が散る。彼は、これまで命よりも大切にし、拠り所にしてきた「合理性」という名の殻を、自らの意志で内側から粉砕しようとした。
だが、森の悪意はそれを許さない。
「……うるさいよ、僕の声。……生存確率が零なら、そんな数式は、今の僕には塵ほどの価値もない」
彼はゆっくりと立ち上がり、霧で曇りきった眼鏡を外して、地面に投げ捨てた。
裸眼の視界は酷くぼやけていたが、その瞳には、先ほどまでの虚無ではない、鈍い、けれど確かな「生」の光が宿り始めていた。
(……いや、まだだ。計算が終わっていない)
不意に、霧の向こう側から、自分たち三兄妹以外の「何者か」の気配が計算式に紛れ込んできた。
それは、教会の追っ手でもなく、森の魔物でもない。
シリュウスの演算を嘲笑い、彼をこの虚無へと誘い込んだ、この森そのものの意志。
彼は、自らの知性を武器にするのではなく、自らの知性を「餌」にして、その正体を釣り上げることを決意した。
「論理で辿り着けないなら、……不合理の極みを見せてやる」
シリュウスは魔導書を開き、自らの指を噛み切って流れる血で、本来なら「禁忌」とされる、秩序を無視した無秩序な術式をページに刻み始めた。
次回、『第27話 記憶を啜る笛の音』
――シリュウスは、ひび割れた眼鏡の奥で、激しく明滅し、頁が勝手にのたうつ魔導書を必死に凝視していた。
ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!




