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黄昏の語り部フィオラ ―聖教会が恐れた禁忌の記録、語り部が紡ぐ真実の逆転劇―  作者: 弌黑流人
第三章 猛る嵐の月

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第25話 血塗られた大剣の独白

 鏡像の自分が光の粒子となって霧の彼方へ溶け去った後、アルドナの周囲には再び、耳を劈くような凄まじい静寂が戻ってきた。

 勝利の余韻など、どこを探しても微塵も存在しない。あるのは、肺の奥深くまで侵食してくる冷たい湿気と、右腕から全身の血管へと波及する、骨を一本ずつ細かく削り取られるような熱い激痛だけだ。


 「はぁ、はぁ、はぁ……っ……」


 アルドナは、今にも手から滑り落ちそうになる大剣「裂界の牙」を、泥まみれの左手で無理やり握り直した。鍛え上げられた彼女の肉体をもってしても、その剣の重みは、今の彼女には巨大な山脈を背負わされているかのように絶望的に重い。右腕を侵食する黒い鱗は、すでに肩の付け根を優に越え、鎖骨から喉元を狙うように這い上がっている。その皮膚の下で、自分以外の何かが蠢き、毒を撒き散らしているような異様な感覚が、彼女の正気をじりじりと削っていた。


 「……しっかりしなさい、アルドナ。ここで、立ち止まってしまったら……あの子たちは……」


 自分を鼓舞するために絞り出した声さえ、この呪われた霧は容赦なく吸い取っていく。

 その時だった。


 『――ようやく、こちらを向いたか。愛しき我が器、レオファングの末裔よ』


 脳髄を直接掴んで揺さぶるような、低く、濁った声が彼女の内側に響き渡った。

 アルドナは反射的に周囲を警戒するが、そこには相変わらずの白い闇が広がるばかりで、人影などどこにもない。声の主は外から来た侵入者ではなく、彼女が震える体で杖のように突いている、その「剣」そのものから発せられていたのだ。

 大剣の重厚な刀身に刻まれた禍々しい紋様が、彼女の右腕の鱗と同じどす黒い光を放ち、生き物の心臓のように脈動している。


 「……裂界の牙? あなたが、喋っているの……? そんな、まさか……」

 『喋る? 違うな。それは人間という脆弱な種族の捉え方だ。私はお前の血に混じり、お前の肉に深く根を下ろした「意思」の奔流そのものだ。レオファングが竜を屠り、その最期の断末魔と呪いを鋼に閉じ込めたあの日から、我らと一族は分かちがたく一つなのだから』


 剣の声は、深い泥の底から湧き上がるような、嘲笑の響きを帯びていた。アルドナの意識は急速に混濁し、立っているはずの地面が揺らぎ、視界が真っ赤な原色に塗り潰されていく。

 ふと気づけば、彼女は霧の森にいるのではなかった。そこは、果てしなく続く真っ赤な血の海が広がり、空には巨大な「裂界の牙」の幻影が浮かぶ、精神の牢獄だった。


 『見てみろ、アルドナ。お前の歩んできた道のり、その足元を』


 剣に促され、彼女が恐る恐る視線を落とすと、そこには無数の死体が積み重なっていた。

 かつて父と共に守りたかったガゼル村の住人たち。アライアの暗い地下水道で、任務のままに彼女を殺そうとして返り討ちにあった教会の騎士たち。そして、名も知らぬ旅人や、彼女がその業に巻き込んでしまった者たちの、物言わぬ亡骸。彼らの切り裂かれた傷口から溢れ出した血が、アルドナの足首を冷たく掴み、底知れぬ深淵へと引きずり込もうとしている。


 『お前がこの剣を振るうたび、私は彼らの命と、その最期の怨嗟を啜り続けてきた。そうしてお前の右腕を成長させ、レオファングの真の姿へと近づけてきたのだ。お前が「守るため」と偽善的な願いを口にするたびに、この剣はより多くの血を求め、お前を人間という枠組みから遠ざけていく。……滑稽だとは思わないか? 愛する弟妹を守るための力が、お前を「彼らが愛した姉」ではない、おぞましい怪物へと変え続けているのだからな』

 「黙りなさい……! 私は、私よ! たとえこの姿がどうなろうと、化け物になろうと、心だけは……あの子たちを愛する魂だけは渡さない!」


 アルドナは叫び、血の海を力強く蹴って虚空を斬りつけた。だが、その一振りは鉛のように重く、放たれた斬撃は彼女自身の肩の肉を逆流するように裂く、凄まじい衝撃となって返ってきた。


 『心、か。そんな、形さえ持たぬ不確かなものが、いつまでこの暴力の連鎖の中で保つというのだ? シリュウスという少年を見てみろ。あの利発な少年は、お前の異形化した腕を見るたびに、自らの脆弱さを呪い、冷徹な合理性という殻の中に逃げ込んでいるではないか。フィオラはどうだ? あの子はお前のその変わり果てた姿を見て、いつかお前が自分自身を失い、飢えた獣となって自分を食い殺すのではないかと、心の最奥で震え上がっているぞ』

 「嘘よ! あの子たちは……シリュウスもフィオラも、そんなこと……そんなこと思いもしない!」

 『いいや、それはお前自身の内に潜む「疑念」そのものだ。お前が誰よりも自分を信じていないからこそ、私の言葉はお前の鼓膜を震わせる。私はただ、お前が隠し持っている真実を声として届けてやっているに過ぎないのだよ』


 大剣の紋様が激しく、不気味な脈動を伴って明滅した。同時に、アルドナの脳裏には、彼女が最も恐れていた「最悪の情景」が、耐え難い鮮明さで映し出された。

 それは、理性を完全に喪失し、全身を漆黒の鱗に覆い尽くされた自分が、血の涙を流しながら、フィオラの細い喉元を食い破る姿。止めようとして駆け寄るシリュウスの細い腕を、この「裂界の牙」で容赦なく、塵も残さず叩き斬る自分。


 「やめて……見せないで……! あああああ!」

 『これが、お前が辿り着く唯一にして絶対の終着点だ。レオファングの血は、戦いという破壊の渦中でしか己を証明できない。平和な安らぎも、静かな黄昏も、最初からお前たちの家系には許されてなどいないのだよ。お前は、愛する者たちの血でその渇きを癒やすために生まれてきたのだ』


 アルドナは真っ赤な血の海に膝をつき、激しい嗚咽を漏らした。

 剣の声は、彼女がこの旅の間、片時も忘れようと必死に封じ込めてきた「いつか自分が家族を傷つけてしまうかもしれない」という根源的な恐怖を、正確無比に、そして冷酷に突き刺してくる。

 霧の中で、シリュウスやフィオラの手を離してしまった、あの決定的な瞬間。

 心のどこかで、ほんの一瞬だけ「一人になりたい」と思ってしまったのではないか?

 化け物としての自分の苦悩を理解してもらえない孤独に疲れ、彼らの真っ直ぐで純粋な瞳を見ていることに、耐えられなくなったのではないか?

 剣の悪意は、その「一瞬の迷い」という名の隙間を、逃さず食い散らかし、彼女の心を腐食させていく。


 『アルドナ。楽になれ。私にすべてを預ければ、今感じている痛みも、死の恐怖も、重すぎる罪悪感もすべて消えてなくなる。お前はただ、世界を切り裂く「牙」となり、お前を苦しめる邪魔なものをすべて切り伏せるだけの、純粋な暴力になればいい。……そうすれば、もう何も失うことはない。悲しむ心さえ、捨てるのだから』


 剣の誘惑は、深海のように静まり返り、抗いがたいほどに甘美で心地よかった。

 右腕を苛んでいた激痛が、その誘いに身を任せようとした一瞬だけ、嘘のように和らぐ。

 そうだ、このまま、考えるのをやめてしまえばいい。この剣の一部となり、吹き荒れる嵐のように、ただすべてをなぎ倒して吹き抜けるだけの力になればいい。その方が、どれだけ救われるだろうか。

 だが、その微かな、欺瞞に満ちた安寧を切り裂いたのは、遠い記憶の底から聞こえてきた、母エルーカの優しい歌声だった。


 「……物語を、終わらせちゃだめ……お姉ちゃん……」


 それは、幻聴かもしれない。あるいは、今この瞬間に、この森のどこかでフィオラが、消えそうな意識を繋ぎ止めて必死に紡いでいる「語り部」の言葉かもしれない。

 アルドナは、泥と返り血にまみれた顔を、ゆっくりと上げた。


 「……そうね。お前の言う通りよ。私は、化け物になるのが怖い。あの子たちに拒絶され、嫌われるのが、何よりも恐ろしいわ。……だけどね、それがどうしたというの?」


 彼女はゆっくりと、震える右手で、脈打つ大剣「裂界の牙」の鋭利な刃を直接掴み取った。鋭い刃が彼女の右手の鱗を割り、そこから真紅の、熱い血が溢れ出し、刀身を伝う。


 『……何を……狂ったか!? 己の身を削り、この私を、器であるお前が拒むというのか!』


 大剣が不快な、金属の悲鳴のような振動を上げた。


 「拒まないわよ。……その代わり、お前を従わせる。お前が私の恐怖を映し出す鏡なら、私はその恐怖すらも背負って、あの子たちの前を歩く。……私が、私自身の手で選んだこの道だもの!」


 アルドナの瞳に、かつてないほど強い黄金色の輝きが宿る。それは、父ガゼルから静かに受け継いだ騎士の誇りと、レオファングという忌み名を受け入れ、その重みごと背負って生きると決めた「語り部」を支える姉としての、凄絶な決意の光だった。


 「私が化け物になって、いつか二人を食い殺すというのなら……その前に、私の物語のすべてを、フィオラに刻ませる。あの子なら、化け物になってしまった私さえも、最後まで愛すべき家族の物語として遺してくれる。……私はあの子を、フィオラという『語り部』を信じているから!」


 アルドナが全身の魔力を右腕の鱗、そして掴んだ大剣へと一気に集中させると、大剣が発していた不気味な声は、断末魔のような高い金属音を立てて霧散した。

 血の海が広がる精神世界はガラスのように砕け、彼女の視界には再び、猛る嵐の月の紫光に照らされた、現実の禁忌の森が戻ってきた。

 右腕の鱗は消えていない。むしろ、その密度は増し、硬度を高めている。痛みも一向に引くことはない。

 だが、大剣「裂界の牙」は、もはや彼女を精神的に支配する呪いではなく、彼女の鋼のような意志に従う、忠実な猟犬のように、静かにその手の中に収まっていた。


 「……待ってなさい、シリュウス、フィオラ。たとえ、この手が二度と二人を優しく、人間のように抱きしめられなくなったとしても……私は、お前たちの命を守る、最強の盾になるわ」


 アルドナは力強く立ち上がり、血塗られた大剣を、眼前の虚空へ向けて一気に振り抜いた。

 一閃。

 彼女の覚悟が込められた斬撃は、物理的な霧を切り裂くだけでなく、森が仕掛けた空間の断絶さえも力づくでこじ開けた。

 裂けた霧の先に、一筋の道が現れる。

 その先から、微かに、けれど確かな魔力の揺らぎが感じられた。それは、絶望的な状況下で理性の限界まで足掻いているであろう、弟シリュウスが必死に展開している「戦術演算」の、切実な残滓だった。

 長姉アルドナは、己の最深部にあった闇を自ら喰らい、より強固な、そして残酷なまでに純粋な「器」へと昇華した。

 しかし、彼女がたどり着いた道の先で待っていたのは、合理性という名の鎖に縛られ、瞳から希望の光を消し去ったシリュウスの、悲痛な姿だった。


 次回は、『第26話 演算の果ての虚無』


 ――シリュウスの視界を支配しているのは、網膜に直接焼き付いたかのような、膨大な数式と幾何学模様の羅列だった。


 ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!


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