第24話 鏡像の死闘
霧は、もはや単なる視界を遮る壁ではなかった。それは意識そのものを外側からじわじわと押し潰し、内側から肺胞の一つ一つを腐食させていく重石だった。
アルドナは、どれほどの間、独りでこの白い闇を彷徨ったのか分からなかった。数分か、あるいは数時間か。時間の概念すらも森の悪意に飲み込まれ、彼女の歩みは泥の中を進むようにひどく緩慢になっていた。
「シリュウス……フィオラ……どこなの……答えて……」
幾度となく叫んだはずの弟妹の名前は、冷たい湿気に吸い込まれ、一歩先の霧さえも震わせることはない。代わりに自分の荒い呼吸音だけが、耳元で奇妙に増幅されて響いている。その音が、まるで自分を追い詰める獣の足音のように聞こえ、彼女の心拍数を無慈悲に跳ね上げた。
「くっ……あ、が……!」
突如として、右腕を覆う鱗が脈打った。骨の芯まで直接灼きつくような激痛が走り、アルドナはたたらを踏んで大剣を杖代わりについた。大剣「裂界の牙」が漆黒の土を削る鈍い音が、この世界に唯一残された実在の証明であるかのように聞こえた。
その時、前方の霧が意志を持つ生き物のように不自然に渦を巻き、一人の影を形作った。
「……誰?」
アルドナは痛みを堪え、反射的に大剣を正眼に構えた。霧の向こう側から現れたのは、教会の冷酷な追っ手でも、禁忌の森に棲まう異形の魔獣でもなかった。
そこに立っていたのは、アルドナ自身だった。
だが、それは今の彼女とは似て非なる、あまりにも残酷なまでに「正しい」姿。その右腕に醜い鱗はなく、肌は月光を弾く真珠のように透き通って白い。瞳には血と泥に汚れた現実を呪う殺意ではなく、春の陽光のような穏やかさと慈愛が宿っている。それは、かつてガゼル村で、父ガゼルと共に騎士の道を志し、誰も傷つけることなく誇り高く生きていた頃の、清らかな「アルドナ・レオファング」の鏡像だった。
「……どうして、あなたがここにいるの。……見せないで。その姿を、私に見せないで!」
アルドナの声が、情けなく震えた。鏡像の彼女は、慈しむような、しかし氷の刃よりも冷ややかな笑みを浮かべて、静かに口を開いた。その声は、かつて自分が持っていたはずの、鈴の音のように澄んだ響きだった。
「かわいそうな私。そんなに汚れて、そんなに醜くなってしまって。……その腕はもう、大切な人を抱きしめるためのものではなく、ただ絶望を引き裂くための鉤爪なのね。自分を偽り、名前を隠し、逃げ惑うその姿に、騎士の誇りが一欠片でも残っていると言えるのかしら」
「違う……私は、二人を守るために……! あの子たちが生きていくために、私はこの道を選んだのよ!」
「守る? その化け物の姿で? あなたが二人を愛おしく思えば思うほど、その鱗が、その呪いの魔力が、純粋な二人を内側から汚し、壊していく。……気づいているのでしょう? シリュウスの透徹した知性を曇らせ、フィオラの清らかな歌を絶望の色で染めているのは、他ならぬ、あなたという存在そのものだということに」
鏡像のアルドナが、腰の鞘から一振りの剣を抜いた。それは、かつて父から授かった、獅子の意匠が施された誇り高き騎士の細剣。
「本当のレオファングの誇りは、私が持っている。今のあなたはただの、先祖の名を泥に塗る化け物に過ぎない。……さあ、自分を終わらせなさい、偽物。これ以上、愛する家族を汚す前に」
眩いばかりの聖なる光を纏った鏡像が、音もなく踏み込んできた。
アルドナは悲鳴のような叫びを上げ、大剣でそれを受け止める。だが、細剣から伝わる重圧に彼女は驚愕した。鏡像の剣筋には一切の迷いがなく、何よりその動きは、アルドナ自身が「こうありたい」と願い続け、そして捨て去ったはずの、気高き騎士の技そのものだったからだ。
「くっ……あああああ!」
防戦一方に追い込まれるアルドナ。右腕の呪いが疼くたびに、身体の節々が軋み、筋肉が断裂するかのような苦痛が襲う。竜の力を、この異形の右腕を拒絶すればするほど、彼女の肉体は弱体化し、魔力の循環を阻害されていく。
そこへ、鏡像の細剣が容赦なく閃いた。鋭い一撃が彼女の肩を浅く切り裂き、鮮血が舞う。
「どうしたの? 自慢の『呪いの力』を使えばいいじゃない。それとも、本物の化け物になるのが、そんなに怖いの? 今のあなたは、騎士でもなければ化け物ですらない。ただの、中途半端な臆病者よ」
鏡像の言葉は、アルドナが心の奥底に封印し続けてきた傷口を、容赦なく抉り取った。
この森は、彼女自身の「自己嫌悪」を完璧に実体化させたのだ。彼女自身が今の自分を、この右腕を「化け物」だと蔑み、拒絶し続けているからこそ、過去の理想である鏡像は神格化された無敵の強さを誇り、現実の彼女は惨めに地に這いつくばることしかできない。
アルドナは膝をつき、どす黒い血を吐き出した。
視界の端で、右腕の黒い鱗がさらに広がり、肘を越えて鎖骨のあたりまで這い上がり、皮膚を裂きながら盛り上がっている。
「……嫌……私は、こんなものに……なりたくてなったんじゃない……!」
絶望が彼女の視界を塗り潰そうとしたその時、混濁した脳裏に、一人の男の言葉が鮮烈に蘇った。
入り江で、命懸けの罠を仕掛け合い、そして最後には不思議な信頼を交わした銀髪の探求者、カシウス。
『いいかい、アルドナ。力そのものに善悪はない。呪いと呼ぶか、器と呼ぶか……それを決めるのは、お前の魂だ』
(……呪いじゃない。これが、守るための器?)
アルドナは、血に濡れた自分の右腕を、今一度見つめた。どす黒く、不気味に拍動し、生き物のように蠢くその異形。
これまでの旅を振り返れば、答えは明白だった。
もし、この腕がなければ、アライアの暗い地下水道で弟妹の命は潰えていた。もし、この力がなければ、教会の執拗な追跡から逃げ切ることは叶わず、フィオラの紡ぐ物語は今頃、焚き火の灰になっていただろう。
自分がこの力を、この自分自身の一部を拒絶することは、自分を信じて背中を預けてくれるシリュウスやフィオラの真っ直ぐな想いを、何よりも深く傷つけ、拒絶することと同じではないか。
「……私は、もう騎士には戻れない。あの日、あの村が焼けた時に、私は騎士としての自分を殺したのよ」
アルドナが、絞り出すような低い声で呟いた。鏡像のアルドナが、トドメの一撃を刺すべく、細剣を高く振り上げる。その刀身には、一切の穢れを知らない偽りの光が宿っていた。
「分かったなら、潔く消えなさい。レオファングの末路として、せめて美しく」
「美しさなんて、もういらないわ。……化け物で結構よ。二人が生き残れるなら、私はいくらでも汚れてやる。……この腕が、この呪いが、二人を明日という名の光へ繋ぐための泥まみれの鎖になるなら……私はそれを、私の誇りとして、魂に刻み込んで受け入れる!」
咆哮と共に、アルドナは右腕の力を「肯定」した。
拒絶という名の壁を取り払い、自らの魔力のすべてを、呪いの奔流へと同化させる。
赤黒い禍々しい魔力が大剣「裂界の牙」に濁流となって流れ込み、刃が空間そのものを焼き切るような圧倒的な光を放った。
鏡像の細剣が振り下ろされるその直前、アルドナの渾身の一撃が、周囲の霧ごと、そして自分自身の過去の影ごと鏡像を薙ぎ払った。
「なっ……なぜ……! そんな穢れた、呪われた力で、私の聖なる光を凌駕するというの……!」
鏡像のアルドナが、胸元からひび割れ、驚愕の表情を浮かべたまま光の粒子となって崩れ始める。
「清らかなだけの光じゃ、二人を闇から救い出すことはできないのよ。……さよなら、過去の私。私は、この呪いと共に、たとえ地獄の先まででも歩いていくわ。そこに二人がいる限り!」
鏡像が完全に消滅し、精神の檻が砕け散った瞬間、周囲を覆っていた重苦しい霧が、意志を失ったかのように微かに晴れた。
だが、安息はまだ遠い。森の奥からは依然として不気味な笛の音が、今度は嘲笑うような色を帯びて響き渡り、深淵がさらなる犠牲を求めて口を開けている。
アルドナは、より深く、より黒く変質した右腕を強く握りしめ、揺るぎない足取りで前を見据えた。右腕の痛みは消えていない。むしろ、肯定したことでより鮮明に「自分の一部」としての重みを感じるようになった。
「待ってなさい、シリュウス、フィオラ。……今、姉さんが助けに行くわ」
孤独な闘いを制し、己の闇を喰らって立ち上がった長姉の瞳には、かつてない強固な、そして凄絶な決意が宿っていた。
しかし、彼女はまだ知らない。
隣の歪んだ領域で、彼女が最も信頼する弟シリュウスが、その強固な「合理性」という名の壁に閉じ込められ、自分自身の知性に食い殺されようとしている、究極の絶望の淵に立たされていることを。
禁忌の森は、三兄妹の絆が最も強い場所から、崩壊の楔を打ち込み始めていた。
次回は、『第25話 血塗られた大剣の独白』
――鏡像の自分が光の粒子となって霧の彼方へ溶け去った後、アルドナの周囲には再び、耳を劈くような凄まじい静寂が戻ってきた。
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