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黄昏の語り部フィオラ ―聖教会が恐れた禁忌の記録、語り部が紡ぐ真実の逆転劇―  作者: 弌黑流人
第三章 猛る嵐の月

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第23話 霧に消える背中

 どれほど歩いただろうか。

 時間の感覚は、禁忌の森に立ち込める紫の霧の中に、粘り気のある糸となって溶け去っていた。上空を覆う樹冠の隙間から、猛る嵐の月が時折覗かせる不気味な光が、三人の影を奇妙に、そして化物のように捩じ曲げている。

 先頭を行くアルドナの背中は、いつもより少しだけ小さく、そして絶望的に遠く見えた。彼女の右腕を覆う鱗は、もはやマントの上からでも判別できるほどに硬質化し、周囲の毒素を吸い取って不気味な拍動を繰り返している。その腕が、彼女の意識を気高き戦士から血に飢えた獣へと引きずり込もうとしているのを、後ろを歩く二人は痛いほどに感じ取っていた。


 「……ねえ、お兄ちゃん」


 不意に、シリュウスの腕を掴むフィオラの指に、爪が食い込むほどの力がこもった。


 「笛の音が、近くなっている気がするの。さっきまでは風の音に混じっていたのに、今は……脳みその中で直接誰かが囁いているみたい」


 シリュウスは、妹の震える肩を抱き寄せた。彼の魔導書は、先ほどから激しいノイズに晒され、整然とした数式は意味をなさぬ黒い記号の羅列へと崩壊し続けている。合理性という名の強固な防壁が、この「理由なき悪意」に満ちた森の前で、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。


 「大丈夫だ、フィオラ。僕たちは手を離していない。何が聞こえても、僕のこの手の感触だけを信じて。……僕の演算が正しければ、あと数千歩でこの磁場の歪みは収まるはずなんだ」


 シリュウスの声は冷静を保とうとしていたが、その瞳には隠しきれない焦燥が浮かんでいた。彼の手は、自分自身の体温さえ奪われ始めているような、奇妙な感覚に陥っていたからだ。

 霧は、瞬く間にその密度を増した。

 それはもはや気体ではなく、思考を侵食する生きた物質のようだった。吸い込むたびに肺の奥が焼けるように熱くなり、シリュウスの脳内に構築された精密な地図が、真っ白な灰となって崩れ落ちていく。


 「アルドナ、止まって! これ以上進むのは危険だ。……視界だけじゃない、魔力探査さえも完全に遮断されている!」


 シリュウスが叫んだが、その声は濃密な霧に反射して自分自身の耳に虚しく返ってくるだけで、数メートル先を歩いているはずの姉には届いていないようだった。

 アルドナの背中が、霧の向こうで淡い輪郭となって揺れている。彼女はまるで何かに強く導かれるように、一点を見つめて歩き続けていた。彼女の瞳には、かつてガゼル村で失ったはずの、父ガゼルの厳しい、けれど誇り高き後ろ姿が映っていた。


 「……父様? 待って、行かないで。……私を見て。私、まだ、戦えるから」


 アルドナの掠れた呟きは、背後の二人には聞こえない。彼女の意識は、既にこの森が作り出した「過去の追憶」という名の猛毒に侵されていた。彼女の視界は、徐々に熱を帯びた赤色に染まり始め、霧の向こうに揺れる弟妹の影が、父を奪った教会の騎士たちの熱源であるかのように誤認し始めていた。


 「お姉ちゃん、止まって! そっちはだめ!」


 フィオラが叫び、必死に手を伸ばしたその瞬間、不気味なほどに凪いでいた空気が、あの「旋律なき笛の音」によって物理的に引き裂かれた。

 それは音というよりも、魂そのものを切り刻む冷徹な刃だった。フィオラの琥珀色の瞳に、死者たちの無念の叫びが洪水のように流れ込み、彼女の「冥顕」の力が、制御不能のまま暴走を始める。


 「あああああ! やめて、そんなに一度に喋らないで! 物語が……ぐちゃぐちゃになっちゃう!」


 フィオラが耳を塞いで地面に蹲った。彼女を支えていたシリュウスの手が、激しい衝撃によって弾かれる。


 「フィオラ! ……くそ、演算が追いつかない! アルドナ、フィオラが!」


 シリュウスが懸命に妹の体を掴もうとしたが、その視界に、あり得ない光景が飛び込んできた。

 霧の中から現れたのは、追っ手の軍靴の音ではなく、かつてアイゼン村で共に笑い合った村人たちの、泥を啜りながら歩く亡者の列だった。


 「シリュウス様……偽名を使ってまで、私たちを騙していたのですか」

 「お前たちが来たせいで、村の平穏は汚されたのだ」


 合理性を何よりも重んじ、家族を守るための最適解を求め続けてきたシリュウスの脳内に、無数の「欺瞞」という名の罪悪感が降り注ぐ。彼の視界は、赤黒い数式の雨に塗り潰され、伸ばした手の先にあったはずのフィオラの小さな指先を見失った。


 「待ってくれ……まだ、僕の演算では、君たちはそこにいるはずなんだ! 数式が、僕の絆が、嘘をついているはずがない!」

 シリュウスは狂ったように霧を掻き分けた。だが、彼が握りしめていたはずのフィオラの細い手は、急激に熱を失い、まるで凍てつく石像を掴んでいるような感覚へと変質していた。あまりの異様さと、内側から突き上げられる恐怖に、シリュウスの指の力が一瞬だけ、ほんの一瞬だけ緩んでしまった。

 その刹那を、森の悪意は見逃さなかった。


 「来ないで! ……私の中の獣が、あなたたちを傷つけてしまう!」


 アルドナが獣のような咆哮を上げ、霧の中へと突進した。彼女の手が握っていたシリュウスのコートの袖は、霧の魔法によって砂のようにサラサラと崩れ落ち、虚空へと消えていった。

 彼女は、背後にいるはずの弟と妹を「守るため」という皮肉な動機に突き動かされ、自ら孤独という名の深淵へと駆け出していったのだ。

 霧は冷酷に、そして完全に、三人の間に割り込んだ。


 「お姉ちゃん! お兄ちゃん! どこ!? 物語が終わっちゃう……。私たちの物語が、ここで消えちゃうよ!」


 フィオラの叫びが、真っ白な虚無の中に虚しく響く。彼女が必死に掴み取ったのは、シリュウスの温もりではなく、森に生い茂る枯れ果てた蔦に過ぎなかった。


 「うそ……さっきまで、すぐそこにいたのに……」


 フィオラは膝をつき、血が滲むほどに地面を掻いた。だが、そこには音も、気配も、昨日まで共に歩んできた家族の残滓さえも存在しなかった。

 一方、シリュウスは霧の中を、視界を失った鳥のように彷徨っていた。


 「フィオラ! アルドナ! 返事をしてくれ! ……僕を、一人にしないでくれ!」


 彼の眼鏡は霧と涙で白く曇り、頼みの綱である魔導書は、真っ白なページを風にめくらせるだけの無意味な紙の束と化していた。演算能力の限界を超えた負荷が、彼の視神経を内側から灼き、平衡感覚を完全に奪っていく。


 (カシウスさんの言った通りだ。……この森では、愛する者の顔さえ、お前を殺すための武器になる。僕は……僕の迷いが、二人を切り離したのか?)


 彼の自問に応えるのは、遠くで嘲笑うかのように鳴り響く、あの旋律なき不吉な笛の音だけだった。

 アルドナは、ただ一人、世界の底へと沈んでいく感覚に襲われていた。


 「シリュウス……? フィオラ……?」


 彼女は足を止め、荒い呼吸を繰り返した。大剣の重みさえもが、今の彼女には耐え難い罰のように感じられた。右腕の脈動はさらに激しくなり、皮膚を突き破って生えてくる黒い鱗が、彼女の腕全体を、そして彼女の「心」をも覆い尽くそうとしている。


 「二人を守るって……そう決めたのに。……また私は、あの日のように一人になるの?」


 あの日、父ガゼルの名を冠した村が炎に包まれた時と同じ。

 逃げ惑う人々の叫び声、母エルーカの最期の歌、そして自分を逃がすために盾となった父の背中。

 守りたいものを何一つ守れず、ただ己の命を長らえさせるために化け物の力を振るう。その虚無感が、彼女の心を内側から食い荒らしていく。

 三人は、それぞれが完全に独立した「内面の牢獄」へと隔離された。

 禁忌の森は、彼らの最も深い場所にある恐怖を燃料にして、さらなる残酷な幻影を作り出していく。

 フィオラの前には、自分の声が誰にも届かず、家族の記録さえも歴史から抹消された「孤独な末路」が。

 シリュウスの前には、自分の知略がすべて裏目に出て、家族を死に至らしめる「冷酷な失敗」が。

 アルドナの前には、理性を失い、愛する二人を自らの手で引き裂いてしまう「最悪の未来」が。

 猛る嵐の月が天頂で不吉に輝き、紫色の光が森を地獄の底のような色彩に染め上げる。

 霧に消えた背中は、もうどこにも見えない。

 繋いでいた手は、虚無を掴む指先となって力なく垂れ下がった。


 「……寂しいよ。……助けて……」


 フィオラの小さな、消え入りそうな声が、誰にも、そして天にさえも届くことなく、深い霧の底へと沈んでいった。

 三兄妹の絆を、そして彼らの「レオファング」としての名を試す、真の地獄が、今その幕を上げた。


 次回、『第24話 鏡像の死闘』


 ――霧は、もはや単なる視界を遮る壁ではなかった。それは意識そのものを外側からじわじわと押し潰し、内側から肺胞の一つ一つを腐食させていく重石だった。


 ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!

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