第22話 狂い咲きの迷宮
嵐の咆哮が、一瞬にして遠のいた。
境界を越えた瞬間に訪れたのは、鼓膜が痛むほどの不自然な静寂だった。背後を振り返れば、そこにはまだ猛る嵐の月が支配する、荒れ狂う風雨のカーテンが、世界の終わりを告げるかのように激しくのたうち回っている。だが、一歩こちら側――禁忌の森の内部は、まるで見えない巨大な硝子の壁に隔てられたかのように、空気そのものが粘り気を伴って凝固していた。
三人の足元に広がる土は、先ほどまでの湿原の泥濘とは異なり、光を一切反射しない漆黒の色をしている。そこから生え出す樹木は、どれもが苦悶に身をよじる人間のような形にねじれ、枝先からは見たこともない色彩の花々が、死を予感させる甘ったるい芳香を放って狂い咲いていた。
「……ここが、森の深部。嵐の目の中に隠された、生きた迷宮なのね」
アルドナが大剣の重みを確かめるように肩を動かした。彼女の右腕を蝕む鱗は、この森に充満する濃密な魔力に共鳴し、肌の下で無数の針を突き立てるような激痛を伴って拍動している。その痛みは、彼女の戦士としての理性を少しずつ削り取り、内側に眠る本能的な防衛心を、じりじりと煽り立てていた。
「気を付けて。カシウスさんの情報通りなら、この森は侵入者の魔力を糧にして、常に構造を書き換え続けている。……つまり、僕たちが進もうと意図すればするほど、ゴールは逃げ水のように遠ざかる可能性があるんだ」
シリュウスは手にした魔導書をめくり、周囲の空間座標を測定しようと試みた。だが、彼の精密な知性を嘲笑うかのように、指先の魔導回路は不安定に明滅を繰り返し、正確な数値を弾き出すことを拒んでいる。
「計算が合わない……。空間の密度が場所によって一定じゃないんだ。さっき通ったはずの、あの捩れた大樹はどこへ行った? 僕たちはただ真っ直ぐに、直線距離を歩いてきたはずなのに」
シリュウスの言葉通り、彼らが数分前に通り過ぎたはずの景色は、いつの間にか紫色の霧の向こうに掻き消え、代わりに見たこともない巨岩が、最初からそこにあったかのような顔をして立ち塞がっていた。
入り江にゴンドラを捨て、退路を自ら爆破してまで足を踏み入れたこの場所。もはや彼らには、頼るべき乗り物も、引き返すべき道も存在しない。一歩ごとに、彼らは「かつての自分たち」を切り捨て、この未知の深淵に同化していくことを強要されていた。
「ねえ、お兄ちゃん。……あの花、お母様が庭に植えていた花に似ている気がするの」
フィオラが、道端に咲く白い花を指差した。だが、その花弁は不自然なほど左右に震え、よく見れば中心部には、虫の複眼のような不気味な模様が蠢いている。
「近づいちゃだめだ、フィオラ! それは君の記憶を餌にして、誘い出そうとしているだけだ。……この森は、僕たちの脳に直接語りかけてくる」
シリュウスが妹の手を強く引き寄せたが、そのシリュウス自身も、自分の声がどこか遠くから聞こえるような感覚に陥っていた。
徒歩での行軍が長引くにつれ、森の悪意はさらに密度を増していった。
「……また同じ場所だわ。これで三度目よ」
アルドナが足を止め、焦燥を隠せない声で吐き捨てた。彼女の視線の先には、さきほど自分が目印として、大剣の刃先で深く刻んだはずの樹皮があった。だが、その傷跡は不気味に脈打ち、まるで生き物の傷口が癒着するように、目の前でゆっくりと盛り上がり、消滅していった。
「道が動いている。あるいは、僕たちの感覚そのものが、この森の一部として再編されているのか。……フィオラ、あの笛の音はどう聞こえる?」
シリュウスの問いに、フィオラは耳を澄ませた。彼女の頬を、冷たいはずの霧が、生き物の吐息のように生暖かく撫でていく。
「……ずっと、同じ距離で鳴っている。私たちがどんなに走っても、止まっても、距離が変わらないの。でも、さっきより少しだけ……母様が、私たちが迷子になった時に吹いてくれた旋律に、似てきた気がする……」
「幻聴よ、フィオラ。惑わされないで」
アルドナは妹を励ますように言ったが、その彼女の瞳には、かつてガゼル村で父ガゼルが振るっていた、誇り高き大剣の幻影が重なっていた。父は厳格な騎士であり、娘であるアルドナに「誰よりも強く、誰よりも優しくあれ」と教えてくれた。
(今の私は、どう? 父様。……優しさなんて、どこかに置き忘れてきた。右腕は化け物のようになり、ただ生き延びるために、目の前のものを切り裂くことしかできない。私はもう、父様の名を継ぐ資格さえないのかもしれない……)
内側から湧き上がる激しい自己嫌悪が、彼女の歩みを鉛のように重くする。森が放つ毒々しい色彩は、彼女が隠し持っていた心の傷口を、容赦なく抉り出そうとしていた。
シリュウスもまた、自分の知性が通用しないこの不条理な空間に、底知れぬ無力感を感じていた。
(すべての事象には理由があるはずだ。この空間の歪みも、魔力の流転も、緻密な数式で解明できる物理現象のはずなのに。……なぜ、僕の魔導書は沈黙している? 僕が積み上げてきた合理性は、この森の気まぐれな悪意の前では、ただの子供の積み木遊びに過ぎないのか?)
彼は、かつてガゼル村の書庫で父と共に過ごした、平和な時間を不意に思い出した。父は「学問は人を助けるための光だ」と教えてくれた。だが、今の自分の知識は、追っ手を焼き払い、姉を恐怖させるための闇としてしか機能していない。その矛盾が、彼の魔導回路を内側から焼き切ろうとし、彼の瞳から「信じるべき正解」を奪い去っていく。
「お姉ちゃん、お兄ちゃん……。見て、足元が……」
フィオラの震える声に、二人が反射的に視線を落とした。
いつの間にか、彼らが踏みしめているのは確かな土ではなく、半透明の薄い膜のような、巨大な胎盤を思わせる質感に変わっていた。その下には、どこまでも続く深い深い闇が広がっており、そこから無数の「指」のような形をした白い根が、彼らの影を絡め取ろうと緩慢に蠢いている。
「走るんだ! ここに立ち止まってはいけない、意識を持っていかれる!」
シリュウスが叫び、フィオラの細い腕を掴んだ。アルドナも大剣を抜刀し、行く手を遮るように絡みついてくる毒々しい蔦を、力任せに切り裂きながら突き進む。
だが、走れば走るほど、森の奥行きは無限に引き伸ばされていくようだった。
上空を見上げれば、天を覆う樹冠の間から、猛る嵐の月が放つ不気味な紫色の光が漏れ出し、三人の影を歪な、化物のような形に引き伸ばしている。その影さえもが、本体である自分たちから独立して、別の方向へ逃げ出そうとしているように見えた。
「はぁ、はぁ……。どこまで、続いているの、これ……」
フィオラの呼吸が、目に見えて荒くなる。彼女の喉は、森が放つ、肺を焼くような瘴気によって爛れ、声を出すことさえ激痛を伴うようになり始めていた。語り部としての彼女の力が、この物語の構造そのものを拒絶する森の中で、急速に摩耗していくのを感じていた。
「止まるな! フィオラ、僕が背負う!」
シリュウスが妹を抱え上げようとした、その時だった。
森の深部から、それまでの不気味な静寂を暴力的に引き裂くような、凄まじい轟音が鳴り響いた。それは雷鳴でもなく、獣の咆哮でもない。空間という名の布が、巨大な力で一気に引き裂かれるような、この世の終わりの旋律。
同時に、周囲を漂っていた紫色の霧が、意志を持つ獣のように急速に密度を増し、三人の視界を、そして互いの気配さえも完全に奪い去った。
「シリュウス! フィオラ! 手を離さないで! 絶対に、繋いでいて!」
アルドナの絶叫も、濃密な霧の中に飲み込まれ、誰の耳にも届かない。
物理法則が崩壊した迷宮の中で、三人は今、互いの存在という唯一の紐帯を道標としていた。だが、その紐帯さえも、森の悪意は容赦なく引きちぎろうとしている。
カシウスが警告した精神の迷路の真の恐怖――「他者の喪失」が、いよいよ牙を剥こうとしていた。
狂い咲く花々の、甘く、吐き気を催すほどの香りに包まれながら、三人は自分たちの記憶が、絆が、そして「自分という独立した個」が、底なしの深い霧の彼方へ溶けていく絶望に直面していた。
「離さないって……約束したのに……」
フィオラの、祈りにも似た掠れた声が、誰の手にも届かぬまま霧の中に消えた。
猛る嵐の月は、その残酷なまでの紫光で迷宮の奥底を照らし、三兄妹を待ち受ける「分断」という名の祝祭を、静かに祝福するように輝きを増していく。
次回、『第23話 霧に消える背中』
――時間の感覚は、禁忌の森に立ち込める紫の霧の中に、粘り気のある糸となって溶け去っていた。
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