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黄昏の語り部フィオラ ―聖教会が恐れた禁忌の記録、語り部が紡ぐ真実の逆転劇―  作者: 弌黑流人
第二章 深緑の双子月

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第20話 過去の赦し

 ザ・ラードの運河を血と光で染め上げた狂瀾の夜が、遠い幻覚のように感じられた。

 湿原地帯の入り江。立ち込める濃霧を切り裂いて進んでいたゴンドラの魔導エンジンが、断末魔のような火花を散らして沈黙した。限界まで酷使された魔力回路が焼き切れ、独特の焦げた匂いが鼻を突く。


 「……ここまで来れば、追っ手も容易には近づけないはずだ。姉さん、舟を寄せよう」


 シリュウスの声に、アルドナは無言で頷き、操舵桿を離した。岸辺に乗り上げた衝撃で、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れる。


 「くっ……あああああッ!」


 アルドナは崩れ落ちるように舟の縁に手をついた。右腕の紋章が、脈打つたびに肉を内側から灼き切るような激痛を放っている。吸い取った呪詛と、無理やり推進力に変えた魔力。それらが彼女の細い腕の中で激しく反発し合っていた。

 肌の下を蠢く黒い紋様は、今や鎖骨を越えて首筋にまで届こうとしている。それは単なる痣ではなく、硬質な鱗の質感を伴い、彼女の人間としての輪郭を侵食していた。


 「お姉ちゃん! 無理をしないで!」


 フィオラが駆け寄り、その小さな手でアルドナの肩を支える。


 「大丈夫よ、フィオラ……これくらい。火を、起こさなきゃ……。夜露は、あんたたちの体に毒だわ……」


 震える左手で火打石を握ろうとするアルドナ。だが、その手からシリュウスが静かに、しかし拒絶を許さない力強さで石を取り上げた。


 「今は、僕がやる。姉さんは座って、その腕を冷やすことに専念して」

 「でも、シリュウス、あんたの魔力だって底を突いてるはず……」

 「魔法は使わない。ただの火熾しだ。これくらいの役割分担は、もう許してくれるだろう?」


 シリュウスは手慣れた手つきで枯れ枝を集め、火を熾し始めた。アルドナは呆然としたまま、弟の背中を見つめていた。守られるだけだったはずの幼い弟が、いつの間にか、自分に休息を命じるほどに成長していた。

 やがて、小さな焚き火が湿原の闇を淡く照らし出した。

 パチパチと爆ぜる火を囲み、三人は身を寄せる。シリュウスが泥にまみれたアルドナの剣を拭い、フィオラが持てる限りの薬草でアルドナの腕を湿布する。

 その静寂の中、フィオラの瞳はどこか遠く、深い闇の先を見つめていた。


 「……ねえ、お兄ちゃん。さっきの地下で、あの人たちの声と一緒に、何度も何度も聞こえてきた言葉があるの。……空の遺跡。教会の人たちは、そこへ行こうとしている」


 シリュウスが手を止め、眉をひそめる。


 「空の遺跡……。確かに、あそこの装置は天に魔力を送っているようだった。フィオラ、何か心当たりがあるのか?」

 「その言葉を聞いた時、ずっと忘れていた古いお話を思い出したの。レオファングに伝わる、もう誰も語らなくなった伝承……」


 フィオラの声は、湿原の霧に溶け込むように澄んでいた。彼女は祈るように手を組み、静かに語り始めた。


 「遠い昔、空には二つの月だけじゃなく、もう一つの動かない星があったんだって。それはとても大きくて、夜になると地上に優しい光を投げかける、逆さまのゆりかごと呼ばれていたの……。そのゆりかごには、神様たちが忘れていった純粋な力が眠っていて、地上の人々が悲しみを忘れると星の屑を降らせて大地を癒やした。けれど、人々がその光を独り占めしようと天に届く高い塔を建てたから、神様はゆりかごを雲の向こうへ隠してしまった。ゆりかごが消えた空の隙間からは、冷たく激しい嵐が吹き下ろすようになった……。でも、いつか、心からの祈りが届けば、ゆりかごはまた目を覚ます。そう言われているわ」


 逆さまのゆりかご。空の遺跡。

 その言葉が、アルドナの意識の底で不思議な響きを持って繰り返される。もしその伝説が真実なら、教会の実験はかつての高い塔を再び建てようとする試みなのか。そして今の自分を苛むこの呪いさえ、いつかは星の屑に洗われて消えるのだろうか。

 アルドナの意識が、温かな火と妹の声に包まれ、まどろみへと沈みかけた、その時だった。


 「――相変わらず、いい声だな。フィオラの歌声は、戦場でもよく響く」


 霧の向こうから、聞き間違えるはずのない、涼やかな声が届いた。

 アルドナの体が跳ねるように反応する。反射的に剣の柄を握ろうとしたが、現れた男の姿を見た瞬間、彼女の指先は凍りついたように止まった。


 「……カシウス?」

 「よう、アルドナ。派手にやったな。ザ・ラードの跳ね橋を飛ぶ竜なんて、お前以外に誰ができる?」


 そこに立っていたのは、細身の体躯に魔導を付与したレイピアを佩き、不敵な笑みを浮かべた男、カシウス・クレイモアだった。


 「カシウスさん!」


 フィオラが声を上げる。シリュウスも警戒を解き、安どのため息を漏らした。カシウスは、三兄妹がレオファングを追われてから今日まで、付かず離れずの距離で見守り、時に決定的な情報を流してくれる唯一の協力者であり、そして、アルドナがかつてすべてを捧げた恋人でもあった。


 「来ないで!」


 アルドナが鋭い声を上げた。彼女は咄嗟に、異形の鱗が浮き出た右腕をマントの影に隠した。

 カシウスは足を止めた。彼の瞳には、かつてアルドナと背中を預け合っていた頃と同じ、深い信頼と愛惜が宿っている。


 「まだ隠すのか。その右腕が、どれほどお前を蝕んでいるか……俺が知らないとでも思っているのか?」

 「あんたには関係ないわ。私は……私はもう、あんたが知っているアルドナじゃない。この腕を見て、人間だと言える? 触れれば、あんたにまで毒が回るかもしれないのよ!」


 アルドナの声が震える。愛する男に、この異形を抱かせたくない。戦士としての誇りではなく、一人の女性としての、あまりに脆い矜持。

 かつて中立都市アライアで、共に依頼をこなし、笑い合っていた日々。彼の軽やかなレイピアが、自分の重厚な大剣を支えてくれたあの時間は、もう永遠に失われたのだと彼女は自分に言い聞かせてきた。


 「シリュウス, フィオラ。少し向こうで休んでいてくれ」


 カシウスの言葉に、二人は静かに頷き、火の届かない影へと移動した。二人きりになった焚き火の前で、カシウスはゆっくりと腰を下ろした。


 「アルドナ、お前は自分を竜殺しの業を背負った怪物だと思っているようだが、俺にはそうは見えない」

 「……何が見えるっていうのよ」

 「ただの、強がりで泣き虫な、俺の相棒だ。その腕の鱗は、お前が誰かを守り抜くために戦った勲章にしか見えないよ。自分を異形だと蔑むのは、お前を愛し、その命を尊いと思っている者たちへの、最大の裏切りだと思わないか?」


 カシウスの言葉が, アルドナの胸の奥に, 澱のように溜まっていた自己嫌悪を突き動かす。


 「……怖いだけなのよ。いつか、私の意識が竜に飲み込まれて、あんたたちを傷つける日が来るのが。私を、赦さないで。こんな力を持ってしまった私を……」

 「赦すも何も、お前は何も間違っちゃいない。運命がお前に牙を剥いたなら、それを噛みちぎるのがレオファングだろう?」


 カシウスはアルドナの手を取り、マントの下に隠された、異形の右腕にそっと触れた。


 「熱いな。……苦しかっただろう。もういいんだ, アルドナ。お前が背負っているのは業じゃない。それは、これから先、絶望の嵐を越えていくための翼だ」


 カシウスの手の温もりが、紋章の痛みを不思議と和らげていった。アルドナの瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。それは、戦士の涙ではなく、ずっと赦しを求めていた一人の娘の涙だった。

 カシウスは彼女を無理に抱きしめることはしなかった。ただ、その異形の手を力強く、壊れ物を扱うのではなく、対等な戦友として握りしめ続けた。

 しばしの沈黙の後、カシウスは表情を引き締め、懐から一枚の古びた羊皮紙を取り出した。


 「……情緒的な話はここまでだ。アルドナ、お前たちが追っている教会の実験、そしてフィオラの言ったゆりかご……つまり、空の遺跡。その核心に繋がる情報を俺は持っている」


 シリュウスとフィオラも、その言葉を聞きつけて戻ってくる。


 「教会の狙いは、単なる魔力の抽出じゃない。彼らは空に眠る古代の遺構を再起動させ、世界の理を書き換えようとしている。そのための鍵が、禁忌の森にあるという噂だ。だが、そこは教会の息がかかった者でも容易には近づけない、生きた呪いの森だ」

 「禁忌の森……」


 アルドナがその名を呟く。


 「ああ。そして、レオファング領を滅ぼしたあの日の業火……あれは教会の実験の副産物だった可能性がある。奴らはあの日から、何も変わっちゃいない。むしろ、実験は最終段階に入ろうとしている。アライアのギルドでも、この動きを察知して動いている連中がいるが、教会の息がかかった上層部がそれを握りつぶしている状態だ」


 カシウスの情報に、シリュウスが鋭い考察を加える。


 「つまり、教会の目的を止めない限り、僕たちの旅に終わりはないということか。復讐ではなく、生存のために……世界そのものの歪みを正さなければならない。逆さまのゆりかごが目覚める前に」


 夜明けが近づいていた。湿原を覆っていた深い霧が、微かな光に溶けていく。

 カシウスは立ち上がり、アルドナに背を向けた。


 「俺はアライアに戻り, ギルドの内側から奴らの動きを攪乱する。深入りはするなと言いたいが, お前たちは止まらないんだろうな」

 「ええ。止まれば、死ぬより辛い後悔が残るわ。……ありがとう、カシウス。あんたのおかげで、少しだけ自分のことが嫌いじゃなくなった」


 アルドナの瞳には、先ほどまでの迷いはなかった。カシウスとの対話を経て、彼女は己の業を受け入れ、前へ進む意志を再編していた。


 「……じゃあな、アルドナ。次はもっと、マシな場所で会おうぜ。酒の一杯でも奢らせろ。その時は、その腕の鱗自慢でも聞かせてもらうからな」


 カシウスは軽く手を振り、霧の向こうへと消えていった。

 彼が去った直後だった。

 湿原の境界、さらにその奥にある古の森の方角から、風に乗って奇妙な音が響いてきた。

 ――ピー、ヒョロロ……。

 それは、教会の軍靴の音でも、魔導エンジンの駆動音でもない。もっと古風で、どこか不気味な、旋律を持たない笛の音だった。


 「……誰? 教会じゃない。もっと……もっと暗く悪意に満ちた何かが、笑ってる」


 フィオラが耳を塞ぐようにして、北の空を見上げた。

 そこには、昨夜まで街を照らしていた深緑の双子月を飲み込むようにして、渦巻くような巨大な暗雲が立ち上っていた。湿原の静寂が、不自然なほどの圧迫感に塗り替えられていく。


 「嵐が来るわね」


 アルドナが呟く。

 空を裂く落雷の予兆が、三人の行く手を赤白く照らす。

 物語は、ザ・ラードの湿地を越え、さらに過酷な運命が待ち受ける、猛る嵐の月へと足を踏み入れようとしていた。


 次回、『第21話 禁忌の森の境界』


 ――湿原の夜明けは、希望を運ぶ光ではなく、重苦しい鉛色の帳を連れてきた。


 ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!


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