第2話 芽吹きの陽光月・朝霧の乳白
アイゼン村を後にした三兄妹を待っていたのは、すべてを白く塗り潰すような深い霧だった。
この季節、標高の高い岩山に降る雨は、夜を越えると濃密な朝霧へと姿を変える。一寸先さえも定かではない視界の中、足元のぬかるんだ土を踏みしめる音だけが、自分たちがまだ道の上にいることを教えてくれていた。
先頭を行くアルドナの背中が、時折、乳白色の帳の向こう側へと溶けて消えそうになる。その度に、最後尾を歩くフィオラは不安げに、すぐ前を歩くシリュウスの外套の裾を掴んだ。
「……シリュウスお兄ちゃん、少し、歩くのが早いよ」
フィオラの小さな声に、シリュウスはハッとしたように足を止めた。
振り返った彼の眼鏡は、霧の水分を吸って白く曇っている。彼はそれを外そうともせず、ただ遠く、自分たちが捨ててきた村の方角を見つめていた。
「……すまない、フィオラ。少し、考え事をしていた」
シリュウスの声は、いつになく硬い。
彼は無意識のうちに、懐に手を忍ばせていた。そこには、旅立つ直前に恋人――エリン・アイゼンから手渡された、熱伝導率を調整するための「予備の銀板」がある。
それは魔導書の部品に過ぎないはずだが、シリュウスにとっては、彼女の指先の熱、工房に漂っていた鉄と油の匂い、そして別れ際に交わした、言葉にならない約束のすべてが封じ込められた依代だった。
「考え事……エリンさんのこと、でしょう?」
フィオラが隣に並び、琥珀色の瞳で兄の顔を覗き込んだ。
彼女の瞳には、シリュウスの胸の内に渦巻く、張り裂けそうな思慕の情が「色」として見えていた。それは、深い群青色の中に、夕焼けのような切ない朱色が混じった、複雑な輝きを放っている。
「……隠し事はできないな。君の瞳には」
シリュウスは苦笑し、ようやく眼鏡を外して裾で拭った。
彼は、エリンとの最後の一時を思い出していた。工房の火影の中で、彼女は強がって笑っていた。けれど、シリュウスがその手を握った時、彼女の指先は微かに震えていたのだ。
『あんたが死んで帰ってきたら、墓を掘り起こしてでも説教してやる』
あんなに乱暴な言葉でしか、彼女は愛を伝えられなかった。そして自分もまた、ただ「必ず帰る」としか返せなかった。
愛し合う者同士が、運命という濁流に引き裂かれながら、互いの無事を祈る。その痛みは、シリュウスの冷静な計算能力を鈍らせるほどに重かった。
「エリンさんの匂い、まだお兄ちゃんからしてるよ。……すごく、寂しそうで、でも、信じてる匂い」
「……そうか。彼女は、僕がこの予備のパーツを組み込むたびに、僕の無事を確認するんだろう。……残酷な愛の形だよ。僕が戦い、傷つくたびに、彼女の打った鉄が僕を救うことになるんだから」
シリュウスは魔導書をそっと撫でた。
彼ら二人は恋人であり、同時に、戦士と職人という「共犯者」でもあった。シリュウスが結界を張り、一族の秘密を守ることは、回り回ってエリンの住む平穏な村を守ることに繋がる。だが、そのために彼女の元を離れなければならないという矛盾が、彼の心を苛んでいた。
「……あんたたち、そこで立ち話をするために村を出たわけじゃないでしょう」
霧の先から、アルドナの低く冷ややかな声が届いた。
彼女は岩場に腰掛け、大剣「裂界の牙」を膝に横たえていた。彼女の右腕の包帯は、霧の湿気を吸って重く垂れ下がっている。
「シリュウス、あんたは恋人を残してきた。その痛みはわかる。けれど、その感傷が判断を狂わせれば、あんたは二度と彼女の元へは帰れない。……愛しているなら、己に厳しくありなさい。結界師としてのあんたの瞳は、未来の平和ではなく、今この瞬間の敵を射抜くためのものよ」
「……手厳しいな、姉さん。けれど、その通りだ」
シリュウスは深く息を吐き出し、感傷を心の奥底、エリンのためだけに用意した秘密の部屋へと押し込めた。
彼は再び歩き出す。今度は、フィオラの歩幅に合わせた、穏やかで確実な足取りで。
数時間の行軍の末、三人はようやく、霧がわずかに晴れ始めた断崖の麓へと辿り着いた。
そこには、今回の旅の「最初の依頼」を受けるための待ち合わせ場所――岩肌に掘られた小さな休憩所があった。
建物の前では、一人の老人が、今にも消え入りそうな焚き火の前にうずくまっていた。
彼こそが今回の依頼主、トーマスだ。この近くにある「地底回廊」の入り口付近で魔石採掘を生業としていた男だが、一週間前、彼の一人息子を不慮の事故……あるいは、魔物の襲撃で失っていた。
「……どなたかな。ギルドの方か……?」
トーマスが、濁った瞳を上げて三人を仰ぎ見た。
アルドナの威圧的な大剣、シリュウスの気品ある佇まい、そして、フィオラのどこか浮世離れした琥珀色の瞳。
老人は、彼らがただの冒険者ではないことを本能的に悟ったのか、あるいは藁にもすがる思いだったのか、震える手で焚き火を指差した。
「アンバー一行です」
シリュウスが、一歩前に出て名乗った。
レオファングという、世界を揺るがす姓を伏せ、ありふれた石の名前を名乗る。それは、エリンの愛するこの世界に溶け込むための、彼らなりの儀式でもあった。
「あなたの息子さん……カイルさんの件で、参りました」
その名前が出た瞬間、トーマスの顔が激しく歪んだ。
「……カイルは、何も言わずに逝ってしまった。地底の奥で、崩落に巻き込まれて……。遺体も見つからん。あいつは、私に何を言いたかったのか。不出来な父親だった私を、恨んで死んだんじゃないか。……そればかりが、頭から離れんのです」
老人の嘆きは、冷たい霧よりも深く、三人の心に染み入った。
シリュウスは、そっとフィオラの背中に手を置いた。
フィオラは、老人の背後に視線を向けた。
そこには、生者には見えない「滞留」があった。
半透明の、煤けた作業着を着た若者の影。彼は、父の肩に手を置こうとしては、その手が空しく透けて抜けていくのを、何度も繰り返している。
その若者の魂は、叫んでいた。
呪いや怨念ではない。ただ、伝えられなかった「ありがとう」という言葉が、あまりに重すぎて、この世に留まっているのだ。
「……トーマスさん。カイルさんは、そこにいます」
フィオラの静かな声が、休憩所の中に響いた。
老人が、弾かれたように顔を上げる。
「何だと……? お嬢さん、おかしなことを言わないでくれ。息子はもう……」
「いいえ。彼は、あなたのすぐ後ろで、ずっと謝っています。……お父さんの誕生日に贈るはずだった、最高級の原石を、まだ渡せていないって。それを、入り口から三つ目の通路の、青い岩の陰に隠してあるそうです」
フィオラは、杖を握る手に力を込めた。
彼女の脳裏に、カイルの最期の光景が流れ込んでくる。暗闇、轟音、そして、父の顔。
彼は恨んでなどいなかった。ただ、父の喜ぶ顔が見たかった。その一心で、危険な場所まで潜ったのだ。
「……あ、青い岩の、陰……?」
トーマスの瞳に、希望とも絶望ともつかぬ光が宿った。
「シリュウス、アルドナ。……行きましょう。カイルさんの言葉を、ちゃんとした『形』にして、このお父さんに届けるために」
フィオラは、初めて自分から一歩を踏み出した。
これまで守られるだけだった彼女が、誰かの「赦し」のために、自らの呪われた力を振るう決意をした瞬間だった。
シリュウスは、妹の成長に驚きながらも、頼もしそうに頷いた。
「わかった。地底回廊の内部は魔力の乱れが激しい。僕が結界で君たちの精神を守る」
アルドナは大剣を引き抜き、肩に担いだ。
「……邪魔な亡者や魔物は、私がすべて斬るわ。フィオラ、あんたは『言葉』だけに集中しなさい」
三人は、老人の嗚咽を背に受けながら、乳白色の霧が立ち込める「地底回廊」の巨大な入り口へと向かった。
そこは、光の一切届かない、闇と沈黙の国。
けれど、今のフィオラには、その闇の向こう側で待っている数多の声が見えていた。
エリンとの別れを胸に秘めたシリュウス。
竜の業に抗い続けるアルドナ。
そして、死者の声を紡ぐフィオラ。
『交流と赦し』を求める三人の、最初の本格的な任務が、今、深い闇の中で産声を上げようとしていた。
朝霧が、ゆっくりと晴れていく。
だが、その先に待つのは、眩い太陽ではなく、命の温もりを拒む地底の闇だった。
「……さあ、行きましょう。カイルさんの心が、冷え切ってしまう前に」
フィオラの琥珀色の瞳が、闇の中で静かに、けれど強く輝いた。
次回、『第3話 芽吹きの陽光月・早天の薄紅』
――地底回廊の入り口は、巨大な怪物がその顎を開いているかのように、三兄妹を暗澹〈あんたん〉たる闇で迎え入れた。
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