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黄昏の語り部フィオラ ―聖教会が恐れた禁忌の記録、語り部が紡ぐ真実の逆転劇―  作者: 弌黑流人
第二章 深緑の双子月

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第18話 三位一体

 地下水道の最奥、あの悍ましい異形を鎮魂し、沈殿区の腐った空気の中を宿へと戻る道すがら、アルドナの足取りは傍目には力強く、毅然としたものに見えた。だが、彼女の右腕は包帯の下で焼けるような熱を帯び、脈打つたびに鋭い痛みが脊髄を駆け上がっていた。


 「……っ、これくらい……なんてことない」


 アルドナは暗い路地裏で一度だけ足を止め、壁に手をついて荒い息を吐いた。大剣『裂界の牙』で教会の触媒を粉砕した際、解放された犠牲者たちの凄まじい執着と、澱んだ負の魔力が彼女の紋章に逆流したのだ。

 それは「竜殺し」の業を背負うレオファングの宿命。他者の救済と引き換えに、その痛みを自分の肉体に刻みつける過酷な代償だった。視界が時折、赤く染まる。激痛の合間に、先ほど屠った魔物の断片的な記憶が脳裏をよぎる。見知らぬ誰かの後悔、絶望、そして冷たい水の感触。

 意識が遠のきそうになるたび、彼女は失われた故郷――レオファング領の、穏やかな風が吹く高台の記憶を呼び起こした。

 まだ十歳だった彼女の腕の中で、生まれたばかりのフィオラが柔らかい産声を上げ、その傍らで幼いシリュウスが「僕が守るんだ」と言わんばかりに、小さな手で妹の指を握っていた光景。父母の慈しみ深い眼差しに包まれ、世界がまだ「敵」ではなかった頃の、レオファングの誇りに満ちた日々の欠片。

 その温もりを、その小さな命たちを、二度とあんな地獄のような光景(滅び)の中に放り出すわけにはいかない。この右腕がどれほど灼かれようとも、あの日の光を守り抜くこと。それが、あの日両親を失い、生き残った長女としての、彼女の唯一にして絶対の矜持だった。

 宿の扉を開けると、ランプの柔らかな明かりの中に、既に意識をはっきりとさせ、魔導書を傍らに置いて椅子に腰掛けていたシリュウスと、彼を献身的に支えるフィオラの姿があった。


 「……遅かったじゃないか、姉さん」


 シリュウスの声は冷ややかだったが、その瞳の奥には隠しきれない安堵の色が浮かんでいた。秘薬の効果は劇的だったようで、彼の顔からは死の影が消え、いつもの理知的な光が戻っている。


 「悪かったわね。ちょっと掃除に手間取っただけよ。……あんた、顔色は悪くないみたいね。やっぱり、あたしの直感通り、あの女の薬は本物だったってわけだわ」


 アルドナは努めて明るい声を出し、懐から「触媒の欠片」――どろりとした闇を封じ込めたような黒い結晶を卓上に置いた。その瞬間、フィオラが吸い寄せられるようにその欠片に手を伸ばした。


 「お姉ちゃん……これ、すごく悲しい音がする。真っ黒で、冷たくて、誰かが泣いてるみたい……」


 フィオラがその欠片に触れた瞬間、彼女の瞳が黄金色に輝き、意識が「冥顕」の深淵へと潜っていく。語り部としての力が、物質に刻まれた記憶を強制的に引き出した。

 フィオラの視界に映ったのは、ザ・ラードの地下に隠された教会の禁忌の光景だった。

 白装束の司祭たちが聖歌を口ずさむ中、生きたまま巨大な魔導装置の部品として組み込まれていく貧民たち。彼らは「聖なる水」を精製するための触媒として、その生命力だけでなく、神への純粋な「祈り」という名の精神エネルギーまでも根こそぎ吸い取られていた。


 「……空の……遺跡……。教会は、地下の水を清めているんじゃなかった。地下水脈を導管にして、街全体の人間から『祈り』を吸い上げようとしていたんだ。装置に繋がれた人たちは、空っぽの殻になって、最後にはあの泥のような魔物に変えられて……。教会の人たちは、最初から助けるつもりなんてなかったんだよ。全部、実験のための『餌』だったんだ……」


 フィオラの口から溢れ出したのは、教会のあまりにも清潔で、かつ冷酷な狂気の全貌だった。ザ・ラードという自由な街さえも、彼らにとっては巨大な「魔力抽出装置」の一部に過ぎなかったのだ。


 「……そう、やっぱりね。教会がタダで水を配るなんて、おかしいと思ったわ」


 アルドナは椅子に深く腰掛け、軽く笑い飛ばそうとした。だが、その声は微かに震え、彼女の額からは異常な量の脂汗が流れていた。呼吸も浅く、椅子に預けた右腕は服の上からでも判るほど小刻みに震えている。


 「姉さん、右腕を見せろ」


 シリュウスの鋭い声が、部屋の空気を凍らせた。


 「……何言ってるのよ。ただの筋肉痛よ。あんなデカブツを相手にしたんだから、当然でしょうが」

 「嘘を吐くな。姉さんの届けさせた秘薬を飲んで、ただ大人しく寝ていたとでも思っているのか? 姉さんが地下で戦っている間、僕はフィオラの感度を借りて、ずっと魔力波形を観察していたんだ。……その腕にどれだけの『毒』を溜め込み、無理やり封じ込めているか、僕にはすべて分かっている。姉さんの魔力回路は今、破綻寸前だ。竜の紋章が負のエネルギーを処理しきれず、自分自身の生命力を侵食している」


 シリュウスは立ち上がり、ふらつく足取りながらもアルドナの前に立った。


 「……お姉ちゃん、右腕が、泣いてるよ。すごく、苦しそうな音がする。真っ黒な泥が、お姉ちゃんを飲み込もうとしてる」


 フィオラもまた、悲痛な表情でアルドナの腕に手を添えた。二人の真っ直ぐな眼差しに、アルドナはついに折れた。


 「……あのアホ商人の女が言ってたわ。『呪われた一族の力が必要だ』って。……どうやら、あの魔物の怨念ごと、私の紋章が食っちまったみたいね。レオファングの血ってのは、つくづく嫌な体質だわ。他人の毒を吸い上げる、瀉血〈しゃけつ〉用の吸い出し器みたいなもんね」


 アルドナが包帯を解くと、そこには赤黒く腫れ上がり、不気味に脈打つ竜の紋章があった。周囲の肌はどす黒く変色し、触れずとも判るほどの異様な熱を放っている。


 「姉さんはいつもそうだ。全部一人で背負って、ボロボロになってから『大丈夫だ』と言う。……長女なら何をしても許されると思っているのかい? 僕が死ぬより、姉さんに倒れられる方が、僕にとっては屈辱なんだ。……動かないで。今、構造を書き換える」


 シリュウスが魔導書を掲げると、部屋の中に無数の「青い数式の連なり」が溢れ出した。光の鎖のような数式は壁や床を這い回り、部屋全体を一つの巨大な計算機へと変えていく。彼はアルドナの腕にある毒を単に浄化するのではなく、その魔力の構造を論理的に解体し、無害な残滓へと散らすという、極めて高度で精密な処置を開始した。


 「……うるさいわね。あんたを助けるためだったんだから、文句言わないでよ」

 「ああ、文句も言うし小言も一生言い続けるよ。だから、これからは僕が指示を出す。姉さんは……僕たちの『剣』であり続けてくれればいい。一人で死神と踊る必要はないんだ」


 シリュウスの術式がアルドナの激痛を和らげ始めたその時、フィオラの「語り部」としての直感が異変を捉えた。


 「……待って。……さっきまで聞こえていた運河の音が、消えた。街が、不自然に黙り込んでる……。酔っ払いの笑い声も、荷車の音も、何にも聞こえない」


 フィオラが窓の外を指差す。そこには、深い霧に紛れて宿を取り囲む、無数の武装した影があった。金属の擦れる音さえさせず、死神のように音もなく移動する集団。それは、教会の暗殺執行官インクイジターたちだった。


 「……セーラのやつ、最初からこれが狙いだったのね。私に魔物を片付けさせ、弱ったところを教会に突き出す。最高の二重取りじゃない。商人というより、ただのハイエナね」


 アルドナが痛む右腕を強引に動かし、大剣の柄を握る。


 「教会の失態を知る僕たちを生かしておくより、教会に差し出して、ザ・ラードへの干渉を緩めてもらう……。商人らしい、実に合理的で汚いディールだ。だが、計算が甘いな。……姉さん、戦えるかい?」


 シリュウスが魔導書を宙に浮かせ、幾何学的な防御陣を幾重にも展開する。


 「……当たり前でしょ。あんたに説教されたおかげで、最高に気分が悪くて、最高に力が漲ってきたわ」

 「フィオラ、君は僕の背中に。敵の心音と筋肉の収縮を、僕の脳に直接叩き込んでくれ。雑音は僕がフィルタリングする。三人の感覚を同期させ、ひとつの意思として動くんだ」

 「うん、お兄ちゃん……やってみる!」


 宿の扉が爆砕された。

 突入してきた重装歩兵の影に対し、アルドナは一切のためらいなく大剣を振り抜いた。


 「『裂界の牙』――咆えなさい!」


 シリュウスの演算が敵の防具の最も脆い「点」を割り出し、アルドナの脳内に座標として転送する。フィオラの力が敵の恐怖心を増幅させ、その動きを一瞬だけ硬直させる。

 三人の呼吸が、初めて完璧に重なった。

 アルドナの剣は、もはや単なる暴力ではなかった。それはシリュウスの知恵を宿し、フィオラの祈りを纏った、運命を切り拓くための「希望」そのものだった。


 「行くわよ、あんたたち! レオファングの物語は、こんなドブ川の街で終わったりしないんだから!」


 夜の霧を切り裂き、三兄妹の反撃の咆哮が、ザ・ラードの街に響き渡った。


 次回、『第19話 三位一体の脱出劇』


 ――宿の扉が爆砕された衝撃波を、アルドナは正面から受け流した。

 「シリュウス、フィオラ! 私の背中に張り付いてなさい!」


 ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!


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