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黄昏の語り部フィオラ ―聖教会が恐れた禁忌の記録、語り部が紡ぐ真実の逆転劇―  作者: 弌黑流人
第二章 深緑の双子月

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第17話 取引の代償

 ザ・ラードの夜が最も深まる刻〈とき〉、運河を覆う霧は一段と濃くなり、提灯の橙色の光さえも、湿った白に飲み込まれていた。

 アルドナは、静かに寝息を立てる弟のシリュウスと、その傍らで丸くなって眠る妹のフィオラを、慈しむような、それでいてどこか決別を告げるような複雑な眼差しで見つめた。彼女は音もなく腰の小刀の感触を確かめ、背負った「裂界の牙」の重みを肩で受け止める。これから向かうのは、先刻の商人の女・セーラとの約束の場所。シリュウスの脳を焼く魔力汚染を鎮めるための秘薬と、聖教圏の追っ手を完全に振り切るための本物の通行証――その代価を支払うための戦場だ。


 「……シリュウス、フィオラを頼んだわよ。すぐ戻るから」


 届かぬと分かっていながらも、アルドナは弟の枕元で小さく、祈るように呟いた。彼女は夜の闇へと溶け込むように、窓から音もなく跳ね、運河の闇へと消えていった。

 指定された場所は、街の最下層、運河の底に張り付くように作られた「沈殿区スラム」のさらに地下にある、古い貯水槽跡だった。かつてザ・ラードが建設された時代の遺構であり、今は街の利権を握る者たちが、表沙汰にできない交渉や「死体の処理」を行う墓場として機能している。

 腐った水の匂いと、逃げ惑うネズミたちの足音が響く不気味な回廊。アルドナが錆びついた重い鉄扉を押し開けると、冷たく湿った空気が、まるで見えない獣の吐息のように頬を撫でた。

 奥には数個のカンドゥラ(魔石灯)が置かれ、その冷徹な青白い光の中に、セーラが数人の私兵を従えて待っていた。


 「約束通り、一人で来たようですね。……レオファングの長女。その勇気に敬意を表します」


 セーラは優雅に微笑むが、その背後に控える私兵たちの手は、一様に剣の柄やボウガンの引き金にかかっている。アルドナは鼻で笑い、挑発するように一歩前へ出た。彼女の周囲には、すでに戦士としての剥き出しの殺気が渦巻いていた。


 「御託はいいから、取引の内容を言いなさい。私の弟は、今この瞬間も苦しんでいるのよ。……あんたたちのくだらない余興に付き合っている暇はないの。条件を呑むか、ここであんたたち全員を斬り捨てるか。二つに一つよ」

 「話が早くて助かります。……では、単刀直入に。この貯水槽のさらに奥、地下水道の合流地点に、一匹の『魔物』が住み着いています。……いいえ、正しくは教会の実験によって生み出された『失敗作』と言うべきでしょうか」


 セーラの話は、聞くに堪えないものだった。数ヶ月前、教会の極秘部隊が「聖水の精製」を効率化し、信徒に分け与えるための大規模な魔導実験をこの街の地下水脈で行った。だが実験は失敗し、禁忌の触媒が地下に漏れ出した。その結果、水脈に宿っていた無垢な精霊や、清掃員として地下にいた貧民たちが触媒に飲み込まれ、悍ましい肉の塊へと変質してしまったのだ。

 それは今や、セーラたちの運河貿易の動脈を食い荒らす、制御不能な異形となっていた。


 「教会の騎士団では手に負えず、かといって公にすれば、自分たちの失態が露見する。……だから教会は、この汚泥を街の『闇』に押し付けたのです。そこで、聖教圏の理屈が通用しない、規格外の力を持つ貴女が必要なのです。……あの魔物を屠り、核となっている触媒を回収してください」


 アルドナは右腕を走る、脈打つような熱を感じた。竜の紋章が、地下に漂う歪んだ、そして「悲鳴」に満ちた魔力に強く呼応している。


 「……失敗作の始末ね。いいわ、教会の尻拭いは得意分野よ。……ただし、薬は先に渡しなさい。私の言葉が信用できないなら、今すぐこの場で私の首を賭けてもいいわよ」


 アルドナの射抜くような瞳に気圧され、セーラは一瞬躊躇した後、懐から小さな銀の瓶を取り出した。


 「これが、魔力汚染を中和する『月の雫』です。……裏切りは許されませんよ?」

 「私は一度交わした約束は違〈たが〉えない。……それが、レオファングの誇りよ」


 アルドナは瓶を奪い取ると、近くに潜ませていたセーラの使いのものに預け、宿へ届けるよう命じた。彼女は迷うことなく、さらに深い、地獄の底へと続くような、細く長い階段を降りていった。

 ――アルドナが使いに渡した薬『月の雫』をシリュウスに飲ませ、容態が回復の兆しを見せ始めた頃、宿の一室。


 「……う、……あ」


 シリュウスは、喉を焼くような渇きと、脳内を数千本の針で刺されるような激痛と共に目を覚ました。

 視界はまだ霞んでいたが、鼻を突く「太陽のポタージュ」の残り香と、すぐ隣で自分の袖を握りしめたまま眠るフィオラの温もりが、彼を辛うじて現実の岸辺へと繋ぎ止めていた。


 「……フィ、オラ……?」

 「……あ、お兄ちゃん……!?」


 フィオラが弾かれたように顔を上げ、琥珀色の瞳を涙で潤ませる。


 「よかった……お兄ちゃん、気がついたんだね! すごく、すごく心配したんだよ……!」

 「……ああ。……すまない、随分と眠っていたようだね。……姉さんは?」


 シリュウスは体を起こそうとしたが、脳内を走る閃光のような痛みに眉を寄せた。演算能力の限界を超えた酷使による「魔力汚染」。だが、あの黄金色のスープに含まれていた栄養と、セーラの使いが届けた「月の雫」が、彼の脳内にこびりついていたノイズを少しずつ洗い流していた。


 「お姉ちゃんは……私たちを助けるために、お薬をもらいにいったの。商人の人と取引をするって……」


 フィオラの言葉を聞いた瞬間、シリュウスの思考回路が再起動し、異常な速度で状況を組み上げ始めた。

 ザ・ラードの商人。汚れ仕事。アルドナ。


 「……あのアホな姉は……。また一人で、一番しんどくて汚い役割を背負い込んだな……、そうか、薬を……。」


 シリュウスは自嘲気味に笑い、亀裂の入った眼鏡をかけ直した。歪んだ視界の端で、魔力の流れが色彩として見える。


 「フィオラ、僕の魔導書を。……それと、君の力が必要だ。姉さんがどこで、どんな『悪夢』と戦っているのか、僕たちが突き止めなきゃならない」

 「でも、お兄ちゃん、まだ無理しちゃだめだよ!」

 「大丈夫。僕は戦わない……戦うのは姉さんだ。僕はただ、彼女が迷わないための『光』になる。……フィオラ、君にしか聞こえない『声』を、僕の術式に繋いでくれ。僕がそれを、姉さんの脳内へ転送する座標(地図)に変える」


 シリュウスはベッドの上に座したまま、震える手で魔導書を開いた。彼の周囲に、青白い幾何学模様の陣が展開され、フィオラの「語り部」としての高い霊的感度をアンテナにして、街の深淵へと意識を潜らせていく。

 一方、地下水道の最奥。

 アルドナの目の前には、この世のものとは思えない絶望が形を成していた。

 それは、巨大な水の塊に無数の人の手足、そして顔が混ざり合った、透明で悍ましい巨体。核となる教会の触媒から放たれる邪悪な魔力が、犠牲者たちの魂を無理やり繋ぎ合わせ、一つの巨大な「肉の泥」へと変えていた。


 「……アア……熱イ……助ケテ……。神様……ドウシテ……」


 魔物から発せられるのは、獣の咆哮ではない。それは、フィオラの力を介してアルドナの心に直接響いてくる、犠牲者たちの断末魔の残響だった。アルドナは、背負っていた「裂界の牙」を静かに引き抜いた。漆黒の刀身が、青白い魔石の光を吸い込む。


 「……神様なんて、こんな汚い場所にはいないわよ」


 アルドナの目から、戦士としての非情さが消え、代わりに深い悲しみが宿った。


 「あんたたちは、聖なる教えの犠牲になったのね。……祈りの陰で、誰にも知られず、こんな泥にされて。……かわいそうに。今、楽にしてあげるわ」


 アルドナが剣を構えたその時、彼女の脳内に、懐かしい理屈っぽい声が響いた。


 『――姉さん。聞こえるかい? 正面から行っちゃダメだ。その個体の中心にあるのは、触媒が結晶化した擬似心臓……左胸の三番目の肋骨に相当する位置だ。そこを叩かない限り、その人たちの魂は解放されない』


 アルドナは一瞬驚き、けれどすぐに不敵な笑みを浮かべた。


 「……シリュウス? あんたね、病人は寝てなさいって言ったでしょ。お姉ちゃんを心配しすぎよ」

 『寝ていたら、姉さんがこの街ごと地下水道をぶっ壊して、また指名手配されるからね。……フィオラの「声」から導き出した精密な座標だ。……姉さんは、ただ僕の指示通りに、彼らの苦しみを断ち切るだけでいい』

 「ふん、生意気な弟。……いいわよ。あんたの精密なナビゲートに、私の全力を預けてあげる!」


 魔物が咆哮を上げ、数多の手を伸ばしてアルドナを飲み込もうとする。

 アルドナは地を蹴った。シリュウスから送られてくる魔力の等高線が、彼女の網膜に直接「勝利への道筋」を描き出す。フィオラの力を通じて聞こえる犠牲者たちの「お願い、終わらせて」という悲痛な願いが、アルドナの剣に温かくて重い「救い」の意味を付与した。


 「あんたたちの物語は、ここで終わり。……次は、もっと静かなところで眠りなさい!」


 アルドナの右腕の紋章が、かつてないほど鮮やかに黄金色に輝いた。

 彼女は魔物の触手の乱舞を紙一重でかわし、シリュウスが示した「一点」――魔物の核へと、全身の魔力を込めた一撃を突き入れた。


 「裂界の牙」が、教会の偽りの聖なる力を粉砕する。

 激しい閃光と共に、魔物を形作っていた汚泥が浄化の光に包まれ、無数の人の形をした魂の光が、地下水道の天井を突き抜けて天へと昇っていく。


 「……あ、りがとう……」


 最後に聞こえた、一人の女性の穏やかな声を、アルドナは生涯忘れないだろう。

 三兄妹の絆が、教会の生み出した最悪の「失敗」を、最高の「鎮魂」へと変えた瞬間だった。


 次回、『第18話 三位一体』


 ――地下水道の最奥、あの悍ましい異形を鎮魂し、沈殿区の腐った空気の中を宿へと戻る道すがら、アルドナの足取りは傍目には力強く、毅然としたものに見えた。


 ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!

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