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黄昏の語り部フィオラ ―聖教会が恐れた禁忌の記録、語り部が紡ぐ真実の逆転劇―  作者: 弌黑流人
第二章 深緑の双子月

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第16話 水上の追跡者

 シリュウスが黄金色のポタージュを飲み干し、深い眠りに落ちてから数時間が経過した。

 自由貿易都市ザ・ラードを流れる運河には、色とりどりの提灯が灯り始め、水面には不規則な光の帯がゆらゆらと、まるで意思を持つ蛇のように蠢いている。昼間の喧騒は影を潜めたが、代わりに湿った夜風が運んでくるのは、安っぽい酒の匂いと、どこか鉄錆に似た血の予感だった。教会の法が届かぬこの街は、夜になると欲望と活気が入り混じる、より剥き出しの「生」の顔を覗かせる。


 「……シリュウス、熱は少し下がったみたいね」


 アルドナは、寝台の横でシリュウスの細い手首をそっと握り、脈拍を確かめた。その手首は、剣を振るう自分とは対照的に驚くほど細く、皮下を流れる鼓動はまだどこか危うい。だが、魔力汚染によるあの激しい痙攣は収まり、今は規則正しいリズムを刻んでいる。あの家庭的な料理と休息が、彼の張り詰めすぎた精神の糸を、ようやく緩めてくれたのだろう。


 「フィオラ、私はこれから少し出てくるわ。この宿の周りに、妙なネズミが数匹嗅ぎまわっている。シリュウスが安心して眠り続けられるように、少し『掃除』が必要ね」

 「お姉ちゃん、一人で大丈夫……? 大剣は持っていかないの?」


 フィオラの不安げな瞳が、アルドナを捉える。アルドナは腰の後ろに隠した二振りの小刀を軽く叩いて見せた。


 「こんな街中で『裂界の牙』を振り回せば、それこそ教会に居場所を教えるようなものよ。それに、今の私の腕で全力を出せば、この宿ごと吹き飛ばしかねないわ。……大丈夫、あんたのお姉ちゃんを誰だと思ってるの? レオファングの長女は、大剣がなくても最強なのよ」


 アルドナはフィオラの頭を軽く撫でると、音もなく部屋を抜け出した。その足取りは、かつて一族の暗部として仕込まれた隠密術そのものであり、古い木造の床さえも悲鳴を上げることを許さない。

 彼女が向かったのは、旅籠の裏手に広がる、入り組んだ水路沿いの路地裏だった。

 頭上では、厚い雲の切れ間から二つの月が冷たい光を投げかけている。ザ・ラードの夜の闇は、物理的な暗さ以上に、そこに潜む者たちの悪意によって濁っていた。だが、戦場という名の極限状態を幾度も潜り抜けてきたアルドナにとって、物陰に潜む刺客たちの殺気は、静寂の中に響く太鼓の音のように明白だった。


 「……隠れているつもり? 足音がドブネズミよりもうるさいわよ。そんな腕でよく賞金稼ぎなんて名乗れたものね」


 アルドナが足を止め、路地の奥に向かって冷ややかに言い放つ。

 一瞬の静寂の後、壁の影や積まれた木箱の後ろから、三人の男たちが姿を現した。彼らは教会の聖騎士のような端正な装備は持っていない。錆びた剣や毒を塗った短剣、そして何より、金のためなら親兄弟さえ売り飛ばすような濁った瞳を持った、街の「掃除屋」たちだ。


 「さすがはレオファングの生き残りだ。だが、その右腕……重そうな包帯だな。呪いの紋章が暴れているのか? まともに剣も振れまい。それに……」


 リーダー格と思われる、顔に大きな火傷跡のある男が、宿の二階を見上げ、下卑た笑いを浮かべた。


 「さっき運ばれていったあの青白いガキ……お前の弟だろう? あんな死に損ないの病人を連れて逃げるのはさぞ骨が折れるだろうよ。死にかけの『荷物』はさっさと捨てて、自分だけ逃げればよかったのになあ! あんな弱っちい弟、生きているだけ無駄ってもんだぜ」


 男たちの下劣な嘲笑が湿った路地裏に響き渡る。

 その瞬間、アルドナの瞳から、最後の一滴の温度さえも消え去った。

 彼女の周囲の空気が、物理的な圧力を伴って凍りつく。右腕の包帯の下で、竜の紋章が微かに熱を帯びるのを彼女は精神力だけで押さえ込んだ。


 「あいにくだけど、あんたたち程度に『竜の力』を使う必要なんてないわ。それに……私の弟を『病人』だの『荷物』だのと呼んだ罪は、死んでも償いきれないほど高くつくわよ」


 次の瞬間、アルドナの姿が視界から掻き消えた。


 「なっ、消え……!?」


 驚愕に目を見開く男の背後に、彼女は既に死神のように回り込んでいた。抜刀すらしない。鞘に収まったままの小刀の柄で、男の首筋の急所を、寸分の狂いもなく打ち抜く。

 ゴッ、という重い音が響き、男は言葉を失ったまま、糸の切れた人形のように石畳へと崩れ落ちた。


 「野郎、殺せッ!」


 残る二人が同時に剣を抜き、狭い路地でアルドナを挟み撃ちにする。

 右からの斬撃。左からの突き。

 アルドナは顔色一つ変えず、最小限の動きでその攻撃を紙一重でかわす。彼女の動きはもはや舞踏に近い。右の男が振り下ろした剣の平に掌を当て、その勢いを利用して相手の懐へと滑り込む。


 「剣技っていうのはね、ただ斬るだけのものじゃないのよ。相手の力を、自分のためにどう使うか。……シリュウスがいつも小難しく言っている理屈を、私は体で覚えているだけ」


 アルドナの肘打ちが男の顎を、爆音を伴うかのような衝撃で跳ね上げた。脳を揺らされた男は、白目を剥いて噴水のように唾液を撒き散らしながら後方へ吹き飛んだ。

 最後の一人が恐怖に顔を歪ませ、無茶苦茶に剣を振り回す。アルドナはあえて左手の甲でその刃を受け流し、一歩踏み込んで男の胸倉を掴んだ。


 「あんたたちが笑ったあの弟はね、私の誇りなのよ。……次、その汚い口で弟のことを話したら、舌ごと引き抜いてあげる」


 アルドナが放つ凄まじい殺気に、男は喉を鳴らすことさえできず、ただガタガタと震える。彼女は無造作に男の頭を壁へと叩きつけ、意識を完全に闇へと沈めた。

 わずか数十秒の出来事だった。大剣を抜くことも、竜の魔力を使うこともなく、アルドナは自分たちを監視していた「ネズミ」たちを、文字通り沈黙させた。彼女は倒れた男たちの懐を探り、教会の手先との繋がりを示す書状がないか、あるいは何らかの毒を持っていないかを手際よく確認していく。

 その時、水路を挟んだ向かい側の建物のバルコニーから、微かな「拍手」が聞こえてきた。


 「お見事。暴力の街ザ・ラードでも、これほど洗練された武技には滅多にお目にかかれない。レオファングの血筋は、伊達ではないようですね」


 そこに立っていたのは、豪華な毛皮を纏った、褐色の肌を持つ美女だった。彼女の周囲には、黒装束に身を包んだ武装私兵たちが控え、誰もが静謐な動きで周囲を警戒している。


 「……あんた、何者? 今のネズミたちの飼い主かしら」


 アルドナは即座に腰を落とし、戦闘態勢を取った。小刀の柄にかけられた指は、いつでも相手の命を刈り取る準備ができている。


 「いいえ。私はこの街の運河の利権を束ねる商人の一人、セーラと申します。……そして、かつて貴女の父上に命を救われた者の、末裔です。私たちは教会の独善的なやり方を好まない。恩義には利益で、信頼には誠実で応えるのが、この街を生き抜く商人の掟なのです」


 アルドナは少しだけ警戒を解いたが、その瞳の奥の鋭さは失われていなかった。


 「恩義? そんな古臭い言葉が、欲望の塊のようなこの街で通用するとは思えないけれど」

 「ええ、その通り。ですから、これは『取引』です。……弟殿の病を根本から治すための秘薬と、今後の旅に必要な、追撃を許さない本物の通行証。それをこちらで用意しましょう。その代わり、長姉である貴女のその比類なき『腕』を、一度だけ貸していただきたい」


 アルドナは鼻で笑った。だが、その頭脳は冷静に状況を分析していた。自分一人なら力ずくで切り抜けられる。だが、今のシリュウスには休息が必要だ。そしてフィオラには、恐怖のない夜が必要だった。


 「……交渉のやり方は弟に任せたいところだけど、あいにくあいつは今、酷い熱で寝込んでいるわ。……いいでしょう、その話、私が聞いてあげる。ただし、私の家族に少しでも手を出そうとしたら、この街の運河を血で染めてあげるわよ」


 セーラは満足げに微笑み、一礼して闇へと消えた。

 アルドナは、長女としての責任を改めて噛み締めながら、宿への道を急いだ。

 部屋に戻ると、ランプの柔らかな光の中で、フィオラがシリュウスの枕元でこっくりこっくりと船を漕いでいた。シリュウスの細い指を、小さな手で握りしめたまま。その健気な光景に、アルドナの戦士としての強張っていた心が、春の雪解けのように緩んでいく。


 「……フィオラ、寝ていいのよ。あとは私が代わるわ」

 「……あ、お姉ちゃん……おかえりなさい。お兄ちゃん、さっき一度だけ薄く目を開けて、お水を一口飲んだよ。……お姉ちゃん、怪我してない?」


 フィオラが目を擦りながら、アルドナの体に傷がないか心配そうに見上げる。アルドナはその手を優しく握り返した。


 「大丈夫よ。あんなの、準備運動にもならなかったわ。……お利口にしてたわね、フィオラ」


 アルドナは横たわるシリュウスの額に手を当てた。熱は確実に下がっている。関所を越えた時の、あの死神の影が張り付いたような不気味な青白さは消え、穏やかな寝息が部屋に満ちていた。


 「……シリュウス、あんたもよ。こんなところで姉を一人にしたら、承知しないんだから。早く起きて、また私の無鉄砲さを小言で叱りなさいよ」


 アルドナは、自分よりもずっと線の細い弟の寝顔を見つめた。

 シリュウスは、一族の「知恵」を一身に背負い、強引な姉と幼い妹の調整役として、常に自分を最後回しにしてきた。その献身が、彼をここまで摩耗させてしまったのだ。


 「……お姉ちゃん。お兄ちゃん、治るよね?」


 フィオラの不安を振り払うように、アルドナは力強く頷いた。


 「ええ。私が必ず治してあげる。……この街の『毒』も『薬』も、全部この私が飲み込んでやるわ。あんたたちは、ただ明日を信じていればいいのよ」


 アルドナは、シリュウスの掛け布団を丁寧に整え、その隣の椅子に腰を下ろした。

 夜が更けるにつれ、運河の喧騒も少しずつ遠のき、ザ・ラードは深い静寂に包まれていく。アルドナは暗闇の中で、自らの右腕に刻まれた呪いの紋章をじっと見つめていた。それは忌まわしき運命の鎖だが、同時に、弟妹を守り抜くための最強の盾でもある。


 「……語り部の物語は、まだ始まったばかりなんだから。……そうでしょ、シリュウス」


 眠る弟への小さな囁きは、誰にも届くことなく夜の空気に溶けていった。

 アルドナは夜通し、剣を傍らに置きながら、弟の寝顔と妹の温もりを見守り続けた。

 彼女はもう、ただ戦場を駆けるだけの兵器ではない。

 病める弟を慈しみ、未熟な妹を導く、強くて賢い「長姉」として、この混沌とした街に静かに牙を研いでいた。


 次回、『第17話 取引の代償』


 ――ザ・ラードの夜が最も深まる刻〈とき〉、運河を覆う霧は一段と濃くなり、提灯の橙色の光さえも、湿った白に飲み込まれていた。


 ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!


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