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黄昏の語り部フィオラ ―聖教会が恐れた禁忌の記録、語り部が紡ぐ真実の逆転劇―  作者: 弌黑流人
第二章 深緑の双子月

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第15話 深混沌の貿易都市

 国境の関所を越え、馬車がたどり着いたのは、深緑の森の終端に広がる自由貿易都市「ザ・ラード」だった。

 教会の威厳ある石造りの街並みとは対照的に、ここは木材と煉瓦が雑多に積み上げられ、至る所から煮炊きの煙と、多種多様な人種が放つ熱気が立ち上っている。法よりも金が、祈りよりも欲望が優先されるこの街は、追われる身の三兄妹にとって、皮肉にも最も安全な隠れみのであった。

 だが、今の彼らに街を観光する余裕など微塵もない。


 「……し、シリュウス、しっかりしなさい。もうすぐ宿に着くわよ」


 アルドナの声が、馬車の激しい揺れの中で微かに震えていた。

 彼女の膝の上では、シリュウスが浅い呼吸を繰り返し、意識の混濁に喘いでいる。彼の眼鏡は既に外され、その瞳は焦点が合わぬまま、絶えず微細に震え続けていた。

 シリュウスの症状は、単なる魔力枯渇ではなかった。聖教圏を脱出するために繰り返した「戦術演算」と「認識阻害」の術式展開。それは彼の脳内に、未消化の魔力残滓ざんしをヘドロのように蓄積させていた。魔力回路が神経系を侵食し、神経伝達を阻害する「魔力汚染」。かつて一族の学者が警鐘を鳴らした、過剰演算の代償としての後遺症だった。


 「お姉ちゃん、お兄ちゃんの手がすごく冷たい……!」


 フィオラが、兄の手を必死に擦りながら、涙を堪えて訴える。


 「大丈夫よ。ザ・ラードには、教会の干渉を受けない腕利きの闇医者がいる。それに、この街には教会の『清貧』なんて言葉はないわ。金さえ払えば、最高級の滋養が手に入る」


 アルドナは窓の外を見据え、その瞳に長女としての冷徹なまでの決意を宿した。

 彼女は御者台の男に、ガリウスから預かった金貨を数枚追加で叩きつけ、最短で安全な宿屋へ向かうよう促した。

 たどり着いたのは、運河沿いに建つ、古いが手入れの行き届いた旅籠はたごだった。

 アルドナは意識を失ったシリュウスを軽々と背負い、フィオラの手を引いて宿の階段を駆け上がる。


 「……いい、フィオラ。私はこれから医者を探し、同時にこの街の『裏』と繋がる。あんたはシリュウスの側を離れないで。一時間おきに、この水に浸した布を額に当てるの。いいわね?」


 「うん、わかった。……お姉ちゃん、気をつけて」


 アルドナはフィオラの頭を一度だけ力強く撫でると、風のように部屋を飛び出していった。

 一人残されたフィオラは、ベッドに横たわる兄を見つめる。

 あのアライアの夜から、シリュウスはずっと自分たちを守るために頭脳を酷使し続けてきた。演算のたびに鼻血を出し、顔色を悪くしていく彼を、自分たちはどこか「お兄ちゃんなら大丈夫」と甘えて見ていたのではないか。


 「……ごめんね、お兄ちゃん。ずっと無理させてたんだね」


 フィオラは、シリュウスの頬をそっと撫でた。

 一時間後、アルドナが連れてきたのは、すすけた外套を纏った、片目の潰れた老人だった。彼はシリュウスの瞳孔を確認し、魔力に反応する特殊な鉱石を首筋に当てると、ひどく濁った声で笑った。


 「……ひどいもんだな。脳の中が魔力の数式で焼け野原になっとる。教会あいつらの魔術師なら即座に廃人コースだ。……だが、レオファングの血筋か。強靭な回路が、辛うじて核を守っとる」


 老医者は、いくつかの濁った薬液をシリュウスの喉に流し込むと、アルドナに突き放すように言った。


 「薬はあくまで気休めだ。残った魔力のヘドロを流すには、こいつ自身の生命力を底上げするしかねえ。……いいか、この街の市場で『黄金のトウモロコシ』と、新鮮な『山羊の乳』、それに『赤カブ』を探してこい。それを煮込んで食わせるんだ。……特にトウモロコシの芯には、魔力を吸着して体外に出す成分が含まれとる」

 「そんな家庭料理で治るの……?」


 フィオラの問いに、老医者は皮肉な笑みを浮かべた。


 「お嬢ちゃん、魔術ってのは特別なもんじゃねえ。元はと言えば、食い物や風の流れから得たエネルギーの変換だ。……お前の兄さんに今必要なのは、高尚な呪文じゃなく、腹の底から温まる『血肉』だよ」


 老医者が去った後、アルドナは迷わず立ち上がった。


 「フィオラ、食材を買いに行くわよ。……あんたにも、手伝ってもらうわ」


 ザ・ラードの市場は、混沌そのものだった。

 干した魚の匂い、スパイスの芳香、そして路地裏から漂う泥水の臭気。


 「そこの姉ちゃん、いい肉があるぜ!」

 「おい、手配書に似た女が……」


 野卑な視線が向けられるが、アルドナはそれらを氷のような殺気で一蹴した。彼女は大剣を剥き出しにこそしないが、腰に下げた小刀の柄に手を置き、絡みつく男たちの足を一歩で踏み潰すような勢いで歩を進める。


 「これね、おじいさんが言ってたトウモロコシ!」


 フィオラが見つけたのは、西域から運ばれてきたという、燃えるような黄金色の実をつけたトウモロコシだった。ザ・ラードでは「太陽の種」と呼ばれ、厳しい冬を越すための滋養強壮として親しまれている。


 「……それと、この赤カブを三袋。それから山羊の乳も、一番新鮮なものを。……いい、金は払うわ。その代わり、少しでも鮮度が落ちていたら、この店ごと切り刻んであげる」


 アルドナの「交渉」は、脅迫に近いものだったが、この街ではそれが最も信頼される誠実さの証明でもあった。店主は震えながらも、最高品質の食材を袋に詰めた。

 宿に戻ったアルドナは、慣れない手つきで調理を開始した。

 普段は大剣を振るうその大きな手が、今は包丁を握り、カブの皮を剥いている。


 「……お姉ちゃん、上手だね」

 「昔、アイゼン村で教わったのよ。……あそこは故郷じゃなかったけれど、あのおばさんたちが教えてくれた知恵だけは、今も覚えているわ」


 鍋の中で、黄金のトウモロコシの実が弾け、山羊の乳が白く泡立つ。

 赤カブの甘い香りが部屋中に広がり、それは地下水道の黴臭い空気や、戦場の鉄錆の匂いを、少しずつ上書きしていった。

 完成したのは、見た目こそ無骨だが、とろりとした黄金色のポタージュだった。

 アルドナはシリュウスの体を抱き起こし、フィオラがスプーンでそのスープを一口ずつ、彼の唇に運ぶ。


 「お兄ちゃん……食べて。お願い……」


 シリュウスの意識はまだ遠かったが、温かなスープが喉を通るたびに、彼の頬に微かな赤みが戻り始めた。黄金のトウモロコシに含まれる純粋な精霊エネルギーが、彼の荒れ果てた回路を優しく洗い流していく。

 三時間後。

 シリュウスの呼吸が、ようやく深く、安定したものに変わった。


 「……ん、……ふ、フィオラ……?」


 掠れた声が、沈黙の部屋に響いた。


 「お兄ちゃん! 気がついたの!?」

 「……シリュウス、あんたね、死ぬかと思ったわよ。……もう、今度勝手に演算なんて始めたら、その眼鏡、粉々に叩き割ってやるから」


 アルドナは厳しい口調で言ったが、その瞳には安堵の涙が滲んでいた。

 シリュウスは、ぼんやりとした視界の中で、枕元に置かれた空の器と、ふたりの顔を見つめた。


 「……スープの匂いがする。……とても、懐かしくて、優しい匂いだ」

 「当たり前よ。私が作ったんだから」


 アルドナは照れ隠しに顔を背け、再び窓の外の闇を見据えた。


 「……いい、シリュウス。あんたはしばらく休みなさい。……ここからの『交渉』と『探索』は、私の仕事よ。あんたが知恵を貸してくれるのは、その頭がちゃんと冷えてからでいいわ」


 シリュウスは力なく、けれど幸せそうに微笑み、再び深い眠りへと落ちていった。

 それは魔力の汚染から逃れるための昏睡ではなく、明日を生きるための、真実の休息だった。

 フィオラは、兄の寝顔を見守りながら、窓の外に広がるザ・ラードの夜景を見つめた。

 混沌とした街の喧騒。けれど、そこには確かに人々が生きる「物語」が息づいている。


 「……次は、私が二人を支える番だね」


 フィオラは琥珀色の瞳を細め、静かに決意を固めた。

 深緑の双子月。

 混沌の貿易都市での物語は、三兄妹が本来持っていた「家族」の温かさを取り戻すところから、静かに、けれど力強く動き出そうとしていた。


 次回、『第16話 水上の追跡者』


 ――シリュウスが黄金色のポタージュを飲み干し、深い眠りに落ちてから数時間が経過した。


 ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!

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