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黄昏の語り部フィオラ ―聖教会が恐れた禁忌の記録、語り部が紡ぐ真実の逆転劇―  作者: 弌黑流人
第二章 深緑の双子月

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第13話 境界の関所

第二章 深緑の双子月

 芽吹きの陽光月が去り、世界は深緑の双子月へとその装いを変えていた。

 アライアを鮮やかに彩っていた黄金色の山吹は、もはや遠い記憶の彼方にある。逃亡を続ける馬車が揺られるたびに、窓の外を流れるのは「深緑」の名に相応しい、滴るような緑に染まった鬱蒼たる森だった。初夏の湿り気を帯びた空気は重く、肌にまとわりつく。アライアでのあの漆黒の夜の余熱さえも、この深い森の沈黙が飲み込んでいくかのようだった。


 「……シリュウス、まだ熱があるわ。横になっていなさいと言ったでしょう。無理をして演算を続ければ、脳が焼き切れるわよ」


 長姉アルドナの、低く、けれど有無を言わせぬ鋭い声が狭い車内に響いた。

 彼女は御者席に近い窓から、流れる木々の隙間に潜む「不自然な影」を警戒し続けている。その右腕には、今もなお古びた包帯が幾重にも巻き付けられていた。地下水道での死闘以来、竜殺しの呪いである紋章の拍動は、以前にも増して激しく、不規則になっている。時折、彼女の意識を奪おうとする灼熱の苦痛が走るたび、彼女は自身の太腿を強くつねり、理性を繋ぎ止めていた。それでも、一族最強の剣士としての矜持が、彼女に「裂界の牙」の柄を離すことを許さなかった。


 「……分かっているよ、姉さん。ですが、次の関所の警備体制を、事前に演算しておかなければならないんだ。アライアでの騒乱以来、教会の連絡網は以前の数倍の速度で回っている。僕たちの手配書が、すでに関所に届いている可能性は極めて高い」


 長男シリュウスは、片方のレンズが割れ、蜘蛛の巣のような亀裂が入ったままの眼鏡を指で押し上げた。膝の上に広げた古びた魔導書のページをめくる指先は、小刻みに震えている。彼の顔色は未だに紙のように白く、地下水道での過剰な演算負荷は、彼の繊細な魔力回路に消えない傷跡を残していた。

 演算を一段階深めるたびに、彼の脳裏にはパチパチという不快なノイズが走り、視界が二重、三重に歪む。それでも彼は、妹フィオラに余計な不安を与えぬよう、その吐き気をもよおすような苦痛を鉄の意志で喉の奥に押し込めていた。

 フィオラは、二人の間に座り、胸元に隠した「山吹の押し花」を布越しにそっと指先でなぞった。

 ガリウスが別れ際に託してくれた、あの黄金の輝き。それだけが、この陰鬱な森と、先行き不透明な逃亡生活における、彼女にとって唯一の灯火だった。


 「……ねえ、お兄ちゃん。あそこが、ガリウスさんの言っていた『境界の関所』なの?」


 フィオラの指差す先、森が不自然に切り開かれた場所に、巨大な岩を削り出したかのような威圧的な石造りの要塞が姿を現した。

 それはアライアを擁する「聖教圏」と、その外側に広がる中立地帯を分かつ、文字通りの境界線だ。アライアでのレオファング一族の出現という衝撃的なニュースは、この平穏な国境の空気さえも凍りつかせていた。検問の列には多くの旅人や商人が並んでいたが、誰もが押し黙り、武装した兵士たちの顔色を伺っている。


 「……ああ。あれを越えれば、教会の影響力が及ばない自由貿易都市へと繋がる。だが、今の僕たちの身分証は……ガリウスさんが用意してくれた偽造手形だけだ。……フィオラ、怖いかい?」


 シリュウスが魔導書を閉じ、フィオラの小さな肩にそっと手を置いた。その手は、かつてアイゼン村で本を読んでくれた時のように温かかったが、どこか脆さも孕んでいた。


 「……怖くない、って言ったら嘘になるけど。でも、私には二人がついてる。それに、私にはできることがあるよ。……お兄ちゃん、もしもの時は、私が感じた『死者の声』を頼りにして。地下水道の時と同じように、生きている人には見えない抜け道や、兵士たちが隠している本心を、私が読み取って伝えるから」


 フィオラは自分に言い聞かせるように、強く頷いた。

 アライアを出てからというもの、彼女の耳に届く「声」は以前よりも鮮明に、そして多層的になっていた。風に乗って運ばれる森の精霊たちの囁き、街道の地面に染み込んだ数十年、数百年前の行商人たちの疲労の記憶。それらは絶え間なくフィオラの意識を揺さぶり、彼女を、ただ守られるだけの少女から、運命を読み解く「語り部」としての覚悟へと導いていた。

 馬車が関所の前に差し掛かると、重厚な鉄の門が、地響きのような鈍い音を立てて閉ざされた。


 「止まれ! 全員馬車から降りろ! 身分証を提示せよ!」


 鎧を纏った門番の怒号が、森の静寂を暴力的に突き破った。

 アルドナは無言で馬車を降りた。彼女の歩みは堂々としていたが、その全身は、いつでも大剣を抜き放てるよう極限まで研ぎ澄まされていた。彼女はガリウスから託された、商隊の通行許可証を模した油紙の束を差し出した。


 「……アライアからの旅人です。薬草の仕入れのために、西の貿易都市へ向かいます」


 アルドナの言葉は短く、冷徹な響きを持っていた。彼女の背後では、シリュウスが馬車の影に隠れながら、認識阻害の術式を静かに編み上げている。彼らの容姿を手配書のものと一致させないための細工だ。だが、シリュウスの術式展開は、病み上がりの身体には酷だった。彼の指先からは、魔力の酷使による血が滲み、呼吸は目に見えて浅くなっていく。


 「……フン、アライアからの商団か。最近はあそこで妙な騒ぎがあったと聞く。レオファングの残党が街を半壊させたという噂だ。……おい、お前。その右腕、何を隠している? 包帯を解け」


 門番の瞳には、疑心暗鬼と、権力を持った者が弱者をいたぶる時の冷酷さが宿っていた。彼はアルドナの右腕に手を伸ばそうとした。

 その瞬間、アルドナの瞳に「殺気」が走った。一触即発の事態。だが、それを止めたのはフィオラだった。


 「待ってください、兵隊さん!」


 フィオラが馬車から一歩踏み出し、門番の前に立った。その瞬間、彼女の足元から、凍りつくような冷気が駆け上がった。


 (……こないで……。また、だれか……しぬ……おとうさん……おかあさん……)


 幼い少女の、すすり泣くような声がフィオラの耳の奥で、脳髄を直接揺らすように響いた。

 フィオラがハッとして周囲を見渡すが、そこには厳しい表情の兵士たちと、怯える旅人たちの姿しかない。声の主は、この関所が作られた際、あるいはかつての国境紛争で理不尽に命を落とした、名前も持たぬ犠牲者の残留思念だった。その怨念が、フィオラの魔力に反応し、地表へと滲み出していた。


 「……フィオラ、どうした!? 顔色が悪いぞ」


 シリュウスが異変を察知し、術式の維持を放棄して駆け寄った。


 「お兄ちゃん……この関所の下に、誰かがいる。……何人も、何十人も。みんな、とても悲しくて、怒ってる。……その人たちの影が、今、門番さんたちの影を引っ張って、深い穴に落とそうとしてるの!」


 フィオラの言葉と同時に、関所の空気が劇的に一変した。

 数秒前まで晴天だったはずの空が、急速に湧き出した不自然な黒雲に覆われ、深緑の森が、嵐でも来たかのように激しく、そして不気味にざわめき始める。それはフィオラの「冥顕」の力が、彼女の感情の高ぶりに呼応し、制御不能なまま周囲の残留思念を活性化させてしまった結果だった。


 「な、なんだ!? この急な冷気は……! 空が……おい、地面から何か出ているぞ!」


 門番たちが狼狽し、抜剣する。彼らの足元の影が、まるで泥沼のように揺らめき、見えない腕が彼らの足を掴もうとしていた。

 だが、混乱はそれだけでは終わらなかった。

 森の奥、光さえ届かない暗がりから、二つの鋭い「影」が、物理的な破壊を伴って飛び出した。

 それは、教会の追っ手ではなかった。


 「……ようやく見つけた。教会の犬どもに追い回される、哀れで、そして忌々しい獅子の仔らを」


 関所の門を、一撃で粉砕して現れたのは、奇妙な仮面をつけた二人組だった。

 一人は、背丈ほどもある巨大な錫杖〈しゃくじょう〉を携えた、しなやかな体躯の女。もう一人は、両手に異形の短剣を握り、殺気そのものを身に纏ったような、小柄だが筋肉質な男だ。

 彼らの身に纏うのは、深緑の森に溶け込むような、植物の繊維を編み込んだ異形の装束。そしてその手には、教会が「禁忌」として厳格に管理しているはずの、古代の魔術触媒が握られていた。


 「……『双子月』の守護者か。中立地帯の番人たちが、なぜ僕たちを……」


 シリュウスが、血の混じった唾を吐き捨て、苦渋に満ちた声を出す。

 アライアという「鳥籠」を抜けた先で待ち受けていたのは、教会の騎士たちの正義でも、レオン・ヴァルムが抱えていた個人的な復讐でもなかった。

 この広大な中立地帯を裏から支配し、外界からの侵入者を拒む、全く新しい勢力の介入だった。


 「レオファング。お前たちがここにいるだけで、この森の調和は乱れる。死者たちの声が大きすぎるのだよ」


 仮面の女が錫杖を地面に叩きつけると、フィオラが呼び起こした死者の影たちが、悲鳴を上げて四散した。圧倒的な力による「調伏」。

 フィオラは膝をつき、激しい眩暈に襲われながらも、握りしめた押し花の温もりを頼りに顔を上げた。

 教会の追跡、レオンとの因縁、そして新たに現れた謎の守護者たち。

 彼女の旅路は、この「境界の関所」を越えることで、単なる逃亡劇から、世界の根源的な闇と、かつて自分たちの一族が犯した「本当の罪」へと踏み込んでいくことになる。


 「アルドナ姉さん……あの人たち、私たちを『悪いもの』だと思ってる!」

 「……勝手に思わせておきなさい。私の家族に手を出すなら、神だろうが森の化け物だろうが、まとめて斬り伏せてあげるわ!」


 アルドナが包帯の巻かれた右腕を力任せに振り上げ、大剣「裂界の牙」を抜き放った。

 漆黒の刃が深緑の森の湿気を切り裂き、呪いの紋章が青白く、不吉なほど美しく発光する。

 深緑の双子月。

 その幕開けは、祝福など一切ない、鋼と魔力が激突する戦場の只中で始まった。

 フィオラは、兄と姉の背中を見つめながら、これから語るべき物語が、より過酷で、より深い色に染まっていくことを確信していた。


 次回、『第14話 仮面の来訪者』


 ――「シャリン――」


 錫杖の輪が触れ合う、冷たく、そして鋭い音が森の空気を震わせた。


 ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!

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