第12話 芽吹きの陽光月・黄金の船出
馬車が軋む音だけが、濃密な闇の中に響いていた。
アライアの街を囲む外壁が夜の向こう側に没し、執拗に追いすがっていた騎士たちの気配が遠のいても、三人の間に流れる空気は凍りついたように冷たいままだった。ガリウスが手配したこの小さな荷馬車は、貴族が乗るような壮麗なものではない。運搬用の古い木材がこすれ合い、車輪が石を弾くたびに、乗っている者の骨にまで振動が伝わる無骨な代物だ。だが、その無骨な振動こそが、自分たちがまだ生きているという、たった一つの証明でもあった。
「……シリュウス、そこに横になって。血が止まっていないわ」
アルドナの声が、夜の静寂を静かに裂いた。
彼女は御者台に座るガリウスの隣で、周囲の闇に鋭い視線を走らせながらも、荷台にいる弟を案じていた。その声には、先ほどまで地下水道で戦鬼のごとく刃を振るっていた激しさはなく、どこか疲れ果てたような、ひどく掠れた響きが混じっている。彼女の右腕、竜の紋章が刻まれた場所は、今もなお衣服の上からでも分かるほど赤黒い熱を帯び、彼女の体力を内側から削り続けていた。
荷台の隅、薄汚れた毛布に身を包んだシリュウスは、力なく壁に頭を預けていた。
過剰な演算の代償は、彼の神経をぼろぼろに引き裂いていた。眼鏡は片方のレンズが砕け、その奥にある瞳は深い隈に沈んでいる。彼はフィオラの差し出した水袋を震える手で受け取ろうとしたが、指先に力が入らず、皮袋は無残に床へ転がった。
「……済まない。少し、計算を、しすぎたようだ……」
シリュウスが絞り出した声は、風に吹けば消えてしまいそうなほど細い。フィオラは慌てて水袋を拾い上げ、彼の唇にそっと近づけた。一口、二口と水を飲み込むたびに、シリュウスの喉が痛々しく鳴る。彼の額には冷や汗が浮かび、その熱は夜の寒気の中でも引く様子がない。
「お兄ちゃん、喋らなくていいよ。……今は、ただ息をして」
フィオラはシリュウスの頭を自分の膝に乗せ、その額を冷たい布で拭った。
シリュウスの呼吸は浅く、不規則だ。脳に刻まれた数式と、レオンが放ったあの「紅蓮」の残像が、今も彼の意識を焼いているのだろう。フィオラは兄の熱い掌を握りしめた。その手には、地下水道で浴びた返り血と、崩落した石塵が混じり合い、鉄錆のような匂いがこびりついていた。
馬車は街を抜け、深い森の縁を走る秘密の街道へと入っていた。
「……着いたぞ。ここなら、少しは足を止めても大丈夫だ」
ガリウスが馬を止め、深い溜息をついた。
彼らが辿り着いたのは、森の中にひっそりと佇む、半ば崩れかけた石造りの祠だった。かつては旅の神を祀っていたのだろうが、今では蔦に覆われ、忘れ去られた過去の一部となっている。
ガリウスは馬車から降りると、荷台の端に腰を下ろした。彼は懐から煙草を取り出そうとしたが、指が震えていることに気づき、苦笑してそれを仕舞い込んだ。
「……全くだ。商売人の人生で、聖騎士を相手に立ち回る日が来るとは思わなかったぜ。娘に自慢してやりたいが、あいにくあいつは幽霊だからな」
「ガリウスさん……本当に、ありがとうございます。あなたがいなければ、私たちはあの闇の中で、終わっていました」
フィオラがシリュウスの頭を撫でながら、静かに感謝を伝えた。
ガリウスは少し照れくさそうに頭を掻き、それから真剣な眼差しで三人を見つめた。
「礼なら、あいつ――ミーナに言ってやってくれ。わしを動かしたのは、あいつの我儘だ。……それとな、シリュウス、アルドナ。……そしてフィオラ。お前さんたちに、これを渡しておかなきゃならねえ」
ガリウスが差し出したのは、油紙に包まれた一束の古い書類と、そして、小さな押し花だった。
押し花は、鮮やかな黄色。アライアを彩っていた、あの「山吹」だった。
「これは……?」
「わしが昔、レオファングの領地を訪れた時に、そこらの子供からもらったものだ。あそこは、いい場所だった。教会が言うような『異端の巣窟』なんかじゃねえ。……花を愛で、客人をもてなし、誰もが誇りを持って獅子の紋章を掲げていた。……わしはその押し花を、ずっとお守りにしてたんだ。いつか、あの地をまた訪れる日のために」
ガリウスの声には、かつて見た真実を歪められたことへの、静かな憤りが混じっていた。
「書類は、この先の国境を抜けるための偽造手形と、古い隠れ里の地図だ。……教会はしつこい。アライアを抜けても、追っ手は必ず来る。だが、この地図が示す場所なら、少しはマシな時間が稼げるはずだ」
フィオラは、その押し花をそっと受け取った。
乾いて脆くなっているはずなのに、その黄金色は驚くほど鮮やかだった。それは、漆黒に塗り潰されそうになっていたフィオラの心に、一条の光を投げかける。
「ガリウスさんは……どうするの?」
「わしか? わしはアライアに戻るさ。ギルド長も待ってるしな。それに、わしのような老いぼれが消えりゃ、余計に怪しまれる。……いいかい、フィオラ。お前さんたちが化け物じゃないことは、このわしが証明だ。いつか、お前さんたちが『本当の名前』で笑える日が来たら……その時は、わしの店に最高級の酒でも買いに来てくれ」
ガリウスはそう言うと、力強く三人の背中を叩いた。その手の温かさは、アイゼン村で感じた人の温もりと同じだった。たとえ世界が自分たちを否定しても、こうして自分たちを「人間」として見てくれる者がいる。その事実が、今の彼らにとっては何よりも救いだった。
夜が、ゆっくりと動き始めていた。
東の空が微かに紫がかり、漆黒の帳にわずかな亀裂が走る。
三人はガリウスと別れ、彼が手配した別の、さらに目立たない荷馬車へと乗り換えた。今度の御者は口の硬いガリウスの知人だという。
馬車が山道を登り、峠の頂に差し掛かったその時だった。
「……見て、二人とも」
フィオラが声を震わせ、後方を指差した。
シリュウスが重い瞼を持ち上げ、アルドナが剣を置いた手で瞳を細める。
そこには、筆舌に尽くしがたい光景が広がっていた。
夜明けの光がアライアを囲む広大な盆地へと差し込み、斜面を埋め尽くしていた山吹の群生地を一斉に照らし出していたのだ。
何万、何億という山吹の花が、朝露に濡れた花弁を黄金色に輝かせ、風に揺れている。それはまるで、地上に現れた黄金の海だった。地下水道で見たあの漆黒の闇、レオンが放った憎悪の紅蓮、それらすべてを包み込み、浄化していくかのような、圧倒的な生命の輝き。
「綺麗……」
フィオラの目から、一筋の涙が溢れ落ちた。
それは悲しみの涙ではなく、あまりの美しさに魂が震えたゆえの雫だった。アライアで過ごした日々は、偽りの平穏だったのかもしれない。最後には、追われ、憎まれ、傷だらけになって逃げ出すことになった。
けれど、あの黄金の海を見た記憶だけは、誰にも奪うことはできない。
「シリュウス、アルドナ姉さん。……私、決めたよ」
フィオラは山吹の押し花を胸に抱き、二人を真っ直ぐに見つめた。
「私は、語り部になる。……私たちが何を見て、何を感じて、どんなふうに生きたか。あのレオンという人が、どんなに悲しい炎を燃やしていたか。……この世界から消されそうになっているすべての物語を、私が拾い集めて、語り継いでいく。……それが、私たちが生き残るための、もう一つの戦いだと思うから」
シリュウスは微かに微笑み、震える手でフィオラの頭を撫でた。
「……ああ。君なら、素晴らしい物語を書けるだろうね。……僕も、それを最後まで読むために、まだ倒れるわけにはいかない」
アルドナは大剣の柄を握り直し、黄金の海を見据えながら、短く鼻を鳴らした。
「ふん。語り部を守る騎士役なら、私に任せなさい。……どんな地獄が来ても、あんたの物語を完結させてあげるわ」
黄金の光が、馬車を包み込んでいく。
芽吹きの陽光月。
別れと出会い、破壊と再生の月。
その最後の朝に、三兄妹は自分たちの宿命を呪うのではなく、それを受け入れて歩む決意を固めた。
馬車は、黄金の海を抜け、さらに険しい山々の向こう側へと進んでいく。
そこには、まだ見ぬ土地、まだ見ぬ人々、そしてさらなる教会の追っ手が待ち受けているだろう。だが、今の彼らの瞳には、漆黒の絶望を塗り替えるほどの、黄金色の希望が宿っていた。
「さようなら、アライア。……いつか、私たちの声が、あなたたちに届くまで」
フィオラの呟きは、黄金の波に溶けて消えた。
旅路はまだ、始まったばかり。
語り部の少女と、知識の守護者たる兄、そして竜の力を宿した姉。
彼らの船出を祝うかのように、春の終わりの風が、甘い花の香りを乗せて、どこまでも遠くへと吹き抜けていった。
次回、第13話『深緑の双子月・境界の関所』
――芽吹きの陽光月が去り、世界は「深緑の双子月」へとその装いを変えていた。
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