第11話 芽吹きの陽光月・紅蓮の復讐者
その騎士に、名乗りを上げるような殊勝な精神は微塵も残っていなかった。
若き騎士レオン・ヴァルムが、腰の鞘から深紅の宝剣「火鼠〈ひねずみ〉」を引き抜いた瞬間、地下水道を支配していた湿った静寂は、爆ぜる火花と皮膚を焼くような熱波によって強引に上書きされた。
一切の言葉は不要だった。
レオンの瞳に宿っているのは、騎士道への忠誠でも、法への信奉でもない。ただ自分たちの一族を破滅へと追いやったレオファングという名に対する、地獄の底から這い出してきたかのような純粋な殺意。その瞳がフィオラを射抜いたとき、彼女の心臓は、氷の楔を打ち込まれたかのように激しく、そして痛々しく跳ね上がった。喉の奥が引き攣り、悲鳴さえも形にならない。ただ、生理的な恐怖によって全身の毛穴が収縮し、指先が凍りついたように動かなくなった。
「――ッ!」
レオンが踏み込んだ。その一歩だけで、足元の泥水が爆弾でも破裂したかのように高く跳ね上がる。
音を置き去りにした突進。シリュウスが反射的に防御術式を展開しようと指を動かしたが、レオンの動きはその思考速度さえも凌駕していた。紅蓮の軌跡が闇を裂き、シリュウスの至近距離まで迫る。彼の眼鏡のレンズ越しに、迫りくる死神の如き炎の刃が映り込み、網膜を焼く。
「シリュウス!」
アルドナの叫びが響くと同時に、大剣「裂界の牙」が抜かれ、レオンの宝剣と正面から激突した。
地下水道に、耳を劈くような金属音が鳴り響く。激突の衝撃で発生した衝撃波が、四方のレンガ壁に深い亀裂を走らせ、天井から砂塵が滝のように降り注いだ。だが、レオンは止まらない。彼は剣が弾かれた反動さえも利用し、独楽のように体を捻りながら、二撃、三撃と休みなく刃を叩きつけてくる。
その剣技は、洗練された騎士のそれとは程遠いものだった。
泥水を蹴り飛ばして目潰しにし、崩落した瓦礫を足場にして全方位から肉薄する。喉笛を食いちぎらんとする獣のような、泥臭く、それでいて一切の無駄を排した「殺し」の技術。レオンが宝剣を振るうたびに、地下水道の淀んだ水は瞬時に沸騰し、白い蒸気が立ち込めて視界を遮っていく。蒸気に混じるのは、焼けた泥の匂いと、レオンの傷口から滴る血が蒸発した鉄の匂い。
「……はぁ、はぁっ! 戦術演算、再構築! 『加圧障壁』!」
シリュウスが血の混じった唾を吐き捨て、震える手で術式を編み上げる。
幾何学的な紋章が空中に浮かび、レオンの動きを封じ込めるべく不可視の重力壁を形成した。だが、レオンはその障壁に触れる直前、自らの宝剣に膨大な魔力を注ぎ込み、力任せにそれを粉砕した。
「理」によって構築された魔術が、「狂気」という名の質量によって力ずくでこじ開けられる。その余波で、シリュウスの眼鏡のレンズに細かな亀裂が入り、彼の鼻から鮮血が滴り落ちた。視界が赤く染まり、脳内を駆け巡る演算式が火花を散らす。それでも、彼は妹の前に立つ足だけは退かせなかった。
「逃がさぬ……貴様らだけは、この地獄から生かして帰しはせぬ……!」
レオンが初めて発した言葉は、喉を焼き切られたような、掠れた呪詛だった。
彼の瞳には、もはや鏡のように自分を映し出す理性など存在しない。ただ赤く燃える憎悪の炎だけが、フィオラの魂を焼き尽くさんと迫ってくる。その瞳に映る自分たちの姿が、救いようのない「悪」として定義されていることに、フィオラは息が詰まるような絶望を感じた。
フィオラは、動けなかった。
壁に背を預け、冷たい石の感触に震えながら、ただ目前で繰り広げられる死闘を見守ることしかできない。レオンが放つ殺気は、これまで出会ったどの追っ手とも異なっていた。それは、自分自身の命さえも薪として燃やし尽くし、ただ敵を滅ぼすためだけに特化した、冷徹なまでの熱。
彼と目が合うたびに、フィオラは自分の内臓がせり上がるような恐怖に襲われた。あれは人間ではない。自分たちを、愛する家族を、そしてこれまで積み上げてきたささやかな幸せをすべて灰に変えるまで止まらない、天災そのものだ。頬をかすめる熱風が、肌をジリジリと焼き、死が指先まで浸透してくるのを感じる。
「フィオラ、逃げなさい! ここは私が止める!」
アルドナが叫ぶ。彼女の右腕の包帯は完全に失われ、青白く発光する竜の紋章が、レオンの炎に呼応するように激しい拍動を繰り返していた。紋章から溢れ出す力は、アルドナの身体機能を強引に書き換え、細い腕に人間離れした筋力を与える。だがその代償として、彼女の心には理性を食い破ろうとする飢えた獣の咆哮が響き渡っていた。
アルドナは大剣を力任せに振り抜き、空間そのものを断ち切る「断空」を連射した。漆黒の断層が地下水道を縦横無尽に走り、レオンの炎を吸い込もうとする。
だが、レオンは止まらなかった。
彼は自らの左腕が断層の余波で裂け、鮮血が噴き出すのも構わずに突き進む。傷口から流れる血が宝剣の熱で蒸発し、錆びた匂いが地下水道に充満した。苦痛を快楽に変えているかのような、歪んだ笑みが彼の口元に浮かぶ。
「死ね、死ね、死ねぇッ!」
狂気に満ちた叫びと共に、レオンが宝剣を頭上に掲げた。
彼の周囲の空気が急速に収縮し、地下水道に溜まっていた可燃性のガスが炎に引火して、巨大な火柱となった。紅蓮の咆哮。それは文字通り、地下に眠るすべてを焼き尽くす一撃。
その瞬間、フィオラの中で、何かが決壊した。
恐怖。絶望。そして、自分たちを守ろうとしてボロボロになっていく兄と姉への、引き裂かれるような悲しみ。それらが混ざり合い、言葉にならない叫びとなって彼女の胸の奥で爆発した。
その感情が、地下水道に漂う無数の死者たちの無念と共鳴した。アライアの礎となった工夫たち、地下でひっそりと息を引き取った名もなき人々、そして、かつて反逆の志を抱いてこの闇に消えた「潜龍」たちの残滓。それらは救いを求めるように、フィオラの魔力へと群がった。
「……やめて」
フィオラの小さな、震える呟きが、激しい火の音を突き抜けて、地下水道全体に染み渡った。
彼女の背後の闇が、物理的な質量を持って膨れ上がる。それは「冥顕」という現象を超え、死者たちの意志が形を成した巨大な影の腕。
数えきれないほどの灰色の手が、レオンの放った火柱を包み込み、その熱を力ずくで抑え込んでいく。死者たちの冷たさが、復讐者の熱を相殺し、地下水道には視界を完全に奪うほどの濃密な蒸気が立ち込めた。
「……ガハッ!」
レオンが蒸気の中から吐血しながら後退する。
フィオラが呼び起こした死者の影は、彼の剣だけでなく、彼の心に巣食う孤独な憎悪にさえも触れていた。レオンは一瞬、呆然とした表情で、自らの剣を握る「灰色の手」を見つめた。その手は、冷たく、けれどどこか慈しむように彼の震える腕を包んでいる。それは、かつて彼が愛し、レオファングとの戦いで失ったはずの、幼い肉親の温もりに似ていた。
「馬鹿な……。これは、何の、術だ……。なぜ、お前たちが、そんな顔で私を見る……!」
レオンの戦意が、フィオラの悲しみに触れて一瞬だけ揺らぐ。その瞳に溜まった涙が、熱で干上がる前に一筋だけ頬を伝った。
だが、その隙を突いて、シリュウスがその身体に残るありったけの力を魔力弾に込めて放った。それは殺すためのものではなく、地下水道の脆弱な天井を崩落させるための、正確無比な狙撃。
「ガリウスさん、今だ!」
「おうよッ! 野郎ども、掴まってろ!」
ガリウスがどこからか持ってきた太い杭を壁の隙間に叩き込むと、古いレンガの壁が轟音と共に崩れ始めた。レオンと三人の間に、膨大な土砂と瓦礫の壁が積み上がっていく。
「待て……! レオファング! まだだ、まだ私は……ッ!」
土砂の向こう側から聞こえるレオンの咆哮は、崩落の音にかき消されていった。最後に聞こえたのは、復讐に失敗した男の、魂が千切れるような絶叫だった。
三人はガリウスに引きずられるようにして、崩落の連鎖が続く水路を必死に駆け抜けた。背後では、地下水道そのものが悲鳴を上げ、歴史の闇へと沈んでいく音が響き続けている。足元はぬかるみ、肺は熱い蒸気で焼かれ、一歩ごとに意識が遠のく。それでも、握りしめた手の温もりだけが、彼らを前へと動かしていた。
どれほどの時間を走り続けたのか。
不意に、目の前に鉄格子の出口が現れた。ガリウスが鍵を壊し、三人を通路の外へと押し出す。
這い出した先は、アライアの街から遠く離れた、小高い丘の上の古い廃礼拝堂だった。
フィオラは冷たい地面に膝をつき、湿った土の感触を確かめた。指先にはまだレオンの炎の熱が残り、耳の奥では彼が叫んだ呪詛が繰り返し響いている。背後の地下からは、まだ時折、遠雷のような低い地鳴りが聞こえていた。それは一つの復讐が、未完のまま埋もれた葬送の音だった。
ふと見上げた空には、朝日の気配など微塵もなかった。
厚い雲に覆われ、星さえも見えない、深い深い漆黒の夜空。風は冷たく、戦いで火照った体を容赦なく奪っていく。その暗闇は、まるでこれから自分たちが歩む旅路を暗示しているかのようだった。
「……シリュウス、アルドナ姉さん」
フィオラは、泥と血に汚れた自分の手を見つめた。掌に刻まれた汚れは、いくら擦っても落ちない気がした。
レオン・ヴァルム。彼が放っていた、あの狂おしいほどの殺意。それは自分たちが「被害者」であるだけでなく、誰かにとっては「加害者」の血筋であるという、動かしようのない事実を突きつけていた。自分たちが生き残るために、誰かの正義を、誰かの家族を、再び踏みにじったのではないか。その疑念が、胸の奥を鋭く抉る。
祝福の季節は、完全に終わったのだ。
「漆黒」に染まりゆくこの月の下で、彼女は「語り部」として、ただ語るだけでなく、この憎しみの連鎖さえもいつか言葉に変えなければならないことを、予感せずにはいられなかった。でなければ、あのレオンという男の魂は、永遠にあの闇の中で燃え続けることになるだろう。
「行こう。……夜が、明ける前に。追っ手は、まだ止まらないはずだ」
シリュウスの静かな、けれど決意に満ちた言葉が、冷たい風に乗って消えていった。彼は血に汚れた眼鏡を拭い、再び「レオファングの長兄」としての顔を取り戻していた。
三人は、ガリウスが手配した小さな荷馬車へと乗り込んだ。
馬車が軋む音を立てて走り出す。振り返るアライアの街は、漆黒の闇の中に沈み、ただ一点、城塞の灯りだけが、執念深い獣の眼光のように光っていた。
次回、『第12話 芽吹きの陽光月・黄金の船出』
――アライアの街を囲む外壁が夜の向こう側に没し、執拗に追いすがっていた騎士たちの気配が遠のいても、三人の間に流れる空気は凍りついたように冷たいままだった。
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