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黄昏の語り部フィオラ  作者: 弌黑流人


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第10話 芽吹きの陽光月・深淵の潜龍

 重い石蓋が、地上の光を断絶するように低い音を立てて閉まった。その瞬間、世界から一切の色が奪われ、濃密な闇が三人を包み込んだ。

 急激な静寂が耳を打つ。つい先ほどまで彼らを追い詰めていた聖騎士たちの怒号や、逃げ惑う民衆の悲鳴、石畳を叩く馬蹄の音までもが、厚い石の層に遮られて遠い記憶の残響へと変わっていく。

 代わりに三人の五感を支配したのは、閉ざされた空間に立ち込める、鼻腔を刺すような鉄の匂いだった。

 それはアルドナが切り伏せた騎士たちの鮮血が、彼女の外套に深く染み込んだ生々しい匂いであり、同時に、抜剣されたままの「裂界の牙」が放つ、冷たく研ぎ澄まされた鋼の匂いだ。湿った地下の冷気がその匂いを増幅させ、まるでこの闇そのものが巨大な鉄の胃袋であるかのような錯覚を抱かせた。


「……シリュウス、無理はしないで。あなたの顔、真っ白よ」


 アルドナの低く、けれど鋭い指摘が暗闇に響いた。

 シリュウスは冷え切ったレンガの壁に手をつき、荒い呼吸を必死に整えていた。眼鏡の奥の瞳は焦点が定まらず、絶え間なく演算を繰り返した代償として、脳を直接焼くような熱が彼を襲っていた。魔導書を握る指先が、微かに、けれど止まることなく震えている。彼が展開し続けた戦術演算術式は、本来なら数人がかりで維持する規模のものであり、それを独りで、しかも短時間で連続行使した負荷は、精神の許容量をとうに超えていた。


「大丈夫だ……。それより、フィオラ。……怪我はないかい?」


 掠れた声で、シリュウスは隣に立つ妹を気遣った。


「うん。私は大丈夫。……でも、お兄ちゃんの手、すごく熱いよ」


 フィオラは暗闇の中で、探るようにシリュウスの手を握った。地下水道を流れる泥水の冷気とは対照的に、彼の肌からは火傷をしそうなほどの熱気が伝わってくる。フィオラはその手を両手で包み込み、少しでもその苦痛を分け合おうとしたが、シリュウスは優しくその手を解き、再び立ち上がった。

 案内役を務める商人ガリウスが、少し先で小さな魔導ランタンに火を灯した。淡い青白い光が、カビの生えたレンガ造りの壁と、淀んだ水の流れを不気味に浮かび上がらせる。水面には油膜が浮き、そこには地上では決して見ることのない、都市の排泄物と腐敗が混ざり合った「影」が揺れていた。


「……無茶を通り越して、狂気の沙汰だ。レオファングの生き残り……。まさか、あの街道で助けてくれた若者たちが、歴史の闇に消えたはずの獅子の一族だったとはな」


 ガリウスは震える手で、今はもうない馬車の手綱を握るように拳を固め、三人を振り返った。その顔には単なる恐怖だけでなく、どこか複雑な、古い記憶を無理やり掘り起こしたような色が混じっている。


「ガリウスさん、あなたはどうして私たちを……。教会を敵に回せば、あなたの商売も、命も、この街での居場所もすべて失うことになるはずだ」


 シリュウスの問いに、ガリウスは自嘲気味に鼻を鳴らした。ランタンの光に照らされた彼の横顔は、いつもの狡猾な商人のものではなく、一人の男としての覚悟に満ちていた。


「商売なんざ、とっくにガタが来てるさ。アライアの貴族どもに媚を売る毎日には反吐が出てたんだ。……それに、わしは昔、北の凍てつく領地で行き倒れかけた時に、ある騎士様に救われたんだ。その人のマントには、今のあんたたちが晒したのと同じ、誇り高き『獅子の紋章』があった。……恩返しをしろと、死んだ娘の幽霊にまで枕元で説教されるんじゃ、引くに引けねえよ」


 ガリウスの言葉を聞き、アルドナが微かに口角を上げた。その表情には、戦いの最中に見せていた獰猛な色はなく、年相応の少女のような、どこか懐かしむような柔らかさが混じっていた。


「義理堅いデブは嫌いじゃないわ。……でも、感慨に浸るのは後にしましょう。来てるわよ、追っ手が。この鉄の匂いに、連中の安っぽい香油の匂いが混ざり始めたわ」


 アルドナが視線を向けた地下水道の奥から、複数の足音が聞こえ始めた。

 それは無秩序なものではない。訓練された兵士が、互いに合図の指鳴らしを送り合いながら包囲網を縮めてくる、規則正しくも執拗な響き。聖騎士の地下別働隊だ。彼らは地上を完全に封鎖するだけでなく、この迷宮のような地下空間をも、逃げ場のない「鉄の檻」に変えようとしていた。


「フィオラ、ランタンの光を消して。……シリュウス、隠蔽術式の多重展開を。最短距離で出口へ向かうわよ。見つかれば、次は問答無用で首を刎ねられるわ」

「……了解だ。演算開始。……フィオラ、君は『視える』ものを僕に伝えてくれ。地下に眠る声たちは、僕たちの味方だ」


 フィオラはゆっくりと目を閉じた。

 地下水道。そこはアライアの街が華やかに整備される以前からの、古い土地の記憶が堆積した墓場だった。かつての建設作業で命を落とし、使い捨てられた工夫たちの嘆き。不当な権力争いに巻き込まれ、この泥水の中で息絶えた罪人たちの無念。そして、かつて王国に対して反旗を翻し、この地下に潜伏していた「潜龍」と呼ばれた古代の反乱軍の思念。

 それらの声が、フィオラの精神に波紋のように広がっていく。


「……あっち。左から三番目の、古い水路。そこだけ、地上からの風が吹いてる。死んだ人たちが、そっちに行けって道を教えてくれてるわ」


 フィオラの指差す先は、公式な地図には載っていない、崩れかけたレンガの隙間に隠された古い回廊だった。

 三人は水音を殺し、鉄の匂いと腐敗臭が漂う闇の中を疾走した。


「止まれッ! そこにいるのは分かっているぞ! 隠れても無駄だ、聖なる光からは逃れられん!」


 背後から鋭い叫びと共に、純白の光弾が放たれた。シリュウスが即座に障壁を展開するが、術式の干渉による反動で彼の口から鮮血が零れ、眼鏡が赤く染まる。脳を突き刺すような激痛が走るが、彼は歯を食いしばり、魔導書のページを握りつぶさんばかりの力で次の演算を開始した。

 アルドナが舌打ちし、振り返ることなく大剣「裂界の牙」を背後へ一閃させた。彼女の右腕の竜の紋章が、呼応するようにドクンと大きく波打つ。


「……『影断かげだち』」


 彼女が放った漆黒の剣気が、追いすがる騎士たちの足元の地面を文字通り「消失」させた。空間を削り取られた床が崩壊し、悲鳴と共に泥水路へと落下していく敵兵。けれど、敵の数は減るどころか、通路の曲がり角を抜けるたびに増えているようにさえ感じられた。地下の湿った気流に乗って、騎士たちが放つ「聖なる加護」の特有の甘い匂いが、逃げ場のない通路に充満していく。


「ハァ……ハァ……、出口まで、あと三つ先の分岐だ。……ガリウスさん、そこを抜ければどこへ出る?」


 シリュウスの声はもはや掠れ、体力の限界を告げていた。


「……街の西側、山吹の群生地を抜けた先の古い礼拝堂だ。そこなら、わしの仲間の馬車が待っている。そこまで行けば、追っ手を振り切れる!」


 だが、最後の分岐点に辿り着いた瞬間、彼らは絶望的な光景を目の当たりにした。

 崩れかけた天井から差し込む、一筋の月光のような光の下。出口を完全に塞ぐように、銀色の鎧に身を包んだ一人の男が立ち尽くしていた。

 それは地上の凡庸な指揮官ではない。もっと若く、けれどその身から放たれる魔力の重圧は、先ほどまでの騎士たちとは一線を画していた。その男が纏う空気は、冷たい地下の湿気さえも焼き尽くすような、剥き出しの敵意に満ちていた。


「……見つけたぞ。教会の『遺失物』たち。そして……我が一族の、永遠なる仇」


 その若き騎士が、腰に佩いた深紅の宝剣を抜いた瞬間、地下水道の空気は「鉄の匂い」から、皮膚を裂くような「鋭利な殺意の匂い」に上書きされた。


「……レオファングに滅ぼされた、ヴァルム家の生き残りか」


 シリュウスが、血に染まった唇を忌々しげに歪めた。

 十年前、レオファング家が反逆の汚名を着せられた際、その執行を担い、返り討ちにあって家名を潰されたヴァルム家。彼らにとって、目の前の三人は、一族を破滅させた元凶の末裔に他ならない。

 過去の因縁が、光の届かぬ地下水道で激しく火花を散らす。

 フィオラはシリュウスの手を再び強く握りしめた。彼女の背後で、地下に蠢く「潜龍」たちの影が、自らの意志を持つかのように大きく、黒く膨れ上がっていくのを感じていた。


「……お兄ちゃん。この人は、悲しんでない。……ただ、真っ赤な炎で、自分自身を燃やし続けてる」


 芽吹きの陽光月。その漆黒に染まりゆく深淵で、獅子の末裔たちは、避けることのできない「過去の清算」という名の戦場へと、容赦なく引きずり込まれていく。


 次回、『第11話 芽吹きの陽光月・紅蓮の復讐者』


 ――その騎士に、名乗りを上げるような殊勝な精神は微塵も残っていなかった。


 ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!

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