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黄昏の語り部フィオラ  作者: 弌黑流人


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第1話 芽吹きの陽光月・夜明けの琥珀

 『黄昏の語り部フィオラ』ー序章ー


 光あるところに、物語が生まれるのではない。

 光に背を向け、忘れ去られた沈黙の底にこそ、本当の物語は眠っている。


 これは、声を奪われた死者たちの未完の物語を拾い集める、一人の少女の旅路。

 そして、呪われた血運に抗い、絆を武器に世界を駆ける、三兄妹の物語である。


 ――語り部が訪れるとき、本当の言葉が、語り始められる。


 雨が、熱を帯びた炉の匂いを叩き潰すように降っていた。

 アイゼン村。切り立った岩山にへばりつくように作られたこの村は、一年の大半を鉄を打つ音と、鉱石を洗う水音に支配されている。だが、この「芽吹きの雨」が降る朝だけは、すべての音が湿った闇に吸い込まれていくようだった。

 村の北端、重い鉄の扉が閉ざされた『アイゼン武具店』の工房。

 火床の熱気が、外の冷気とぶつかって白い蒸気となり、天井の梁にまとわりついている。その熱気の中心に、一人の女が立っていた。


 「……ふぅ、よし。これで。大人しくなったはずよ」


 鍛冶師、エリン・アイゼンが、巨大な金槌を作業台に置いた。

 二十四歳という若さに似合わず、彼女の指先は煤で黒ずみ、節々は太い。手の甲には、火花が散った跡であろう小さな火傷が、星座のように点在している。それが、彼女がこの村で「天才」の名を不動のものにしている証でもあった。

 エリンは前髪を乱暴に払い、目の前に横たわる「巨大な何か」を、まるで猛獣を鎮めた後のような目で見つめた。


 「……感謝する、エリン」


 部屋の隅、影に溶け込むように立っていた女が、音もなく一歩前へ出た。

 アルドナだ。二十八歳になる彼女が纏う空気は、この工房のむせ返るような熱気さえも一瞬で凍りつかせるような鋭利さがあった。彼女の背は高く、旅慣れた革鎧の上からでもわかるほど、その身体は無駄な脂肪を削ぎ落とした鋼のように引き締まっている。

 アルドナはゆっくりと、厚手の布を剥いだ。

 現れたのは、一振りの大剣。だが、それは「剣」という洗練された言葉で形容するにはあまりに異質で、禍々しかった。刀身の半分を、まるで生物の鱗のような、どす黒い質感が覆っている。その「鱗」は、鉄と一体化しているのか、あるいは鉄を侵食しているのか、見る者によって判断が分かれるだろう。

「『裂界の牙』……。こいつの食欲を抑えるのに、今回は丸三日かかったわ」

 エリンが腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らす。


 「アルドナ、言っておくけど、次に打ち直すときはもっとマシな素材を持ってきなさい。……竜の血で変質した鉄なんて、普通の職人なら見ただけで逃げ出すわよ。叩くたびに、あいつの叫び声が頭に響くんだから」

 「……わかっているわ。次は、もっと質のいい魔石を手に入れてくる。……こいつを満足させるだけのものを」


 アルドナは無造作に右腕を伸ばし、大剣の柄を握った。

 その瞬間だった。彼女の右腕――肩から手首まで、何重にも、それこそ呪いを封じ込めるように巻かれた包帯の隙間から、不気味な脈動が走った。

 ドクン、と。

 心臓の鼓動とは明らかに異なる、重く、粘り気のあるリズム。包帯がわずかに浮き上がり、そこから銀色に光る硬質な鱗が、一瞬だけ覗いた。


 「姉さん、あまり無理をしないで。エリンの調律があったとはいえ、まだその右腕との同期は完全じゃないんだ」


 静かな、しかし工房の隅々まで染み渡るような通る声。

 シリュウスが、開いていた古い魔導書から顔を上げた。二十三歳。アルドナの弟である彼は、姉とは対照的に、穏やかな、しかしどこか底の知れない知性を感じさせる風貌をしている。鼻梁に載った眼鏡の奥の瞳は、常に冷静に周囲を観察していた。

 シリュウスは膝の上にある重厚な魔導書――金属の装甲で補強され、開くたびに魔法の術式が歯車のように噛み合う音がするそれを、愛おしそうに閉じた。


 「シリュウス、あんたもよ」


 エリンが腰に手を当てて、シリュウスを睨みつけた。彼女の瞳には、職人としての厳しさと、それとは別の、隠しきれない熱がこもっている。


 「その魔導書の結界演算の回路、また無理な拡張をしたでしょ。フィオラを守りたいのはわかるけど、自分の脳が焼き切れたら元も子もないわ。あんたが倒れたら、あの子はどうなるのよ」

 「……耳が痛いな。でも、ありがとう。君の支えがなければ、僕たちの旅は一歩も進まない」


 シリュウスは椅子から立ち上がり、エリンの元へ歩み寄った。エリンが差し出した、熱伝導率を極限まで高めた予備の銀板を受け取る。その際、二人の指先が触れ合った。

 一瞬の沈黙。

 工房の火の粉が爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえた。

 シリュウスの瞳に、わずかな躊躇いが浮かぶ。このまま、この温かな工房に留まりたい。このひとの隣で、ただの男と女として暮らしていけたら。そんな、叶うはずのない願いが、眼鏡の奥で儚く消えた。

 そんな兄の緊迫したやり取りを、工房の入り口にある古い木椅子に座り、じっと眺めている少女がいた。

 十八歳になったばかりのフィオラだ。

 琥珀色の瞳。その色は、この暗い工房の中で、唯一の灯火のように美しく輝いている。彼女は膝の上に置いた一本の杖を、まるで幼子が宝物を抱くように撫でていた。黒檀に似た深みのある木材に、誰の筆跡とも知れない歪な溝が刻まれた不思議な杖。


 「フィオラ」


 アルドナが、普段の厳しい声音とは少し違う、包み込むような低さで呼んだ。


 「……何か、聞こえるの?」


 フィオラはびくりと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。

 視線の先には、誰もいない空間。だが、彼女の瞳は確かに「何か」を追っている。


 「……いえ。ただ、この雨の音の裏側に、少しだけ。……この工房で、昔、熱を出しすぎて亡くなった男の子の声が」


 その言葉が出た瞬間、工房の空気がわずかに冷え、湿度が上がったように感じられた。

 エリンは一瞬だけ身を震わせ、苦笑いを浮かべて火床の火を掻き回した。鉄を打つことに誇りを持っている彼女にとって、目に見えない死者の存在は、どうにも扱いにくいものだった。


 「……やめてよ、フィオラ。あんたのその能力、便利だけど、夜に聞くと寝られなくなるわ。あたしの工房、幽霊屋敷にするつもり?」

 「ごめんなさい……エリンさん。でも、その子は怒ってないよ。ただ……お母さんの作ってくれたスープが、もう一度飲みたかったって。それだけ。……もう、満足したみたい。消えちゃった」


 フィオラは、寂しそうに、けれど慈しむように微笑んだ。

 彼女には、生まれつき「死者の残留思念」が言葉として届いてしまう。その力は、死者の無念を聞き取る恩寵であり、同時に、生者の世界から彼女を遠ざける呪いでもあった。

 幼い頃、彼女が虚空に向かって話し始めるたび、大人たちは「亡霊の代書人」と呼び、忌み嫌った。だが、その度にアルドナは剣を抜き、シリュウスは結界を張って、世界から彼女を隔離し、守り抜いてきたのだ。


 「……そろそろ、時間ね」


 アルドナが「裂界の牙」を背負い、革の外套を羽織った。剣の重みで、石造りの床が微かに音を立てる。


 「エリン、世話になった。……行くわよ、二人とも」


 アルドナが扉の閂を外すと、冷たい雨の匂いと、春を待ちきれない湿った風が一気に流れ込んできた。

 エリンは、工房の入り口まで三人を追いかけた。彼女の瞳には、今にも零れそうな涙が浮かんでいたが、彼女はそれを、鍛冶師のプライドで強引に飲み込んだ。


 「……あんたたち。絶対に、死ぬんじゃないわよ」


 エリンの声が震える。雨音に負けまいと、彼女は叫ぶように言葉を紡いだ。


 「武器が壊れたら、どんなに遠くても送りなさい。私が、命をかけて直してあげる。……特に、シリュウス。あんた、もし死んで帰ってきたら、墓を掘り起こしてでも説教してやるから! わかった!?」


 シリュウスは一瞬だけ立ち止まり、振り返った。

 雨に濡れる眼鏡を直し、エリンの手を、一度だけ強く、確信を持って握った。


 「……ああ。約束するよ、エリン。君が打ったこの装備が、僕たちを導いてくれる。君がこの村にいる限り、僕は必ず戻ってくる」


 三人は、雨の中へと足を踏み出した。

 フィオラは、最後にもう一度だけ工房を振り返る。

 そこには、泣きそうな顔を必死に隠して手を振るエリンと、その背後にうっすらと浮かぶ、未練を残した魂たちの淡い光が見えた。死者たちの声は、雨音にかき消され、もう聞こえない。


 (……みんな、何かを遺して、死んでいく)


 フィオラは杖を握る手に力を込めた。

 自分たちが何者であるか。どこへ向かおうとしているのか。

 この村の誰も、彼らがかつて「獅子の牙」と呼ばれた英雄の血を引く者たちだとは知らない。ただ、「アンバー」というありふれた、偽りの名を名乗り、今日から地底回廊への最初の依頼をこなす、流れの冒険者。

 雨音は、三人の歩調に合わせて強まり、その足音さえも消し去っていく。

 三人の行く先にあるのは、ただただ暗い雲が垂れ込める、灰色の空と、ぬかるんだ土の道だけだった。


 「お姉ちゃん。……今日の雨、なんだか冷たいね」

 「……そうね。でも、土の中の種には必要な雨よ。さあ、行くわよ」


 アルドナの足取りは力強く、迷いがなかった。

 だが、その右腕を覆う包帯に、雨水が染み込む。水を含んだ布は重さを増し、その下にある銀の鱗が、以前よりも不気味な光沢を放ち始めていた。

 一歩、また一歩。

 村の出口、長い年月風雨に晒された古びた石の門をくぐった、その時だった。

 フィオラの耳に、今まで聞いたこともないような、巨大で、重苦しい「死者の呼び声」が届いた。

 それは、一人や二人の声ではない。何千、何万という魂が、地の底から、あるいは天の彼方から、一斉に叫び声を上げたような――震えるほどの、深い深い絶望の音。


 「……っ!」


 フィオラは杖を落としそうになりながら、自分の耳を塞いだ。

 横を歩くアルドナも、先を歩くシリュウスも、何事もなかったかのように雨の中を進んでいく。この声は、彼女にしか聞こえない。


 (なに……? 今の……。誰か……誰かが、あんなに怖がってる……)


 それが、彼女たちの運命を決定的に変えてしまう「始まり」だとは、まだ誰も気づいていなかった。

 フィオラは、震える足で兄と姉の背中を追いかけた。

 灰色の霧に包まれたアイゼン村の姿が、少しずつ、雨の向こうへと消えていく。


 次回、『第2話 芽吹きの陽光月・朝霧の乳白』


 ――アイゼン村を後にした三兄妹を待っていたのは、すべてを白く塗り潰すような深い霧だった。


 ご拝読ありがとうございます。次回をお楽しみに!

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