8.可哀想じゃない
その後、イヴァン様と別れ、ヴェルナ様と庭を歩いていると、ヴェルナ様にこう尋ねられました。
「イヴァンさまのこと、苦手ですか?」
心臓を掴まれたような気持ちになりました。
ヴェルナ様は、イヴァン様が質問したことを、話している間もずっと覚えていらっしゃったのでしょうか?
僕が、イヴァン様のことを苦手に思っているかもしれないと、気を遣わせてしまったでしょうか。
僕がもっと上手く対応していたら、隠すことができていたのでしょうか。
……でも。
真っ直ぐなヴェルナ様を騙すことは、悪いことなのではないでしょうか。
何が正解なのか、どうしたらいいかわからなくて、途方に暮れて黙り込む僕。
気まずい沈黙が訪れて、……先に口を開いたのは、ヴェルナ様でした。
「ヴェルナは、シエノークにいさまのこと、苦手な人から守りたいです。イヴァンさまのこと苦手なら、ヴェルナ、イヴァンさまからシエノークにいさま守るです。近づいちゃだめってするです」
ソバキン家の本邸は、すぐそこです。
足を止めました。
本邸に到着して、中に入ってしまったら、もう、この話ができないような、そんな気がしたのです。
話がここで終わったら、ヴェルナ様が僕を守ってくれることになる気がしたのです。
それは、いけません。
ヴェルナ様もつられて足を止めて、不思議そうに僕を振り返ります。
僕は、ヴェルナ様を真っ直ぐ見返して、言葉を紡ぎました。
「イヴァン様のことは苦手です。でも、それは、僕が隠し事をしているからです。イヴァン様は鋭いから、イヴァン様に隠し事を見破られてしまいそうで怖いのです」
「……かくしごと……?」
隠し事の内容は言えません。
傷跡が治らないでほしいなんて言って、『前』みたいに『おかしい』『そう思うようにしたシエノークの父は酷い人間だ』って言われたくないから。大好きな皆様に大好きなお父様を否定してほしくないから。
でも、なにもかも全て話さなかったせいで、優しいヴェルナ様に僕のことを守らせてしまったり、そのせいでイヴァン様が悲しんでしまったりしたら、それは、よくないことだと思うのです。
僕は一度小さく息を吐いてから、続きを言いました。
「イヴァン様はなにも悪くないのに、僕が隠し事をしているせいで、イヴァン様のことが怖くなっているのです。僕が隠し事をしているのが悪いのです。僕が悪いだけなのに、ヴェルナ様がイヴァン様を僕から遠ざけようとしたら、きっとイヴァン様は悲しんでしまいます」
だから、
「だから、守らないでください」
僕に、守る価値なんてないのです。
僕の言葉に、ヴェルナ様は俯きます。僕の手をにぎにぎして、考え込んでいる様子です。
「…………わかったです。イヴァンさまに、シエノークにいさまに近づいちゃだめってするの、やめるです」
でも、と、言葉を続けるヴェルナ様の目には、涙が溜まっているようでした。
「ヴェルナ、シエノークにいさまが怖いの、悲しいです」
……だったら、怯えてばかりの僕は、ヴェルナ様をこれからも悲しませ続けるのでしょうか。
これ以上悲しそうなヴェルナ様を見たくなくて、手を繋いだまま、逃げるように歩き出しました。
******
ヴェルナ様は、僕が『守らないで』と言った日から、時折沈んだ表情を見せるようになりました。
普段は今まで通り明るい様子で、勉強したり、離れに遊びに行ったり、イヴァン様を夕飯に誘ったりするのですが、会話がなくなった時にふとヴェルナ様を見ると、ぼんやりと俯いていたりするのです。
せっかく勇気を出して守ると言ってくださったのに、断ってしまったから、酷く傷ついたのかもしれません。
ソバキン夫妻やイヴァン様、ヴェルナ様と仲のいい使用人さんにはヴェルナ様が沈んでいるのが伝わったようで、ヴェルナ様を気にかけている様子でしたが、僕に何か質問することはありませんでした。
不自然なくらい、なにも聞かれませんでした。
皆、僕のせいだと知っていて、僕が自分から罪を告白するのを待っているのかもしれないと、そう思いました。
それでも僕は、『ヴェルナ様は僕のせいで悲しそうなのです』とは言えませんでした。
どうしてそう思ったのか、何を知っているのか聞かれて、そうして、あの日のことも、傷跡のことも、お父様が大好きなことも、洗いざらい話してしまいそうだったからです。
全てを言って、『父親につけられた傷を治したくないなんておかしい』『そんな父親が好きなんておかしい』と言われたら、壊れてしまいそうだったのです。
僕は、大好きな人を信じたいのです。
お父様が大好きです。ソバキン家の皆様が大好きです。
大好きな人を、皆信じたいのです。
それなのに、大好きな人が大好きな人を否定したら、僕はどちらを信じるか選ばなくてはいけなくなってしまいます。
早く国立学園の入学の日になって、何も選ばないままこの家から逃げてしまえたらいいのにとすら思うのです。
******
そうやって目を逸らしながら過ごしていた、ある日のこと。
お父様のことやヴェルナ様のことを考えて眠れていなくて、その日はずっと頭に靄がかかったような状態でした。
そうして、ふらふらしながら廊下を歩いていると、足がもつれ、床に倒れ込んでしまいました。
「シエノークにいさま!?」
「シエノーク!?」
ヴェルナ様とイヴァン様の声が、少し遠くの方から聞こえました。
あぁ、情けないところを見られてしまった、と、恥ずかしい気持ちになりながら、体を起こします。
真っ先に僕に駆け寄ったのは、騎士の服を着た人でした。
ちょうど隣にいたのでしょうか。
おそらく、イヴァン様の護衛のためにやってきて、ソバキン家で待機していたのでしょう。
「大丈夫ですか?シエノーク様」
そう言って、その人が、
知らない手を、
勢いよく
僕に、
……叩かれる、
「わん」
あ。
咄嗟に両手で口を押さえて、他の人の視線から逃げるように俯きます。
騎士の人は、僕を叩こうとしたのではなくて、手を差し伸べてくれたのだろうと、遅れて気がつきます。
……普段ならこんなヘマはしないのに。
睡眠不足で気が散っていたせいでしょうか。ありえない勘違いして、犬の返事をしてしまいました。
聞かれてしまった?
騎士に、イヴァン様に、ヴェルナ様に。
『前』みたいに、気持ちが悪いと思われるでしょうか?
怯えた目を向けられるでしょうか?
『ヴェルナにだけは近づかないで』と言われるでしょうか?
一気に様々なことを考えて震える僕に、騎士が声をかけました。
「……シエノーク様、怯えなくて大丈夫ですよ。私は貴方の父親のように貴方を痛めつけたりはしません」
「……っ、」
「今まで怖かったですよね。貴方の父親はもうどこにもいませんから、安心してください」
「……ゃ、やめ、」
「……あぁ、こんなに怯えて……、かわいそうに」
「なんで、」
「酷い父に苦しめられて……」
「ちがい゛ます!!」
無様にひっくり返った大声が、廊下に響きました。
顔を上げて、驚いて目を見開く騎士を睨みつけて、慣れない大声を出して、僕は叫びます。
「お父様は酷い親じゃありません゛!!お父様は正しかったんです!!」
「シエノーク様、」
「お父様は僕を愛して躾けてくれたんです!!僕はかわいそうなんかじゃない゛!!僕は、……」
続きを言いかけて、ようやく、騎士の向こうにいるヴェルナ様が視界に入りました。
固まって、こちらを凝視するヴェルナ様。
『あーあ。おかしいの、バレちゃいましたね』
僕の耳元で、知らない男の人が囁く声が聞こえた気がしました。
『でも、よかったんじゃないですか?どれだけ隠したって、いつかは露呈するんですから。バレたのが今なら、まだ傷は浅いですよ。まぁ、それでも致命傷でしょうが』
……いや。
知らない男の人なんかじゃありません。
そうです、僕は、この人をよく知っています。
『そのくらい、僕なら慣れっこですよね』
この声は、『前』の僕の声。
「うん。お前の父親は、酷い父親じゃないよ」
耳にこびりつきかけていた声を溶かして流すような、別の男の人の声。
それから、背中があたたかくて少し硬い何かに包まれる感触。
その声は、感触は、イヴァン様でした。
イヴァン様は、僕を背中から抱きしめて、ゆったりした一定のリズムで僕の太ももの痛くないところを叩きながら、僕に言葉をかけます。
「こんなに息子に愛されてる父親が、酷い父親なわけねェよ」
それは、僕が一番欲しかった言葉。
「こんなに『愛されてた』って感じることができてるお前は、可哀想な子供でもない」
それは、僕が一番言いたかった言葉。
「………………ぁ」
目の辺りが熱くなって、ボロボロ液体がこぼれ落ちる感じがしました。
こけたせいで血でも流れたのでしょうか。と思って下を見たら、液体は透明で、一拍置いてから、涙だってわかりました。
この人なら。
この人なら、わかってくれるかもしれません。
僕は、縋るような気持ちで口を開いていました。
「……ぼく、……」
「んー?」
「おとうさまが、だいすきだったん゛です」
「おー」
「だいすきなおとうさまに、しつけて、あいしてもらえて、だから、かわいそうじゃない゛……」
「そーだなァ」
「しあわせだったんです」
「うん」
「……ぼく、かわいそうじゃなくていいのですか?」
「いいよー」
「しあわせでいいのですか?」
「もちろん」
「かわいそうじゃなきゃ、ふしあわせじゃなきゃ、おかしいのに」
「おかしくないって。お前が幸せだったかどうかは、お前しかわかんねェのに、勝手に決めつけて、おかしい、違う、って言う方がおかしい」
「でも、みんな、そういいます」
「そりゃ、貴族と貴族の周りの奴らだろ」
瞬きすると、涙がボロボロ落ちました。
イヴァン様を振り返れば、イヴァン様は、口の片端を上げて、平民らしい口調で言いました。
「教会にはさ、お前みたいに傷だらけでやってくる子供がいるんだ。そいつらの中には、自分を傷つけた人のことが好きだって言うやつもいる。そういうもんなんだよ。そういうもんなんだって、俺は思ってる。わかってるやつらは、おかしいなんて言わねェよ」
お前は、おかしくないよ。
その言葉が、傷ついたところに入り込んで、癒してくれたような気がしました。
ああ、そうか。
ようやく、気づきました。
この人の鋭い目は、相手の弱点を見つけて抉るためにあるのではなくて、本人すら気づかない傷を見つけ出して手当するためにあるのです。
「シエノークにいさま……」
前を向けば、騎士はいつの間にか離れていて、ヴェルナ様がすぐ近くにいました。
「おーヴェルナ嬢。ヴェルナ嬢はどう?シエノークはおかしいやつだって思う?」
「思わないです!」
即答するヴェルナ様に、僕はぽかんとしてしまいました。
そんな僕たちを見て、「だよなァ」くつくつ笑うイヴァン様。
その様子を、ぼんやりと見て……、
……やがて、思いました。
僕をおかしくないと言ってくれるイヴァン様なら、おかしいと思わないと即答してくれるヴェルナ様なら。
傷のことも、否定しないでいてくれるかもしれません。
荒れていた呼吸を落ち着かせて、僕は慎重に話し始めます。
「………………あの、僕……、……早く傷を治して、ヴェルナ様とお庭で遊びたいです。でも……、」
口を開いた僕に、二人の視線が集まります。
怯みそうになりましたが、この人たちなら大丈夫と言い聞かせ、勇気を振り絞って、なんとか続きを告げました。
「…………傷が、治ってほしくないなって気持ちも、あります」
「……なんで?」
「……、……お父様がいなくなって、ソバキン家に来て……、お父様を感じられるものが、なにもなくなって。残ったのが、この傷だけ、だから……、……この傷が治ったら、お父様との繋がりもなくなっちゃう気がして、怖いのです」
「なるほどなァ」
イヴァン様が少し考えるそぶりを見せてから、「じゃ、ヴォルコ家からシエノークの父親の持ち物持ってこれたら、傷をとっとく必要はなくなるんじゃないか?」と言いました。
つっかえていたものが、すとん、と落ちるような感覚。
「…………そ、れは……、…………そうかもしれません。それが、できるなら」
ソバキン家の皆様は、僕がお父様に関するものに触れるのを避けていたように見えたから、それなのにお父様のものを持ってきてもらうように頼むなんて、全く思いつきませんでした。でも、言われてみれば、その通りです。
本当にそれができるなら、僕はもう、この痛みに固執しなくてもいいのです。
「できるだろ。てか持ってこさせる。俺が。王子だから」
……さっきまで平民ぶっていたのに、随分調子のいい王子様です。
思わず笑ってしまうと、同じタイミングでヴェルナ様の笑い声も聞こえて、……思い出しました。
これを、ヴェルナ様に言っておかなくてはいけません。
「……あ、……ヴェルナ様、僕の隠し事、そのことでした。……傷を残したいって言って、皆様に、お父様と傷で繋がってたいなんておかしいとか、言われたら、すごくつらいって思ったから、だから……」
ヴェルナ様は、僕の言葉に瞬きして、「そうだったのですか……」と言ってから、きっ!と真剣な顔をしました。
「大丈夫です!ヴェルナ、おかしいって言わないです!それで、もしも、おとうさまとおかあさまが『おかしい』って言ったら……、そのときは、おとうさまとおかあさまに、そんなこと言っちゃだめってするです!だから、大丈夫です!」
その剣幕に、今度は僕が瞬きして、それから、ふにゃりと笑いました。
「……はい。守って、ほしい、です」
一週間前とは、反対の言葉。
僕が『おかしい』から、後ろめたくて言えなかった言葉。
おかしくないと言ってもらえて、ようやく言えました。
ヴェルナ様は大きく目を見開いて、それから、輝くような笑顔を浮かべました。
「はいです!任せてくださいです!」
「ありがとう、ございます」
僕は深く息を吐いて、「……もう、怖くないです。傷がなくなることも、おかしいって言われることも、イヴァン様のことも……」と、呟きました。
え?俺?という声がした後、……スッと、先ほどの騎士が目の前に現れます。
思わず身構える僕たちに、騎士は頭を下げました。
「申し訳ありませんでした、シエノーク様。……わかったようなことを言って、傷つけてしまいました」
……なるほど。
こんな小さな僕を本気で心配して、手を差し伸べて言葉をかけて、かけた言葉が間違っていたとわかったら、素直に誠実に謝ってくれるこの人は、きっと、とってもいい人なのでしょう。
……だけど。
「……僕も、大声を出してごめんなさい。……もう大丈夫です、けど」
すごく傷ついたのも本当だから。
ほんの少し、お願いを聞いてもらいたいところ、です。
「罰として、イヴァン様が平民口調になったの、内緒にするって約束してください」
「……え?」
へ?と、騎士と同時に間抜けな声を出すイヴァン様。
「イヴァン様、王国から平民口調使うのダメって言われてるんだと思うから……」
これは、護衛を見てから取り繕っていた様子を見て、勝手に予想したことですが。
「……そ、れは、そうですね」
騎士が頷いたということは、そうなのでしょう。
「だから、イヴァン様が平民口調を使ったことについては、内緒にするって約束してください。さっきのは、僕を安心させるためにあえて使ってくれたんだと思うから、それでイヴァン様が罰を受けたら、嫌です」
「……そうですね。わかりました。約束します」
話がわかる護衛でよかった。僕はふわりと微笑みました。
「はい。よろしくおねがいします」
騎士に下がってもらって、イヴァン様から抜け出して立ち上がります。
「おー……、たすか……りました。ありがとうございます、シエノーク殿?」
「こちらこそ、イヴァン・アポ・ツェントル第三王子」
あえてかしこまった返事をして、二人で笑いました。
「シエノークにいさま、イヴァン様、この後離れで勉強しましょう!ヴェルナ、離れでやるのが好きです!」
離れのイヴァン様が好きだから!と言うヴェルナ様に、慌てて周囲を確認するイヴァン様。離れで平民口調使ってるの内緒だからな……!?とこっそり念を押すその様子がおかしくて、僕はまた笑いました。
恐怖なんて、もうどこにもありませんでした。
『前』の僕の声だって、もう聞こえません。