守りたいのです sideヴェルナ
シエノークにいさまが来てから、ヴェルナの毎日は、とっても楽しくなりました!
一人でお夕飯を食べなくてよくなって、なにより、退屈なときにシエノークにいさまのお部屋に行ったら、いつでもお話してくれるのです!
「それでね、内緒ですよ?ヴェルナ、こっそり厨房に入ってみたのです。そしたら、りんごがこーんなにあって!」
「そんなにたくさん……。使用人さんも、みんなお腹いっぱいになれそうですね」
「そうなんです!そのくらいあったのです!ヴェルナ、見てるだけでお腹いっぱいになりました!」
いつもヴェルナばっかりお話ししちゃうけど、シエノークにいさまはにこにこしながらずっとずっと聞いてくれました。
ヴェルナはお話がへたっぴだから、大人の人にお話しすると、よく聞き返されます。そうして、伝わらなかったって、悲しくなります。でも、シエノークにいさまは、ヴェルナの心が読めるのかなって思うくらいヴェルナが言うこと全部わかってくれて、聞き返したり、うんざりした顔をしたりしませんでした。
まだあんまり動けないシエノークにいさまに、もっともっと楽しい話をしようって思うから、楽しいことを探すようになって、ヴェルナの毎日はどんどん楽しくなっていきました。
シエノークにいさまが来てから明るくなったって、おとうさまにもおかあさまにも、使用人さんにも言われました。
シエノークにいさまはすごいのです。国立学園で習う内容を、もういっぱい知ってるって、先生が言っていました。シエノークにいさまは、きっと優秀な領主になるって。
ヴェルナも将来、ソバキン領の領主になるから……、優秀なシエノークにいさまと一緒にお仕事するために、ヴェルナもいっぱい頑張ろうって思いました。
それで、今までよりお勉強を頑張るようになって、そうしたら、お勉強ってとっても楽しいんだってことにも気が付きました。
それもこれも、シエノークにいさまが来てくれたおかげです。
どうしましょう。ヴェルナ、シエノークにいさまのこと大好きです!
おとうさまに、イヴァンさまが来るって言われたとき、前の夏のことを思い出して、……大好きなシエノークにいさまが、イヴァンさまに怒られて怖い思いをしたら嫌だなって思いました。
だから、ヴェルナが守りますってシエノークにいさまに言ったら、イヴァンさまに何かされたのか聞かれました。
ヴェルナは、前の夏のことをシエノークにいさまにお話ししました。
その後、なんだかシエノークにいさまの様子がおかしくなって、ぼんやりとしながら、僕は『兄』だから謝罪させなきゃって、言っていました。
なんだか嫌な感じがしたけど、シエノークにいさまの言ってることも間違ってる感じがしなくて、だからなにも言えなくて、もやもやしたまま話が終わってしまいました。
ヴェルナは、なにが嫌だったんでしょう?
イヴァンさまがやってきて、シエノークにいさまがイヴァンさまとお話しして、そうしたら、イヴァンさまは本当に謝ってくれました。
怒ってたとか、ヴェルナが嫌いだったとか、そういうわけじゃないって言ってくれました。
ヴェルナ、イヴァンさまのこと勘違いしてたんだって恥ずかしくなりましたが、イヴァンさまが『ヴェルナ嬢なら離れに来てもいい』って言ってくださって、恥ずかしい気持ちも吹き飛びました。
それなら、シエノークにいさまも連れて行っていいでしょうか!?
シエノークにいさまとイヴァンさまのところに遊びに行けたら、それは、きっとすごく楽しいです!
その後すぐ、シエノークにいさまがイヴァンさまに最後の挨拶をしてしまったから、イヴァンさまが行ってしまいそうになって、ヴェルナは慌ててシエノークにいさまも離れに行っていいか尋ねながら、シエノークにいさまの腕を引いて、
……シエノークにいさまが痛そうな声を出しました。
シエノークにいさまの声を聞いたイヴァンさまが、着替えさせてやってくれって言いました。傷跡が擦れてるって。
ヴェルナが、
ヴェルナが引っ張ったから、痛くなった?
「シエノークにいさま、ヴェルナが引っ張ったの、痛かったですか……?」
聞かなくたってわかっていたのに、ヴェルナはシエノークにいさまにそう尋ねていました。
「いえ、大丈夫ですよ。このくらい慣れっこです」
そう言って、何事もなかったかのように、いつも通りに笑うシエノークにいさまは、痛くなかったとは言いませんでした。
痛かったのです。
声が出てしまうくらい痛かったのです。
ヴェルナが大好きなシエノークにいさまに痛い思いをさせたのです。
この家に来たとき、あんなに弱って、今にも消えてしまいそうだったシエノークにいさまに。
ヴェルナが、シエノークにいさまを傷つけたのです。
守りたかったのに。
涙が我慢できなくて、泣きながら謝って、シエノークにいさまを困らせてしまいました。
その後、皆でシエノークにいさまの傷跡を確認して……、もっと悲しい気持ちになりましたが、すぐにイヴァンさまが『治療でましになる』って言ってくださって、少しだけほっとしました。
「ヴェルナ嬢、そんなに泣くとみんな悲しいぜ。……触ったら痛む傷は、この辺の盛り上がった傷だ。今度から、このあたりには触らないことと、急に手を引っ張らないってことに気をつける。これでおしまい。な?」
そう言って、ヴェルナを泣き止ませようとしてくれるイヴァンさま。
ヴェルナは、素直に「……、は、い……。気をつける、です」と頷きました。
「……ヴェルナ様、申し訳ありません……」
傷の確認が終わって、シエノークにいさまが部屋着を着てから、シエノークにいさまがそう言いました。
「……え?」
「悲しい思いをさせて、泣かせてしまいました」
「えっ、シエノークにいさまは悪くないです!」
悪いのは、ヴェルナなのです。シエノークにいさまに痛い思いをさせて、勝手に泣いたヴェルナが悪いのです。
「……。……そう、でしょうか。……僕は、『兄』らしいことも、なにも言えなくて……。……これじゃ、イヴァン様の方が『兄』ですね」
そう言って、悲しそうに微笑むシエノークにいさま。
ヴェルナの息が詰まりました。
シエノークにいさまは、そんなにヴェルナの『兄』でいたいのでしょうか。
……ヴェルナの頭に、シエノークにいさまと会った日のことが浮かびました。
きっと違います。シエノークにいさまは、『兄でいたい』のではなくて、『兄でいなきゃ』と思っているのです。
シエノークにいさまは、ヴェルナが、にいさまになってくださいって言ったから、きっと、それからずっと、兄でいなきゃって思っていたのです。シエノークにいさまは優しいから、ヴェルナに言われたことを守ろうってしてくれていたのです。
シエノークにいさまが『兄だから謝罪させなきゃ』って言ったとき、嫌な気持ちになった理由がわかりました。
シエノークにいさまが、『兄』として頑張らなきゃって、『そうじゃなきゃだめだ』って思っていそうだったのが、嫌だったのです。
だって、兄じゃなくてよかったのです。きょうだいじゃなくてよかったのです。話を聞いてくれればそれでよかったのです。ヴェルナと一緒にいてくれればそれでよかったのです。
そのことを教えてくれたのは、誰でもない、シエノークにいさまです。シエノークにいさまが一緒にいてくれたから、ヴェルナは、ヴェルナが本当にほしかったものに気づけたのです。
イヴァンさまはたしかに『兄』みたいですが、イヴァンさまがいたらシエノークにいさまはいらないなんて、思いません。
ヴェルナが大好きなのは、大好きになったのは、『兄』じゃなくて、『シエノークにいさま』だから。
「……ヴェルナは、『シエノークにいさま』が好きです!」
ヴェルナは、お話がへたっぴです。
それでも、伝えました。
いつだってヴェルナの言いたいことをわかってくれたシエノークにいさまなら、きっとわかってくれると思ったから。
「イヴァンさまのほうが『兄』らしいとか、ヴェルナ、わかんないです。ヴェルナ、なにが『兄』らしいのか、知らないです。でも、もしも、イヴァンさまの方が兄らしくっても、ヴェルナは『兄』じゃなくて『シエノークにいさま』がいいから、いいのです。『兄』らしくなくって、いいんです!ヴェルナは、『シエノークにいさま』のことが、大好きだから!」
だから、悲しいお顔しないでください。そう言って、両手でシエノークにいさまのほっぺたを包みました。
そうしたら、シエノークにいさまの目がまんまるになって、それから、美しいお顔で笑って、「ありがとうございます」って言ってくれました。
その笑顔は、心からの笑顔に見えました。
やっぱり、わかってくれました。
******
イヴァンさまに、傷跡を治療した後なら、シエノークにいさまも離れに行っていいって言ってもらえて、ヴェルナの楽しみが増えました。
早くお医者様が見つかって、元気になってくれたらいいなって思いました。
イヴァンさまが来た次の日、シエノークにいさまと離れに行くのが楽しみで、いてもたってもいられなくなって……、ヴェルナだけで離れに行ってみることにしました。
シエノークにいさまが行っても危なくないか、ヴェルナが『ていさつ』するのです!
……イヴァンさまがいるところが危ないはずないから、本当は、ヴェルナが行きたくなっただけだけど……。
その日は雪が降っていたから、寒くないように服をたくさん着て準備しました。
準備を終えて、出発!しようと扉を開けて、
……こんな言葉が聞こえてきました。
「外道だな、ヴォルコ伯爵は」
げどう。
ヴェルナは、その意味を知らなかったけど、なんだかすごく酷い悪口な気がして、固まってしまいました。
ヴォルコ伯爵って、シエノークにいさまのことです。シエノークにいさまが、悪く言われているの?
でも、その人たちは、ヴェルナもよく知る、ソバキン家の使用人さんでした。シエノークにいさまはいい子だねって、たくさん言ってくれた人たちでした。だから、そんなわけないってすぐに思いました。
使用人さんたちは、ヴェルナがいるのに気づかずに話し続けます。
「本当ですよ。シエノーク様が本当に可哀想で……。火傷痕も切り傷も、鞭の痕も酷くてね。せめて体重は増えてきているようでよかったですが、……子供を皆してあんな姿にさせるなんて、ヴォルコ家は何かに取り憑かれていたのでしょうかね……」
「少なくとも、ヴォルコ伯爵、……元伯爵か。元伯爵は、どこかおかしかったんでしょうねぇ」
「そうですね。実の息子を死にかけるまで虐待する精神なんて、まるで理解できませんよ」
「……あぁ、そういえば王都でも……」
聞いているうちに、悪く言われてるのは、シエノークにいさまじゃなくて、シエノークにいさまのお父様だってわかりました。
……シエノークにいさまは、『かわいそう』なの?
……シエノークにいさまのお父様は、『おかしかった』の?
この優しい使用人さんたちが言うなら、それは、きっとそうなんだと思いました。
でも、でも、そんなこと言わないでくださいとも思いました。
だって、もしもヴェルナが、ヴェルナのことや、イサクお父様のことそんな風に言われたら、……すごく、悲しいです。
……目の前を、黒い影が通り過ぎました。
すごい勢いで走るその影は、……泣きそうな顔をした、シエノークにいさまでした。
「……シエノークにいさま!?」
シエノークにいさまは、ヴェルナの呼びかけに振り返ることもなく、走って行ってしまいました。
聞こえていなかったのでしょうか。
追いかけようとして、
……もしも追いついても、ヴェルナは今のシエノークにいさまに何を言っていいかわからないって思いました。
もしかしたら、もっと悲しませるようなことを言ってしまうかもしれません。
途方に暮れて、使用人さんの方を振り返りました。
使用人さんたちは、ヴェルナがシエノークにいさまの名前を呼んだことで、ようやくヴェルナとシエノークにいさまがいたことに気が付いたみたいで、驚いた顔をしていました。
使用人さんたちは、シエノークにいさまが泣きそうな顔をしていたのに、気づいたでしょうか。
……いいえ、きっと、気づかなかったのでしょう。
なら、言わなきゃ。
見ていたヴェルナが、言わなきゃ。
「シエノークにいさま、泣きそうな顔してました」
ヴェルナの言葉に、二人はもっと驚いた顔をして、それから気まずそうに床を見ました。
「……シエノークにいさまが、ここに来る前どんなふうに過ごしてたのか、ヴェルナ、聞いてないからわからないです。でも、でも、もしも、ヴェルナが、ヴェルナのことかわいそうって言われたら、イサクおとうさまはおかしいって言われたら、すごく悲しいから、だから、シエノークにいさまも、悲しかったんだと思うです」
シエノークにいさまの気持ちを考えながら話していたら、ぽろぽろ、涙がこぼれていました。
……ヴェルナの言葉で、伝わるかわからなかったけど、でも、でも、これも、伝えなきゃ。
「シエノークにいさま、とっても静かで、いても、いるってわからないときあるです。だから、ソバキン家でお話しするときは、どこで話してても、シエノークにいさまはいないって思ってても、シエノークにいさまが聞いてるかもしれないです」
これは、シエノークにいさまと一ヶ月過ごして、気が付いたことでした。
シエノークにいさまは、きっと誰にも気づかれないで、お話を聞くことができてしまうのだと思います。
だから、だから、
「おねがい、です。シエノークにいさまがいるこのおうちで、シエノークにいさまが悲しくなること言うの、やめて、ください……」
この家で、シエノークにいさまの家族を悪く言わないで。
使用人さんたちは、慌ててヴェルナに駆け寄って、背中をさすりながら、「ごめんなさい」「気を付けます」と言ってくださいました。
ヴェルナのお願いは、なんとか伝わったみたいです。
でも、もう、『ていさつ』する気にもなれなくて、その日はおうちの中で過ごしました。
******
次の日、少しだけ悲しいのが落ち着いて、改めて離れに行くことにしました。
『ていさつ』のためではなくて、昨日の話を、誰かに聞いてほしかったからです。
おとうさまもおかあさまも、使用人さんも、みんないつも忙しいし、シエノークにいさまにはお話しできないから……、お話しがゆっくりなヴェルナが全部話すなら、イヴァンさましかいないと思ったのです。
「よく頑張ったなァ。偉いぞ、ヴェルナ嬢」
イヴァンさまは、ヴェルナの話を全部聞いた後、そう言ってくれました。
褒められるなんて思っていなくて、なんだかくすぐったい気持ちになりました。
だけど、ヴェルナには、心配なことがありました。
「……でも、あのあと、やっぱり使用人さんが言ってたことは正しかったのかなって思いました。使用人さんたちは、とってもいい人たちで、大人で、ヴェルナよりいろんなこと知ってるから、使用人さんが正しくて、ヴェルナが間違ってたんじゃないかなって思いました。正しいことを言ってたのに、正しいこと言うのやめてって言っちゃ、だめだったかなって……」
「や、ダメじゃねェよ」
ヴェルナが心配していたことを打ち明けると、イヴァンさまはあっさりと答えました。
「むしろ、ヴェルナ嬢がしたことは、シエノークにとって一番いい行動だった。俺がその場にいたら、ヴェルナ嬢と同じことしてたよ」
「イヴァンさまも……?」
「うん。……シエノークにその話をするのは、もう少しシエノークが元気になってからじゃなきゃだめだ。少なくとも、その話を聞いて、泣きそうな顔で走り出してしまううちは、だめだ。壊れちまう。……どこで話してもシエノークが聞いてしまう可能性があるなら、ヴェルナ嬢が言ったようにあの家でその話題を出すのは絶対禁止だな」
イヴァンさまにそう言ってもらえて、……ヴェルナは間違ってなかったんだって、ようやく安心しました。
「ヴェルナ嬢も言うとは思うけど、俺からもソバキン夫妻に『使用人がシエノークの父親の話題を出さないように言いつけた方がいい』って言っておくよ」
「は、はい!ヴェルナ、お話しへたっぴだから、あんまり伝わらないことあるです。イヴァンさまのほうが、上手にお願いできると思うです」
「下手か?よく話せてると思うけどな」
首を傾げるイヴァン様。本当にそう思っていそうな様子に、ヴェルナはびっくりして、それから照れました。
……もしかしたら、シエノークにいさまにいっぱいお話ししたから、お話しが上手になってきているのかもしれません。
「あ、わかってると思うけど、俺達がソバキン夫妻を通して使用人を口止めするのはシエノークには内緒な?気にするだろうから」
「は、はいです!」
イヴァン様に相談してよかったです。
これで、もっともっとシエノークにいさまが過ごしやすいおうちになってくれたらいいなって思いました。
******
そのまた次の日、シエノークにいさまはお医者様に傷を診てもらうことができました。
お夕飯のとき、シエノークにいさまが、お医者様が『庭をゆっくり散歩するくらいなら構わない』って言ってくださったって、教えてくれました。
それはつまり、シエノークにいさまと一緒に、イヴァンさまのところに遊びに行けるってことです!
ヴェルナは嬉しくて、すぐに「なら、明日お散歩しましょう!イヴァン様のとこ遊びに行くです!」ってシエノークにいさまを誘いました。シエノークにいさまは頷いてくださって、次の日イヴァンさまのところに遊びにいくことに決まりました!
次の日、シエノークにいさまと手をつないで、離れに遊びに行きました。
……だけど、シエノークにいさまは、離れに入ってから、なにも話さなくなってしまいました。ソファに座ったとき、イヴァンさまとヴェルナの間にいたのに、イヴァンさまの方もヴェルナの方も見ようとしなくて、暗い顔でぼんやり床を見つめていました。
イヴァンさまも、変だなって気づいたみたいで、シエノークにいさまに声をかけて……、こんなことを尋ねました。
「……俺のこと苦手?」
シエノークにいさまは、「……いえ……」と、眉を下げて笑って、「人と話すのに慣れてなくて、なにを話したらいいかわからなくて。僕が静かだったせいで、不安にさせてしまったでしょうか。申し訳ありません」と、少し早口で答えました。
嘘だって思いました。だって、シエノークにいさまは、誰にだって、いつだって大人みたいにすらすら話すのです。イヴァンさまと初めて会ったときだって、そうだったのに。
……イヴァンさまが言うように、イヴァンさまのことが苦手だったのでしょうか?
ヴェルナが、イヴァンさまのところ行こうって誘ったの、嫌だったのでしょうか?
イヴァンさまは、すぐ話を変えて、それからはヴェルナと二人でお話ししていました。
でも、ヴェルナはシエノークにいさまのことが気になって、あんまり楽しんでお話しできませんでした。
離れから帰るとき、シエノークにいさまに、「イヴァンさまのこと、苦手ですか?」って聞きました。
シエノークにいさまは黙ってしまって、……違うって言いませんでした。
やっぱり、苦手だったんだって思いました。
イヴァンさまと三人で遊んだら楽しいって思ってたから、そうじゃなかったんだって悲しかったけど、でも、三人で遊べないことよりも、イヴァンさまと一緒にいることでシエノークにいさまがつらい思いをする方が悲しいって思いました。
ヴェルナだって、苦手な人います。コック長さん、怒ると怖いから苦手です。コック長さんと遊べって言われたらつらいです。
シエノークにいさまにそんなこと言いたくありません。
「ヴェルナは、シエノークにいさまのこと、苦手な人から守りたいです。イヴァンさまのこと苦手なら、ヴェルナ、イヴァンさまからシエノークにいさま守るです。近づいちゃだめってするです」
だから、大丈夫です。って言いたかったのに、シエノークにいさまが立ち止まって、言えませんでした。
シエノークにいさまを振り返ったら、シエノークにいさまのお顔の後ろに、沈みかけてるお日さまがあって、シエノークにいさまのお顔が暗くなってて、よく見えませんでした。
「イヴァン様のことは苦手です。でも、それは、僕が隠し事をしているからです。イヴァン様は鋭いから、イヴァン様に隠し事を見破られてしまいそうで怖いのです」
シエノークにいさまは、淡々とした声で、そう言いました。
「イヴァン様はなにも悪くないのに、僕が隠し事をしているせいで、イヴァン様のことが怖くなっているのです。僕が隠し事をしているのが悪いのです。僕が悪いだけなのに、ヴェルナ様がイヴァン様を僕から遠ざけようとしたら、きっとイヴァン様は悲しんでしまいます。だから、守らないでください」
シエノークにいさまは、それだけ言うと、黙ってしまいました。
ヴェルナは、シエノークにいさまの小さなおててをにぎにぎしながら、シエノークにいさまに言われたことを考えました。
隠し事は、ヴェルナもしています。花瓶を壊して隠したの、ずっと黙っています。イヴァンさまにそれを見破られるかもって思ったら、イヴァンさまが怖くなっちゃうの、わかります。
でも、たしかに、それで『近づいちゃだめ』って言ったら、イヴァンさまは悲しむと思います。シエノークにいさまの言う通りです。
なにより、大好きなシエノークにいさまに、守るのやめてってお願いされたら、ヴェルナは断れないです。
「…………わかったです。イヴァンさまに、シエノークにいさまに近づいちゃだめってするの、やめるです」
ヴェルナは、シエノークにいさまのお願いに、わかったって言いました。
……でも、でも、
お願いを聞いたからって、ヴェルナが『イヴァンさまが悲しむくらいなら、シエノークにいさまに怖い思いをさせるほうがいい』って思ってるとは、思わないでほしいのです。
ヴェルナは、シエノークにいさまが我慢したままでもいいって思ってるわけではないのです。
ヴェルナにとっては、シエノークにいさまが怖くてつらい思いをするのが、一番悲しいのです。
それを伝えたくて、ヴェルナはこう言いました。
「でも、ヴェルナ、シエノークにいさまが怖いの、悲しいです」
シエノークにいさまは、なにも言わずに歩きだしました。
お返事はありませんでした。
******
ヴェルナは、いっぱい考えました。
どうして、シエノークにいさまは無理をするのでしょう。
どうして、あんなに頑張るのでしょう。
ヴェルナは、シエノークにいさまのこと、なんにも知りません。
シエノークにいさまがこのおうちに来るまでどうやって過ごしてたか、なんにも聞いていないのです。おとうさまとおかあさまは言いたくなさそうだったから、ヴェルナも、聞かないように気をつけていました。
でも、シエノークにいさまの傷を見たり、使用人さんの話を聞いたりして、シエノークにいさまのおとうさまに、いっぱい酷いことされたんだっていうのは、もう知ってます。
シエノークにいさまは、『兄』になってくださいって言ったら、言われた通りに『兄』になろうって、無理して頑張る人。
だったら、今無理して頑張っているのは、誰かになにか言われたからなのでしょうか。
シエノークにいさまのおとうさまに、なにかになってくださいって言われたのでしょうか。
そんなことを、ずっとぐるぐる考えてたら、おとうさまとおかあさまに心配されてしまいました。
「シエノーク君のことで悩んでいるのかな」
「イヴァン様にも言われて、使用人には口止めしたわ。他にもなにか心配ごとがある?」
でも、ヴェルナはこのもやもやをどう伝えたらいいかわからなくて、なんにも言えませんでした。
イヴァンさまにシエノークにいさまのこと見てもらったらなにか変わるかなって、イヴァンさまを夕飯に誘ってみたけど、イヴァンさまは護衛の前では別人みたいになるから、そのときはシエノークにいさまにはなにも言ってくれなくて、シエノークにいさまは居心地悪そうにしていて……、余計なことしたかなって、悲しくなりました。
次の日、離れに行きました。
「イヴァンさま、シエノークにいさま見てて、なにか気づいたこととか、ないですか?」
「んー?」
ヴェルナが気づいてないなにかに気づいて、シエノークにいさまが無理してるの、どうにかしてくれないかなって思って、そう尋ねたけど……、
「ヴェルナ嬢のこと心配してたな」
それしか、言ってくれませんでした。
……ヴェルナが最近、いろんなこと考えちゃって、楽しく過ごせてないから、シエノークにいさまがそんなヴェルナを心配してるのは、ヴェルナもなんとなくわかっていました。
わかってたけど、どうしたらいいかわからなくて、どうすればいいか教えてほしくて、イヴァンさまに見てもらったのに……。
ヴェルナが泣きたい気持ちになっていると、イヴァンさまがこう言いました。
「教会のシスターが言ってた。小さい時についた深い心の傷が癒えるのには、最低でも数年かかる。人によっては、死ぬまで心の傷の痛みに苦しむこともあるって。……シエノークの問題は、今すぐ解決するもんじゃないんじゃねぇかな。……きっと、俺たちがどれだけ頑張っても、シエノークの心の傷は、すぐには癒えない」
イヴァンさまの言葉に呆然とします。
シエノークにいさまは、死ぬまで苦しむかもしれないの?
「……だから、焦らないのが大事って話」
イヴァンさまはそう言って、ヴェルナの頭を撫でました。
「ゆっくり、ゆっくり、時間をかけて癒えるのを見守ってるのが、結果的には、一番早く癒える道らしい。……無理に治してやろうとしたら、逆に傷を悪化させることになるから、心配だろうけど焦るなって言われた」
「……イヴァンさまが、言われたのですか?」
「うん。教会にいたとき、シエノークみたいなガ……子供が来て、心配で周りをうろついてたら、シスターにそう言われて、落ち着けって叩かれた」
「え!シスター、痛いことするですか……?」
「軽くな?平民にはよくあることだ。頭撫でるのと変わんねーよ」
撫でるのと叩くのは違います……と怯えていると、俺はしないから安心しろって指の背で頬を突かれました。
……焦らないのが、大事。
心の中で、イヴァンさまの言葉を繰り返します。
ヴェルナは、焦らずに見守っていることができるでしょうか。
……ううん、きっと、そうするしかないのです。
なにもせずに見守るのも、シエノークにいさまのために必要なんだって思ったら、なにもできない悲しさが、少し減るような気がしました。
……そういえば、イヴァンさまは、シエノークにいさまのおとうさまのこと、シエノークにいさまのこと、どう思っているのでしょう。
「……イヴァンさまは、シエノークにいさまのおとうさまのこと、おかしいって思うですか?……シエノークにいさまのこと、かわいそうって思うですか?」
「ん?どっちも思わないな。シエノークの父親みたいなやつもまァ割とその辺にゴロゴロいるし。……あ、でも」
シエノークが自分のこと可哀想だって思うなら、そうなんだと思う。
イヴァンさまのその言葉が、頭に響いて、残りました。
******
そんなふうに、シエノークにいさまのことを考えながら過ごしていたある日、ソバキン家の廊下を歩いていると、イヴァンさまがいました。護衛の騎士の人も、少し離れたところにいます。
「イヴァンさま?」
「……おはようございます、ヴェルナ嬢」
そう言って綺麗に微笑むイヴァンさまは、やっぱり別の人みたいです。
「おとうさまになにか御用事ですか?」
「いえ、王都より荷物が届いたとのことでしたので、確認に……」
なにかが落ちる音がしました。驚いて音がした方を見ると、少し離れたところで、シエノークにいさまが倒れています。
「シエノークにいさま!?」
「シエノーク!?」
思わず叫んで、シエノークにいさまに駆け寄ろうとしましたが、距離があって……、それより先に、シエノークにいさまのすぐそばにいた騎士の人がシエノークにいさまに手を差し伸べました。
「わん」
シエノークにいさまの声が響きました。
シエノークにいさまは、言ってからはっとして口をおさえ、蹲ります。
『今無理して頑張っているのは、誰かになにか言われたからなのでしょうか』
『シエノークにいさまのおとうさまに、なにかになってくださいって言われたのでしょうか』
ヴェルナの足が止まりました。
なにかに気づいてしまいそうな気がして、
「……シエノーク様、怯えなくて大丈夫ですよ」
騎士の人の優しい声に、はっとしました。
「私は貴方の父親のように貴方を痛めつけたりはしません。今まで怖かったですよね。貴方の父親はもうどこにもいませんから、安心してください」
……あ、
そういえばこの人は、ソバキン家の使用人さんじゃありません。
シエノークにいさまにシエノークにいさまのおとうさまの話をしちゃだめって言われてる、ソバキン家の人じゃありません。
「……あぁ、こんなに怯えて……、かわいそうに」
だめです、それだけは、言っちゃ
「酷い父に苦しめられて……」
「ちがい゛ます!!」
一瞬、誰の声かわかりませんでした。
見たこともない怖い顔で騎士の人を睨み上げるシエノークにいさまが見えて、そこで初めて、今の声はシエノークにいさまだって気づきました。
「お父様は酷い親じゃありません゛!!お父様は正しかったんです!!お父様は僕を愛して躾けてくれたんです!!僕はかわいそうなんかじゃない゛!!僕は、……」
すごい勢いで怒鳴るシエノークにいさまは、続きを言いかけたところで、ヴェルナを見て、目を見開いて……、
表情が消えて、
その瞳が、
夜の闇よりも昏い、黒い、闇の色になりました。
吸い込まれる
「うん。お前の父親は、酷い父親じゃないよ」
イヴァンさまの声が、ヴェルナを引き留めてくれました。
いつの間にかシエノークにいさまの背後に回っていたイヴァンさまが、シエノークにいさまを後ろから抱きしめて、優しく声をかけます。
「こんなに息子に愛されてる父親が、酷い父親なわけねェよ。こんなに『愛されてた』って感じることができてるお前は、可哀想な子供でもない」
『シエノークが自分のこと可哀想だって思うなら、そうなんだと思う』
『僕はかわいそうなんかじゃない゛!!』
……そうです。
シエノークにいさまが自分の事かわいそうだって思ってたら、かわいそうだったかもしれないけど。
自分のことかわいそうだって思っていなかったから、だから、
シエノークにいさまは、かわいそうなんかじゃないのです。
イヴァンさまがシエノークにいさまに語りかけて落ち着かせている間に、ヴェルナもシエノークにいさまに近づきました。
ヴェルナが近づいてきたことに気づいた騎士の人が、慌てて避けてくれました。
イヴァンさまと話しているうちに、シエノークにいさまの目に、少しずつ涙がたまって……それと同時に、光が入っていきます。
シエノークにいさまが涙をこぼしたときには、シエノークにいさまの瞳は、磨いたばかりの宝石のような輝きを放っていました。
「シエノークにいさま……」
あまりにも綺麗で、思わずシエノークにいさまの名前を呼ぶと、イヴァンさまとシエノークにいさまがこちらを見ました。
そうして、イヴァン様が気楽な口調でヴェルナに質問します。
「おーヴェルナ嬢。ヴェルナ嬢はどう?シエノークはおかしいやつだって思う?」
「思わないです!」
ヴェルナは即答しました。
思うわけがありません。
大好きなシエノークにいさまが、おかしいわけありません!
その返事を聞いて、「だよなァ」と笑うイヴァンさまは、すっかり離れにいるときのイヴァンさまでした。
シエノークにいさまはその後、傷跡のことを打ち明けてくださいました。
おとうさまを感じられるものは、もうこの傷だけしかないから、治ってほしくない、と。
そうしたら、イヴァンさまが「じゃ、ヴォルコ家からシエノークの父親の持ち物持ってこれたら、傷をとっとく必要はなくなるんじゃないか?」と言って……、その問題は、すぐに解決したみたいでした。
ヴェルナはほっとしました。痛い傷は、やっぱり治してほしいから……。
シエノークにいさまが隠していたのは、そのことだったそうです。
「……傷を残したいって言って、皆様に、お父様と傷で繋がってたいなんておかしいとか、言われたら、すごくつらいって思ったから、だから……」
そう教えてくれるシエノークにいさまは、すごく申し訳なさそうで、辛そうで……、胸が締め付けられる感じがしました。
でも、でも、それなら!
「大丈夫です!ヴェルナ、おかしいって言わないです!それで、もしも、おとうさまとおかあさまが『おかしい』って言ったら……、そのときは、おとうさまとおかあさまに、そんなこと言っちゃだめってするです!だから、大丈夫です!」
今度こそ、ヴェルナがシエノークにいさまを守れます!
ヴェルナがそう思ったのが伝わったのでしょうか。
シエノーク兄さまは、きらきらした目のまま、ふにゃりと笑いました。
「はい。守ってほしい、です」
幼く可愛らしい笑顔を浮かべたシエノークにいさまの声は、
今まで聞いたことのない、甘えるような声でした。
雷に打たれたような衝撃。
か、
……か、
…………かわいい…………!!
こんな……こんな人がいていいのでしょうか!?
こんな、こんなの、こんなのって、
こんなことあるのでしょうか!?
そんな、こんな人に守ってほしいって言われたら、そんなの、
嬉しい……!!!!
ヴェルナは、シエノークにいさまに「はいです!!!任せてくださいです!!!」と元気よくお返事しました。
その後、シエノークにいさまの可愛さの衝撃でぼーっとしていると、騎士の人が謝って、口止めとかされていました。
はっ。
そういえば、ぼーっとしている間にシエノークにいさまがイヴァンさまのこともう怖くないって言っていた気がします。
それはつまり……
シエノークにいさまとイヴァンさまと、今度こそ楽しく過ごせるということ!?
「シエノークにいさま、イヴァン様、この後離れで勉強しましょう!!!ヴェルナ、離れでやるのが好きです!離れのイヴァンさまが好きだから!」
えっちょ、あの、……離れで平民口調使ってるの内緒だからな……!?と慌てるイヴァンさま、……を見て、お口に手を当ててくすくす笑う、いたずらっこの妖精さんみたいなシエノークにいさま。
そんなシエノークにいさまの笑顔は、無理して微笑むようなものではなくて、とっても自然な笑顔でした。
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忙しくて、誰もちゃんと聞いてくれなかったヴェルナの話を、初めて最後まで聞いてくれた、シエノークにいさま。
周りにたくさんの人がいるのに寂しくて退屈だったヴェルナに、楽しい日々を教えてくれた、シエノークにいさま。
ヴェルナの誤解を解いて、イヴァンさまと話せるようにしてくれたシエノークにいさま。
ヴェルナ、シエノークにいさまに、たくさんのものをもらいました。
ヴェルナはまだまだちびっこだけど、きっと、この御恩はずっとずっと忘れません。
だって、ヴェルナ、シエノークにいさまがいなかったら、いつまでも寂しいままだったと思うのです。
誰も聞いてくれないから、お話しするのがどんどん嫌いになって、なにも話さなくなっていたと思うのです。
そうして、イヴァンさまのときみたいに、いろんな人のこと勘違いして、自分で人を遠ざけて、もっともっと寂しくなっていたと思うのです。
そんな、『もしも』のヴェルナの夢を見たのです。
起きたとき、そうならなくて本当によかったって思いました。
ねぇ、シエノークにいさま。
きっとヴェルナは、シエノークにいさまに救われたのです。
シエノークにいさまが、ヴェルナのこと救ってくれたのです。
だからヴェルナは、恩返しのためにも、
シエノークにいさまを守りたいのです。