第3話 帰路の告白
朝靄が街を包む中、わたしは馬車の窓から外を眺めていた。レオンが用意してくれた馬車は質素だけど頑丈で、長旅に適している。御者台には彼自身が座っていて、その背中が見える。
あの広い背中が、十年間もわたしを守ってくれていたなんて。
昨夜のことを思い出すと、また頬が熱くなる。初めて感じた、あの不思議な気持ち。もしかして恋してるのかもしれない、と思った瞬間の、胸の高鳴り。
「一人で大丈夫?」
窓から顔を出して声をかけた。春風が髪を揺らす。
「問題ない。もう少しで休憩地点だ」
レオンの声は、いつもの冷静さを保っている。でも、昨夜見せてくれた優しい表情を知ってしまった今、その声にも温かみを感じる。
街道は穏やかで、道端には春の花が咲いていた。白い花、黄色い花、そして母上が好きだった青い勿忘草も。平和な風景。でも、わたしの心は全然平和じゃない。
十年間も、ずっと。
考えれば考えるほど、不思議な気持ちになる。なぜ彼は、そこまでしてくれたのか。影の長という重要な立場にありながら、一人の皇女をずっと見守り続けるなんて。
森の中の小さな泉のほとりで、馬車が止まった。水の音が心地よい。
「少し休憩だ。馬に水を飲ませなければ」
レオンが手を差し伸べてくれた。今日も黒い手袋をしている。昨夜、素手で触れた温もりを思い出して、少しだけ残念に思う。
馬車から降りると、泉の水の透明さに驚いた。底まで見えるほど澄んでいて、小さな魚が泳いでいる。水面に映る自分の顔を見つめた。
なんだか、昨日とは違う顔をしている気がする。
「レオン」
「はい」
「影の長って、どんなお仕事なの?」
ずっと聞きたかったこと。彼のことを、もっと知りたい。
レオンは少し困ったような顔をした。眉間に小さな皺が寄る。
「あまり、楽しい話ではない」
「聞きたいの」
振り返ってレオンを真っ直ぐ見た。
「あなたのこと、何も知らないから」
レオンは泉のほとりの大きな岩に腰を下ろした。わたしもその隣に座る。ドレスが汚れるかもしれないけど、今はそんなこと気にならない。
「帝国の敵を、闇から排除する。それが影の仕事だ」
「暗殺……?」
少し怖くなった。でも、それが彼の現実。
「時には。でも、それだけじゃない」
レオンは空を見上げた。雲がゆっくりと流れている。
「情報収集、要人警護、反乱の芽を摘む。帝国の平和を陰から支える」
「危険な仕事ね」
「ああ。でも、やりがいはある」
風が二人の間を通り抜けた。レオンの黒髪が揺れる。
「どうして影になったの?」
わたしの質問に、レオンは少し迷ってから答えた。
「俺は孤児だった」
「え……」
「物心ついた時には、帝都の貧民街にいた。盗みで生きていた」
レオンの声は淡々としていた。その奥に何か含みがある。
「十歳の時、影の長に拾われた。才能があると言われ、訓練を受けた」
「影の長になったのは、何歳のとき?」
「十三歳」
「若っ!? 三年で登り詰めたの?」
「ああ。最年少記録だ」
わたしが城で何不自由なく育っている間、彼は……。
申し訳ない気持ちと、尊敬の気持ちが混ざり合う。
「でも」
レオンが続けた。
「後悔はしていない。影になったから、殿下を守れた」
「どうして、わたしなの?」
聞かずにはいられなかった。これが一番の謎。
「わたしは十八歳。あなたは?」
「二十五歳」
「じゃあ、長になって二年でわたしの護衛に……他の任務も兼任してたの?」
「長は他にもいる」
「じゃあ、どうして? どうしてわたしなの?」
「……」
レオンは黙り込んだ。言いたくないことなのかしら。
「教えて、レオン」
思い切って、彼の手に自分の手を重ねた。手袋越しでも、温かさが伝わってくる。
「お願い」
レオンの手が微かに震えた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「俺には妹がいた」
「いた?」
「ああ。いた」
孤児。貧民街。それなら、妹さんはもう……。
「もう結婚した」
「うおい!」
あ、しまった。思わずツッコんでしまった。
「長になってしばらく経った頃、八歳の殿下が必死に魔法書を読んでいるのを見た」
「魔法書?」
「そう。その姿を見て、俺は殿下の護衛に志願した」
「えーっと、ちょっと待って。八歳の頃に魔法書って……」
「治癒魔法の専門書だ。難しすぎて、大人の魔法使いでも理解できないような」
――ああ、あの頃か。
思い出した。母上の病気を治したくて、寝る間も惜しんで勉強していた。結局、間に合わなかったけど。
「母上の……」
「そう。殿下は皇后陛下のご病気を治したくて、必死に勉強していた……」
レオンはわたしが握った手を見つめる。
「あんなに小さいのに、あんなに必死に母のために頑張っている殿下を見て、守りたいと思った」
「レオン……」
「最初はただの憧れだった。でも、いつの間にか……」
レオンが顔を上げた。琥珀色の瞳にわたしが映っている。
「愛していた」
――え?
頭が真っ白になる。
「十年間、ずっと愛していた。影からしか見ることができなくても、声をかけることができなくても、それでも良かった」
レオンの瞳は、いままでになく真剣だった。
「殿下が幸せなら、それで良かった」
「……レオン」
声が震えた。涙が溢れてくる。
「レオン、わたし全然幸せじゃなかった」
涙が頬を伝った。止まらない。
「母が亡くなってから、父は変わった。国の政治のことしか考えなくなった。五人の兄たちは、武芸に打ち込んだ。二人の姉は、すぐ結婚して国を出て行った。みんな母を思い出して、つらくて忘れようとして、別のことに夢中になっていった。私も同じ。研究ばかりで、友達もいなくて、恋愛なんて考えたこともなくて……」
両手で顔を覆った。泣きべそな顔を隠したかった。
「あなたがいてくれたことも知らなかった。ずっと一人だと思ってた……」
「殿下……」
「リリアでいい」
顔を上げる。たぶん涙でぐしゃぐしゃな顔。それでもレオンを見た。
「名前で呼んで」
「……リリア」
初めて名前を呼ばれた。言わせた。けれど、心臓が大きく脈打った。こんなに優しい響きだったなんて。
「わたしね、気づいたの」
涙を拭いながら、震える声を必死に落ち着かせる。
「昨日、あなたが姿を現した時、すごく安心した。ああ、この人がいてくれるなら大丈夫だって」
「……」
「それって、きっと……」
言葉に詰まる。こんな気持ち、初めてだから。でも、言わなきゃ。今言わないと、きっと後悔する。
「わたしも、あなたが好き」
レオンの目が見開かれた。信じられない、という表情。
「本当に……?」
「うん」
頷いた。涙でぼやけた視界の中で、レオンの顔が少しずつ近づいてくる。
「まだ、よくわからないけど。でも、あなたといると安心する。もっと一緒にいたいと思う」
レオンの手が、わたしの頬に触れた。手袋を外した素手で、涙の跡を優しく拭ってくれる。
「リリア……」
「レオン……」
距離が縮まる。もう少しで――。
ガサガサと茂みが揺れた。
レオンが瞬時に立ち上がり、わたしを背後に庇った。すでに短剣が手に握られていた。その動きの速さに、改めて彼の実力を感じる。
「誰だ」
茂みから現れたのは……。
「にゃ」
一匹の子猫だった。灰色の毛並みで、額に白い星のような模様がある。
お互いに顔を見合わせて、同時に笑い出した。
「びっくりしたぁ……」
胸を撫で下ろした。さっきまでの緊張が一気に解けて、なんだかおかしくなってしまった。
「警戒しすぎたな」
レオンも苦笑している。こんな表情も見せてくれるようになったんだ。
子猫がてくてくと近づいてきて、わたしの足にグリグリと頭を押しつけてきた。
「可愛い」
子猫を抱き上げる。温かくて、小さくて、心臓の鼓動が感じられる。
――この子の母親は?
辺りを見回す。レオンも子猫一匹だということに気づいて、気配を探っている。
「街道の馬、馬車に乗ってる人間、イノシシ、それと小鳥の気配」
「母親は?」
「いないな」
子猫の目をじっと見つめる。あどけない目。自然の怖さをまだ知らない目。母親に捨てられたのだろうか。あるいは、もう母親は……。
「ねえ、この子も一緒に連れて行ってもいい?」
「もちろん」
レオンが優しく微笑んだ。子猫の頭をそっと撫でると、気持ちよさそうに目を細めた。
「名前、どうしようか」
「リリアが決めていい」
「そうね……ルナはどう? 月みたいな瞳をしているから」
「いい名前だ」
馬車に戻って、再び帝都へ向かう。今度はわたしもレオンの隣。御者台に座った。膝の上でルナが丸くなって眠っている。
「寒くないか?」
「大丈夫」
むしろ温かい。隣にレオンがいるだけで、春の日差しよりも温かい。
「ねえ、レオン」
「ん?」
「帝都に着いたら、どうなるの?」
現実的な問題だった。急に不安になる。
第三皇女と影の長。
「……父上が何か言うかもしれないわ」
「覚悟の上だ」
レオンは前を見たまま答えた。手綱を握る手に、決意が感じられる。
「どんな試練でも乗り越える」
「もし、父上が反対したら?」
「説得する」
「無理だったら?」
「諦めない」
レオンがこっちに顔を向けた。
「十年待った。もう少しくらい、待てる」
心が温かくなった。同時に、申し訳なさも感じる。
こんなに想ってくれている人を、これ以上待たせたくない。
夕暮れ時、ついに帝都の城門が見えてきた。高い城壁が、夕日を受けて黄金色に輝いている。
衛兵たちが慌てて門を開ける。
「第三皇女殿下のご帰還だ!」
城へ続く道を進む。市民たちが手を振ってくれる。子供たちが花を投げてくれる。
でも、わたしの心は少し重かった。これから、どうなるのだろう。父上は、この恋を認めてくれるだろうか。
膝の上でルナが小さく鳴いた。励ましてくれているみたい。大丈夫。レオンがいる。ルナもいる。もう一人じゃない。
けれど、レオンの横顔には影が差していた。