第2話 影と皇女
大広間の空気が変わった。土下座を続けるアルフレッドを見下ろしながら、わたしは複雑な気持ちになった。
――こんなに情けない男だったなんて。
「陛下」
レオンが国王に向き直った。その横顔を、わたしは初めてじっくりと見ることができた。整った顔立ち、でもどこか儚げで……。
「リリア殿下は帝国にお戻りになる。異論はないな?」
「も、もちろんじゃ……」
国王は慌てて頷いた。冠が少しずれている。
「護送の馬車を用意させる。最上級の――」
「不要だ」
レオンが遮った。
「俺が責任を持って送り届ける」
「しかし、一人では危険では……」
国王の言葉に、レオンの口角がわずかに上がった。初めて見る表情。嘲笑……いえ、自信の表れかしら。
「王よ、聞いたことないか?」
「……?」
「帝国暗部『影』の長、レオン・ディ・ノワールという名を」
その名を聞いた瞬間、大広間の空気が凍りついた。国王だけでなく、居並ぶ貴族たちの顔が一斉に青ざめる。
――影の長? レオンが?
わたしも驚きを隠せなかった。影の長といえば、帝国の暗部を統べる者。一人で一個師団に匹敵すると言われる、生ける伝説。そんな人が、わたしの護衛を?
「そんな方が、なぜ護衛などを……」
私の胸の内を、国王がそのまま口にした。レオンは答えず、わたしへ顔を向けた。琥珀色の瞳が語りかける。言葉にできない何かを。
彼がわたしの元へ近づいてきた。
「殿下、参りましょう」
「待って」
わたしは首を振った。モヤモヤした気持ちを、このままにはできない。
「まだ聞きたいことがあるの」
レオンを真っ直ぐ見上げた。近くで見るとずっと背が高い。それに、いつも感じていた不思議な気配の正体。やっと顔を見せてくれた護衛。知りたいことが山ほどある。
「いつから? いつからわたしを守っていたの?」
レオンは沈黙した。
わたしの方から近づいた。大理石の床に、ドレスの裾が擦れる音だけが響く。
「三ヶ月前、この国に来てから? それとも、もっと前から?」
レオンの表情が微かに揺れた。何か言いたくないことでもあるの?
「答えて、レオン」
大広間が静まり返った。誰もが息を殺して、わたしたちのやり取りを見守っている。アルフレッドさえ、土下座の姿勢のまま顔を上げていた。
長い沈黙の後、レオンが口を開いた。
「十年前からだ」
――十年前?
息が止まった。十年前……わたしは八歳。魔法の研究を始めたばかりで、母上の病気を治したくて必死だった頃。
ふと思い出す。
あの日、城を抜け出して森に入った。治癒魔法に必要な月光草を探していた。でも、魔物に襲われて……死を覚悟した瞬間、黒い影が魔物を切り裂いた。
助けてくれた人の顔は見えなかった。ただ、優しい声で言われた。
『もう大丈夫だ』
あのときの声が、目の前にいるレオンの声と重なる。
「魔物に襲われたとき、森で助けてくれたのは……」
「ああ、そんな事もあったな。あれ以来、ずっと影から見守っていた」
「どうして?」
涙が浮かんできた。悔しいような、嬉しいような、複雑な感情。
「どうして十年も……そんな、わたしなんかのために……」
レオンは答えない。ただ、その琥珀色の瞳には、言葉にできない優しさがあふれていた。
国王が咳払いをした。
「その……リリア殿下。今夜は王宮にお泊まりいただき、明日の朝に――」
「結構です」
わたしはきっぱりと断った。この国にもう用はない。
「今すぐ帝国に戻ります」
振り返ると、未だに土下座を続けているアルフレッドを見下ろした。額から血が滲んでいる。自業自得とはいえ、少し哀れね。
「アルフレッド様」
「は、はい!」
アルフレッドが顔を上げた。額には大きなたんこぶができている。
「婚約破棄を受け入れていただけますね?」
「も、もちろんです! こちらこそ、本当に申し訳ございませんでした!」
「それと」
わたしは最高の皮肉を込めた笑みを浮かべた。三ヶ月間、我慢してきた分の仕返し。
「セシリア様とお幸せに。本当にお似合いですわ」
アルフレッドとセシリアが真っ赤になった。悔しそうな顔、照れている顔、どっちなのか分からないけど、少しだけ気が晴れた。
踵を返す。出口へ向かって歩き始めた。もうこの場所に未練はない。
レオンが後に続く。その足音が、なぜか心地よい。
大広間を出ると、夜の冷たい空気が頬を撫でた。ローレンス王国の春は、帝国より少し肌寒い。
「馬車は……」
「必要ない」
レオンが手を差し出した。黒い手袋を外した、素手。
「俺の転移魔法を使う」
「転移魔法?」
転移魔法は高位の空間魔法。相当な魔力を消費するはず。
「問題ない」
わたしは躊躇いながら、レオンの手を取った。
――温かい。
初めて触れた彼の手は、思っていたより大きくて、温かかった。ずっと影にいた人なのに、こんなにも人間らしい。
黒い魔法陣が足元に広がる。複雑な紋様が、月光を受けて輝いた。
「目を閉じて」
レオンの声に従い、目を閉じた。手を握る力が、少し強くなった気がした。
浮遊感。体がふわりと浮いて、次の瞬間には足が地面についていた。
「もう大丈夫」
目を開けると、見慣れた風景が広がっていた。帝都郊外の、小さな宿場町。ここは帝国とローレンス王国の中間地点にある、旅人の休憩所として有名な場所。
「ここは……」
「国境まで一気に転移すると、さすがに疲れる」
レオンが苦笑した。初めて見る、人間らしい表情。額にはうっすらと汗が滲んでいた。
やっぱり、無理をしたのね。
「今夜はここで休んで、明日の朝に帝都へ向かう」
「でも、父上は……」
心配になった。勝手に婚約破棄して、報告もせずに……。
「皇帝陛下には既に報告済みだ」
レオンが懐から通信用の魔法石を取り出した。青く光る石。
「『ゆっくり帰ってこい』とのことだ」
――父上が?
意外だった。もっと怒られると思っていたのに。
「それと、自分で言うのも何だが『レオンを信用しろ』とも」
父上がレオンを信用している。それはつまり、最初から何か知っていたということ?
宿屋は小さいが清潔で、温かい雰囲気があった。木造の二階建てで、一階が食堂、二階が客室になっている。女将が笑顔で迎えてくれた。
「お部屋は二つご用意しております」
「ありがとうございます」
部屋に入ると、すぐに窓辺に立った。月が美しく輝いている。帝国で見る月と同じなのに、今夜は特別きれいに見える。
ノックの音。
「殿下、夕食を」
「入って」
レオンが盆を持って入ってきた。温かいスープとパン、それに果実酒。質素だけど、美味しそうな香りが漂ってくる。
「ありがとう」
椅子に座って、スープを口に運んだ。
「美味しい……」
王宮の豪華な料理より、ずっと心に染みる味だった。三ヶ月間、ずっと緊張していたのかもしれない。
「レオン」
「はい」
「座って。一緒に食べましょう」
レオンは躊躇った。
「しかし、俺は護衛で……」
「命令よ」
わたしは微笑んだ。もう、堅苦しいのは嫌。
「第三皇女として命じます。座りなさい」
レオンは観念したように、向かいの椅子に座った。
二人で静かに食事をする。不思議と、気まずくはなかった。むしろ、ずっとこうしていたような懐かしさすら感じる。
「ねえ、レオン」
「はい」
「十年間、ずっと影から見ていて……退屈じゃなかった?」
ずっと聞きたかったこと。なぜ、そこまでしてくれたのか。
レオンは少し考えてから答えた。
「退屈だと思ったことはない」
「どうして?」
「……」
レオンは窓の外を見た。月光が、彼の横顔を照らしている。
「殿下が笑っている姿を見るのが、好きだったから」
――え?
頬が熱くなった。何を言っているの、この人は。
「魔法の研究、楽しそうだった。失敗して爆発させた時も、成功して飛び跳ねた時も、全部見ていた」
「全部……?」
恥ずかしい。顔が熱い。
――ということは……。
「じゃあ、あの時も? 蛙を巨大化させちゃって、泣きながら逃げ回った時も?」
十五歳の時の失敗。思い出すだけで恥ずかしい。
「ああ」
レオンの口元が緩む。
「可愛かったな、あれは」
「もう!」
わたしは顔を両手で覆った。恥ずかしすぎる。でも……。
指の隙間からチラチラとレオンを見る。
月明かりに照らされた横顔は、とても優しい表情をしていた。十年間、ずっと見守ってくれていた人。わたしの失敗も、成功も、全部知っている人。
胸が不思議な鼓動を刻む。
これは、何?
今まで感じたことのない、温かくて、少し苦しい気持ち。
初めての感情に戸惑いながらも、なぜか嬉しかった。