第1話 ジャンピングスライディング土下座
煌びやかなシャンデリアの光が、王宮の大広間を黄金色に染めていた。わたしは深呼吸をして、椅子から立ち上がった。ドレスの裾が床を擦る音が、妙に大きく聞こえる。
――もう、終わりにしましょう。
三ヶ月前、父上……ヴェルディア帝国皇帝の命令でこの国へ来た。
子爵令嬢リリアとして。
婚活という名目で、この国の有力貴族の人となりを見極めるために。
正直言って、こんな政略結婚ごっこは茶番でしかない。
「アルフレッド様」
正面の席に座る金髪の青年に声をかけた。モンフォール公爵家の嫡男は、隣に座る伯爵令嬢セシリアと親密に寄り添っている。今日も堂々と。婚約者のわたしの前で。
――本当に、見る目がなかったわね、この国の王様も。
「なんだ、リリア。晩餐会の最中だぞ」
「ええ、存じております。だからこそ、皆様の前で申し上げたいことがあるのです」
わたしはもう一度深く息を吸った。今日のために、鏡の前で何度も練習した台詞。
「婚約を破棄させていただきます」
大広間が静寂に包まれた。貴族たちの視線が一斉にわたしに注がれる。予想通りの反応。でも、内心では少し震えていた。
――大丈夫、計画通りよ。
アルフレッドが椅子を蹴って立ち上がった。木製の椅子が大理石の床に倒れる音が響く。
「何を言っている! お前のような子爵家の小娘が、モンフォール公爵家の跡取りとの婚約を破棄だと?」
「ええ、その通りです」
「正気か!」
隣でセシリアが高笑いを上げた。真珠のネックレスが揺れている。趣味の悪い笑い方ね。
「あら、身の程知らずもいいところね。子爵令嬢ごときが」
「セシリア様の仰る通りですわ」
わたしは微笑んだ。練習通りの、完璧な皮肉の笑み。
「でも、浮気相手と堂々と晩餐会に現れる方と、これ以上婚約を続ける意味があるでしょうか」
「なっ……!」
アルフレッドの顔が真っ赤に染まった。図星だったようね。
「衛兵! この無礼な女を拘束しろ!」
数人の衛兵がわたしを取り囲む。剣の柄に手をかけている。でも、わたしは抵抗せず、ゆっくり両手をあげる。
――これも想定内。さあ、国王様、どう出る?
「公爵家への不敬罪ね」
「田舎の子爵家も取り潰しかしら」
貴族たちのひそひそ話が聞こえてくる。みんな、他人の不幸が大好きなのね。
その時、玉座から震え声が響いた。
「ま、待て!」
ヴィクトル三世が青ざめた顔で立ち上がっていた。額には脂汗が浮かび、手が小刻みに震えている。
――あら、思ったより効果があったみたい。
「今まで黙っていたが……彼女は、その……」
国王は言葉を詰まらせた。観念したのね。
「彼女はヴェルディア帝国の第三皇女だ!」
再び大広間が凍りついた。衛兵たちが慌てて下がっていく。
アルフレッドの顔から血の気が引いていく。さっきまでの威勢はどこへやら。
「は……? 何を、馬鹿な……」
「リリア・フォン・エルグランド殿下。それが彼女の本当の名だ」
国王は震える手で額の汗を拭った。ハンカチが汗でぐっしょりね。
「モンフォール卿、貴様……知らなかったとは言え、帝国の皇女を、婚約者をぞんざいに扱い、浮気し放題とは……」
玉座から降りてきた国王が、アルフレッドの前に立った。ローブの裾を踏みそうになりながら。
「さすがにもう見て見ぬふりはできぬ。死んで詫びよ」
アルフレッドの膝が崩れた。
次の瞬間――彼は走った。全力で。わたしに向かって。
――え? ちょっと、何するつもり?
そして華麗に跳躍すると、空中で体を回転させ、わたしの足元へ滑り込んだ。大理石の床に「ゴツン」と音を立てて額がぶつかる。
「申し訳ございませぇぇぇん!」
見事なジャンピングスライディング土下座だった。
――何これ……想定がいすぎるわ。
「知りませんでした! まさか皇女殿下だったなんて! どうか、どうかお許しを!」
「み、見苦しいわよ、アルフレッド様!」
セシリアが悲鳴を上げた。けれど、アルフレッドは土下座を続けた。額から血が滲んでいる。
「帝国との戦争だけは! それだけはご勘弁を!」
――情けない。こんな男と婚約していたなんて。
わたしが溜息をついた、その時だった。
背筋に冷たい感覚が走った。いつも感じる、あの気配。でも今日は違う。もっと強くて、もっと近い。
大広間の影が揺らいだ。
黒い影が音もなく実体化し、一人の青年が姿を現した。黒髪に琥珀色の瞳。黒衣に身を包んだその姿は、夜の化身のよう。
「レオン……!」
思わず名前を呟いていた。いつもは影として、決して姿を見せなかった護衛。初めて見るその顔は、想像以上に整っていた。
レオンは無表情のまま、音もなく玉座へ向かった。近衛兵たちが剣を抜く間もなく、彼は国王の喉元に短剣を添えた。
「無礼を承知で問う」
低く冷たい声が響いた。声の奥に怒りを感じる。
「ヴィクトル王。あなたはリリア殿下が帝国第三皇女だと知っていた。極秘の情報だが、それが漏れること自体は想定済み」
短剣がわずかに国王の喉に触れた。
「しかし、それならばなぜ、あのような下衆と婚約させた」
国王の顔がさらに青ざめた。
「……」
「無言を貫くなら、この短剣で貴様の喉を貫く」
大広間に緊張が走った。わたしも息を呑んだ。レオンは本気だ。
国王が観念したように肩を落とした。
「……わかった。こうなれば全て白日の下に晒そう」
貴族たちが唾を飲み込む音が聞こえた。
「ヴェルディア帝国皇帝陛下との密約じゃ」
「密約?」
レオンの眉がわずかに動いた。
「ああ、密約じゃ。皇帝陛下は悩んでおられた。第三皇女が結婚せず、魔法の研究ばかりしていると。田舎の子爵家なんざ存在しておらん。全てはリリア殿下の身分を隠し、この国で婚活をするためだった」
そう。そうだけど。父上、密約までしていたの?
国王は力なく続けた。
「ワシは両国の友好のため、皇帝陛下の願いを承諾し、モンフォール公爵家の嫡男との婚約を成立させた」
「あんなクズとなぜ?」
レオンの声に怒気が混じった。わたしのために、怒ってくれている。
「公爵家ともなれば、王族に匹敵する権力者だ。ワシの一存で、詳しく調べることは叶わなかった」
「クズだと知らなかったと?」
「言い訳になるが……その通りじゃ」
がっくりと肩を落とす国王。
レオンは納得したように短剣を鞘に収めた。
近衛兵たちが慌てて集まってきたが、国王が手で制した。
「なぜですか、陛下! こやつは陛下に剣を向けた大罪人! この場で斬ります! こいつは絶対に許さない!」
近衛兵団長が叫ぶ。
「違う」
国王は首を振った。
「ヴェルディア帝国とローレンス王国で、どれだけ国力の差があると思っているのじゃ」
震える声で国王は続けた。
「帝国は今も北方の蛮族、東の騎馬民族と戦争中。それでも国内は平和に保たれている。それはなぜか。皇帝は国内の統治に注力し、前線に立つ五人の皇子が攻め入る蛮族と騎馬民族を蹴散らしておるからじゃ」
国王はわたしを見た。
「第三皇女の身に何かあれば、この国はあっという間に滅ぼされる」
近衛兵たちが青ざめて下がっていく。
レオンは安堵の表情を見せた。血を見ずに済んだことに、ほっとしているのかしら。
でも、わたしは違うことを考えていた。
今まで何度も、危機を逃れてきた。魔法実験の失敗で爆発した時も、街で暴漢に襲われた時も、いつも不思議と助かった。薬草取りで崖に登って落ちたときも、怪我一つなかった。死んでもおかしくない高さだったのに。
運がいい、だけでは片付けられず、ずっとモヤモヤしていた。
レオンがずっと守ってくれていた。そう考えると、これまでの不思議な出来事が線となって繋がる。
「レオン」
わたしは彼に歩み寄る。
「どうして……どうして今まで姿を見せなかったの?」
「……」
レオンは答えない。ただ、琥珀色の瞳でわたしを見つめるだけ。
その瞳の奥に、何かを見た気がした。
――この感覚、前にも……いつだったかしら?
心臓が不思議な鼓動を刻み始めていた。初めての感覚。いや、違う。ずっと前から知っていたような、不思議な懐かしさ。
わたしは、この人を知っている。
いつから? どこで?
わからない。思い出せなかった。