未発表
冒頭から筆者の語りになり申し訳ない。まず端的に言えばこの作品は私の書いたものではありません。とある作家の未発表作品の一部でございます。今回の公開を当たり作品への質問、苦言、苦情等は本人が答えられない状態にありますので、此方からは一切お答えできませんという事を予めご了承頂けると幸いです。
まず始めに作者についての説明をさせて頂きたいと思います。細やかな情報はお伝え出来ない事もございます。なんとも歯切れの悪い説明にはなりますが温かい目で読んでいただければと思います。
作者の名前は『●●●●●』。全て伏せ字にさせていただくのは筆者の保身の為と思っていただきたい。仮にこの作品が●●●●●の未発表作品だと世の中に知られれば、私は祖父から聞かされた人物の裏の顔を語らなければいけない。それは故人にとっても、筆者にとっても気持ちの良いモノではございません。そう言った事情から今回名前は全て伏せさせて頂きます。とは言えど、●●●●●と呼ぶにはあまりにも無機質で味気ない。そこでこの場においては仮に弘蔵と呼びたいと思います。
幼少の頃から弘蔵は感受性の豊かな人物であり、小説家となった後はその独特な感性を盛り込んだ名作を世に産み出してまいりました。この作品、『未発表』は晩年に彼が書き留めておりました作品の一部分となります。ただし一部読みづらい文面につきましては僭越ながら私の加筆を加えさせて頂きましたので、本当の意味でこの作品が彼の心の暗部を表せているのか……それは読者の皆様の感想に委ねさせて頂こうと思います。
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さて、本編に移る前に一つだけ弘蔵についての不思議なエピソードを綴らせて頂こうと思います。これは祖父が古くからの友人である弘蔵から直接聞いた話を私が又聞きした事実でございます。当時初めて祖父から聞かされた時、私はそれほど珍しい話とは思いませんでした。それほど印象に薄い話の理由は後述にて語らせて頂きます。
弘蔵の生家はとある集落の大商人の家庭でした。私の祖父はもともと都会で暮らしていて、小学生時代の僅かな時間を親戚の家があるその集落で過ごしたそうです。弘蔵の家は集落ではとても顔の広い、現在で云うところの地主のような存在と思っていただければ想像しやすいと思います。ですので弘蔵は集落の大人達、子供達からも何処か遠慮がちに接されていたのでしょう。そんな時分に都会から現れた何の忖度もない祖父の存在は、弘蔵にとっても新鮮でした。二人が親友と呼び合う仲になるまで、そう時間はかからなかったそうです。
当時、祖父は学校帰りによく弘蔵の家へ招かれていました。集落の高台に聳え立つ邸宅は、都会でも見たことがないほど洗練されていたそうです。
邸宅には弘蔵の母親や隠居した祖父母、町からやってきた見習いの商人達、そして多くの使用人が暮らしていましたが、皆揃って私の祖父を歓迎してくれたそうです。友達の少ない弘蔵にとって分け隔てなく接してくれる祖父の存在は、弘蔵の家族にとっても喜ばしかったのだと思います。
ある日、いつものように弘蔵の家へと招かれた祖父に、弘蔵は珍しく目を輝かせてこう言いました。
「秦ちゃん、今日は面白いモノを見に行かないか?」
秦ちゃんと云うのは祖父のあだ名で、弘蔵の事は『弘ちゃん』と呼んでいたそうです。
鼻息の荒く興奮する弘蔵に、祖父は始め何か珍しい物を見せてくれるのだろうと二つ返事で頷いたそうです。
「いいかい、今日は誰にも見つからないように入るんだ。わかったね、絶対だよ秦ちゃん?」
「う、うん。わかった」
二人は弘蔵の家の裏手でヒソヒソと密談を交わしました。家族に知られてはいけない程の物凄い物を見せてくれるのかと、祖父はその時の胸踊る記憶を忘れられないと言っておりました。しかしその感情はすぐに別の記憶で蓋をされたそうです。
「こっち、こっちだよ……しっ、音を立てちゃあいけない」
弘蔵は慣れた様子で家の裏手に広がる獣道を進んでいた。祖父は必死に、それでも音には細心の注意を払って進んだそうです。その時の事はまるで自分が犯罪者で警察に追われている様な、恐怖と好奇心がごちゃ混ぜになった複雑な心情を味わえたと言っておりました。
邸宅の裏手は普段人が通るような場所ではなく、所々に剥き出しの岩肌が見えるような小高い丘になっておりました。行く手を阻むように絡み付く雑草や木の根、昨晩の雨で濡れる滑りやすい岩の上を必死に付いて行く。大人ならともかく、子供の足では結構な距離だったそうです。先を進む弘蔵を必死で追いかけた祖父でしたが、大きな岩を乗り越えた所で足を止めました。すぐに身を隠せと祖父を屈ませる弘蔵は、何かを伺うようにじっと邸宅を見つめていました。一分間とも十分間とも感じた静寂の後、弘蔵は指を立てて祖父に合図を送りました。
「こ、弘ちゃん……本当にここに入るのかい?」
「シっ……そうとも、面白いモノはもうすぐそこさ」
弘蔵が進むと言った場所は邸宅の通気口でした。洋館と日本家屋を合わせたような不恰好な母屋、その裏には幾つかの建物が連なっていたそうです。
「ここからしか……彼処に入れないんだよ。秦ちゃん、もしかして怖じ気づいたのか?」
「そ、そんな事はないさ。僕だってその珍しいモノがこの目で見てみたい」
この時、祖父は正直に云うと引き返したかったと語っていました。子供ながらといいますか、その時の強がりを後悔する祖父の表情を見た時の私はとても複雑な感情を抱かされたものです。
弘蔵は黙々と通気口を進んで行きます。子供が潜り込んでもかなり狭いその空間は真っ暗で、これは夢で永遠に続くのではないのか?と祖父は必死で弘蔵についていったそうです。
「……秦ちゃん、着いたぞ」
先を這い進む弘蔵が見えなくなったかと思うと、途端に圧迫感が消え去りました。どうやら通気口から出られた様です。祖父は額の汗を半袖で拭おうとすると、信じられない程ぐっしょりと肌に張り付いていてとても不快感に襲われたそうです。
「……あれは……一体……」
祖父は立ち上がると同時にあるモノを目にしました。先に通気口から這い出ていた弘蔵は暗がりでもわかるくらい、白い歯を剥き出して嗤っていました。母屋の裏手にある建物の一つという事だけは解りました。しかしその家屋は全ての雨戸が閉められており、歪んだ僅かな隙間から溢れた頼りない光だけが部屋の中を照らしていたのであった。
「面白いだろ? あれが人間の終わりに行き着く、果ての果てさ」
「人間の……果ての果て……?」
生臭いような嗅いだことのある臭気が鼻を突く。この時祖父は去年の夏に家族で行った海岸の磯の香りを思い出したそうだ。薄暗い部屋の中で祖父は何かを感じた。ぼんやりと佇む人影のようなシルエットが闇の中で微動だにしない。それを見る弘蔵は何故か嬉しそうに笑い声を殺していたそうです。
「弘ちゃん……あれは一体何なんだい? なんだか薄気味悪いや」
祖父は堪らず弘蔵に尋ねた。弘蔵は「もっと近くで見よう」と祖父の手を引いてソレに近付いて行く。この時祖父は頭は進みたくないという感情で埋め尽くされていたはずなのに、何故か脚だけがソレに向かって動いていたと言っていました。
弘蔵はソレのすぐ近くまで進むと徐に半ズボンのポケットに手を突っ込んで何かを取り出して見せると、祖父の手を放して両手で何かを始めた。擦れる小さな音に続いて弘蔵の顔がボンヤリと照らされた。家からくすねてきたマッチ箱を自慢気に祖父に見せると弘蔵は壁際に置かれた小さな燭台に朧気な火を近付ける。小さなマッチの弱々しい火は燭台に置かれた蝋燭に燃え移ると、背の高い焔を靡かせて辺りを照らし出した。
「秦ちゃん御覧よ、これが僕の本当の母親だよ」
「ほ、本当の母親って……?」
祖父はその時の壁際に寄り掛かるソレから目が離せなかったそうで、弘蔵の表情まで見ていなかったそうです。
「弘ちゃん、一体この人は何をしているんだ?」
壁にすがり付くその人物が女性である事だけは、はだけた着物の隙間から覗く薄汚れた乳房から解った。ボロボロに破れた着物を辛うじて身に付けているその女性は、白髪交じりの長い黒髪で顔が隠れている。女性は壁にもたれ掛かる様に、両の手足を力無く伸ばしていた。
「母さん、僕だよ。弘蔵が来たんだ、わかるかい?」
女性に話しかける弘蔵の顔は見たことのないほど恍惚としていた。祖父は友人のその姿に声も出ない程恐れおののいたと言う。壁際にすり寄る弘蔵の幸せそうな表情と、ピクリとも動こうとしない生気のない女は、窪んだ瞳を向けていた。祖父はその時、暗く深い眼差しに底知れない恐怖を覚えたのでした。