第7話 潜入計画
司令官の部屋に入るのは初めてだ。
入室する直前にそのことに気付いたスノウは、先ほどまでとは違う緊張感を感じ体温が上がる感覚を覚えた。
もっと別の形でこの場所を訪れることができていたら、どれほど良かったことか。
しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。
スノウは頭の中で頬に活を入れ、気持ちを切り替えた。
部屋に足を踏み入れると、驚くほど整然とした空間が目に飛び込んでくる。
奥にシンプルなデザインのベッドがあり、その隣には備え付けのクローゼットがある。クローゼットの扉はきちんと閉じられ、表面には汚れ一つ見当たらない。反対側の窓際には、無駄な装飾が全くない白い勉強机があり、その机上には一台のノート型パソコンが置かれていた。
室内は他に何もない。その整然とした様子は、まるで共和国軍兵舎の居室のようだ。
スノウは部屋の中央に立ち、周囲を見渡した。
年頃の女性の部屋というには簡素すぎる印象を受ける。壁には装飾品はおろか写真すら飾っていない。唯一の装飾と言えるのは、大きな窓から差し込む夕日の光だった。それは部屋全体を柔らかく照らし、机の上に温かい光の斑点を作り出していた。
(ここは荒らされてはいないのか……)
スノウは部屋の整然とした様子に不安を覚えた。
あれほど壊滅的に荒らされていた書斎とは対照的に、司令官の部屋はまったく手を付けられていなかった。この部屋だけが無傷であることに、何か意図的なものを感じずにはいられない。
「なんだよ。女の子の部屋だってのにずいぶん殺風景だな。ぬいぐるみとか、もっと可愛げのあるものとか置かねえのかよ」
スノウと同じように室内を一通り見回したサンダースが軽口を叩く。その間抜け面をスノウが一度じろりと睨み上げると、サンダースは「やばいっ」とばかりに身をすくませて口元を押さえた。
こいつに対して発令している「余計なことは喋るなよ」は現在も継続中だ。
「これで確認できる?」
机上のノート型パソコンを示しながら、司令官が言った。
「ええ、十分です」
スノウは机に座ると、メモリースティックをパソコンに差し込んだ。画面にファイルの一覧が表示されると、一つ一つのファイルを開けて確認していく。
「これは……?」
ファイルの中には、項目別にたくさんの情報が記され、その一つ一つにユリスが残したと思われるメモがあった。
その中でも特に数が多かったのが、海上研究所と呼ばれる施設に関する資料だった。
資料には、ジールが海上研究所に巨額の資金を投入していることが記されていた。その金額は、通常の研究費用をはるかに超えており、明らかに何か特別な研究が進められていることを示していた。ユリスのメモには更に、その資金が、研究所とは関係のない部署から違法に流用しているという旨が書き加えられている。
「何が書いてあるの?」
モニターを覗き込んだ司令官が尋ねる。
リチャードとマルクスも背後に立つ気配がしたので、スノウは少し身体をずらして、画面をリチャードたちに見えるようにしながら口を開いた。
「この、海上研究所という施設に関する記述が特に多いな。ジールとのつながりもきな臭い……」
資料を読み進めれば進めるほど、この研究所で大規模なプロジェクトを進めている可能性が高いことがうかがえる。
「確かに、この資金の流れはおかしい。ただの軍事研究所に、通常であればこれほどの予算は組まれない」
リチャードが腕組みをしながら唸るように言った。
「実は、私とマルクスも、以前からジール総督の周りの異常な資金の流れには気付いていたんだ。だが私とマルクスだけではなかなかその証拠を掴めなかった。ユリスに調べてほしいと依頼したのは、軍内部の人間が調査するより、外部から情報の開示を請求した方が調べられると考えたからだ。ユリスの政治家としての立場も優位に働く……」
「海上研究所とはなんだ?」
スノウが尋ねると、リチャードが少し考え込んでから答えた。
「国の研究施設のひとつだ。海上要塞とも呼ばれている。その名の通り海上にあり、陸からアクセスすることができない。非常に機密性の高い施設で、軍港から出る定期船が唯一の交通手段だ」
「なんの研究施設なんだ?」
「もともとは日本国が保有していた研究施設だったらしいが、研究の細部については私にもわからない。だがこれを見る限り、何か大きな計画が進行していることは間違いないだろう」
日本。
その言葉に、スノウの心臓は反応した。
司令官が幼少期を過ごしたあの研究所も、もともとは日本国のものだった。
(何か関係があるのか? もしかしてここもクローンの研究施設なのか?)
「リチャード、ユリスがこの研究所に囚われている可能性はないか?」
マルクスが神妙な顔で尋ねた。
「その可能性はある。ジール総督はこの研究所に滞在することが多い。最近は特にだ。なにもなければこの研究所からリモート会議をしているようだからな」
「なぜそんなことがわかるんだ?」
スノウが疑問を持って問いかけると、リチャードが少し得意げな表情をしてこちらを見返してきた。
「海上研究所の警備を担当しているのは海軍部なのだ。警備という関係上、人の出入りはすべて把握している。誰がいつ、どの部署に出入りしたかまで詳細にな。加えて、ジール総督が研究所に滞在している間は、特に詳細に私のところに報告が上がるようにしている」
「へぇ、そうなんだ! じゃあユリスがこの研究所に連れてこられたかどうかも、調べればわかる?」
司令官に尋ねられたリチャードは、困ったような顔を少女に向ける。
「もしかしたら何かしらの手掛かりはあるかもしれない。だが私が把握しているのはあくまでも人員と、その人物が危険を及ぼさないかどうかだけだ。仮にユリスが人ではなく物品に紛れて研究所に連れてこられている場合は、現場の警備兵では把握できないだろう」
その返答を聞いて司令官は「そっかあ…」と一度肩を落とすが、すぐに気を取り直したように顔を上げた。
「じゃあ、直接行ってみるしかないね!」
その顔は、なぜか少しウキウキしている。
(なんでそんなに楽しそうなんだ……?)
スノウは内心辟易していた。
この状況のどこをどうやったら楽しめるのか、まったく理解できない。
(まあ、父親が消えたところでメソメソ泣くような人じゃないしな。何か考えがあるのかもしれない……)
「直接? 直接って、もしかして海上研究所に潜入するってことかい?」
マルクスが困惑した顔で少女に尋ねる。リチャードも気乗りしないのか迷うように口を開いた。
「確かにそれが一番確実ではあるが、どうやって研究所の中に入るんだ……?」
「警備兵の中にあたしたちを潜り込ませてよ。海軍部長のリッチーおじさんならできるでしょ?」
「君が自ら行くのかッ!?」
リチャードに問われた司令官は、なぜそんなことを聞くのかわからないと言うような顔をして肩をすくませた。
「他に誰かいる?」
「それは……いや、駄目だ危険すぎる!!」
「それに、あたしだけじゃないよ。この二人だっているし」
そう言うと、司令官がこちらに向かって視線を投げてくる。
もちろん彼女ひとりだけにするつもりは毛頭ないが、毎度毎度、とんでもないことを簡単に言ってくれる。
「スノウはすごいんだよ。潜入のプロなんだから。司令長官公邸にだって潜入したことあるんだから!」
確かにヒメルを救出する際、ジール総督の公邸に侵入はしたが、断じて潜入のプロというわけではない。しかもあの時はシュウと一緒だったのだ。潜入のプロというのなら、どちらかと言うとあいつの方が当てはまるだろう。
しかしスノウの思いとは裏腹に、リチャードは司令官に向けていた顔をぐるりと向けて、スノウを見やった。
「なんだって⁉ ……そうか! 君はもともとスパイだったか!」
「…まあ、そんなこともあったな」
「それで、君たちは公邸から捕まらずに帰ったのか?」
「当たり前だ。捕まっていたら、俺は今ここにいない」
信じられない。とリチャードとマルクスがそろって絶句している。
「安心してリッチーおじさん。あたしも、今までのあたしとは違うの。大抵のことはできるから、どーんと任せてよ!」
そう言って、少女はそれほど存在を主張しない自らの胸を叩いて見せた。
司令官のどこがどう変わったのか、魔女について知る由もないリチャードは納得のいかない顔をしているが、ユリスの行方を探す方法を他に思いつかないのも事実なのだろう。うーんと唸りながら腕を組んだ。
「おじさんなら、あたしたちを警備兵の中に潜り込ませることができるでしょ?」
「…た、確かに、私の立場を利用すれば可能ではある。だがツルギ、君が海上研究所に潜入するには、一つだけ問題があるんだ」
「問題?」
「その施設の警備兵は男しかいない」
スノウをはじめ、その場の全員があっけにとられた。
「男しかいない? どういうことだ?」
「施設環境の問題でな。海上研究所は非常に特殊な環境にある。施設自体が海上に浮かんでいるため、生活環境が限られているんだ。特に、女性用の設備が整っていない。シャワーやトイレなどの基本的な設備が男性用にしか設計されていないんだ。だから、女性の警備兵を配置することが難しいんだよ。もちろん、環境の改善は計画されているが、現状ではまだ実現していないのだ。だからツルギ、すまないが、君を警備兵の中に潜り込ませることはできないんだ」
リチャードは心底申し訳なさそうに司令官に詫びた。しかし当の司令官は少しも残念がる様子がない。
「なあんだ。だったらあたしも男になればいいんだね」
「え? 何を言っているのツルギ?」
少女のとなりでマルクスが表情を歪ませる。
「性別を変えるくらいどうってことないよ。周りにそう見えるようにするだけだから」
そう言うが早いか、司令官は自分の身体に手をかざし、低く呟いた。呪文のようなものなのか、合図なのか、スノウには判断できなかったが、まるで身体の中の誰かに語りかけているようだった。
次の瞬間、司令官の姿が変わった気がした。
いや、変わったのではない。まるで最初から司令官が男性だったような気がしてきたのだ。
スノウは大きく首を振った。そんなはずはない。司令官は男ではない。
あの幸福な時間、俺の腕の中にいたのは小さな少女だったはずだ。
スノウは自分の頬を叩いた。何かが頭の中を侵食している。それに負けまいと、何度も叩いた。
「ツルギ? いや、君はツルギか? ユリスの娘? ユリスに、娘はいたか…?」
リチャードがひどく混乱したようにぶつぶつと呟いた。
マルクスにいたっては今にも卒倒しそうだ。
「ありゃ。やっぱりスノウにはあんまり効かないな」
「あなたは一体、何をしたのですか……?」
少女に問いかけると、少女はにこりと笑った。
「前にも使ったことあるよ。見た目を変える術。正確には見た目を変えてるわけではなくて、見る人の思考をいじっているだけなんだけど」
「前にも?」
「あたしとヒメルの見た目を入れ替えた時」
そうだ。ジールがこの屋敷に押し掛けてきたとき。司令官とヒメルは姿を入れ替えた。
あれと同じことが、いま目の前で起こっているのか。
「でも今回はちょっとうまくいかなかったな。ヒメルとあたしを入れ替えるのはそんなに負担がないけど、性別を変えるのは結構精神に負担をかけるね。スノウ、大丈夫?」
司令官が心配そうにスノウの頬に手を伸ばした。
「ええ。だ、大丈夫です」
一時、スノウには少女が少年に見えた。頭の中をいじられるような気色の悪い感覚がする。
「術の効果を限定的にしてみるよ。別にスノウやおじさんたちにまで幻術を使う必要ないもんね」
少女はそう呟くと、また体内に合図を送った。すると不思議なことに、気色の悪い感覚が嘘のように消え失せ、それまでと変わらない司令官の姿がそこにあった。
「ツ、ツルギ? 何をした?」
「ごめんねリッチーおじさん。もう大丈夫。ちょっとまだ、コントロールがね…」
ぽりぽりと頬をかきながら司令官が苦笑いを浮かべた。
リチャードは混乱しているのか頭を押さえながら、困惑の表情でマルクスを見やった。マルクスも同じような状態だったが、何とか持ち直そうと深く呼吸をした。
「とにかく、性別のことは大丈夫。男のふりするから。おじさんはあたしたちを海上研究所まで送り込んでくれればいいよ。あとはあたしたちでなんとかできるから」
「しかし……」
少女の身を案じるあまり、少女の真っ直ぐな瞳を直視できないのか、迷うように視線を外すリチャード。そんな彼に対し、スノウが一歩前に出て口を開いた。
「リチャード、ユリスの行方を探すには現状それしか方法がない。あんたが警備兵としての身分を整えてくれれば、向こうでの調査もしやすいだろう。行って、ユリスがいるかいないか調べてくるだけだ。それ以上のことはしない。司令官のことは、俺が絶対に守ると約束する」
強い決意を込めてスノウは言った。隣で「きゃっ♡」という嬉しそうな少女の悲鳴が聞こえたが、今は気にしないでおく。
一方で、リチャードは迷うように唇をかんだ。彼の心の中で、葛藤が続いているのが見て取れる。
「彼の言うとおりだ。ユリスの捜索は彼らに任せよう。私たちは外側からジール総督を追い詰めるんだ。幸い不正の証拠はここにある。あとは私たちだけでもできるはずだ」
深呼吸をして冷静さを取り戻そうと努めていたマルクスが、思わぬ援軍を出してくれた。よろよろとリチャードの方に近付いてきて、肩に手を置き静かに語りかける。
リチャードはしばらくの間、黙って考え込んでいたが、やがて観念したように深いため息を吐いた。
「分かった。ただし、絶対に深追いはしないこと。いいなツルギ。君にもしものことがあれば、私はユリスに顔向けができない」
「うん。わかった。ありがとう、おじさん」
司令官が嬉しそうに柔らかい笑みを浮かべて言った。リチャードはその言葉に辛そうな表情を浮かべながらも、確実に相手を慈しむ感情を込めて微笑み返した。
(やれやれ、またしても潜入任務か……)
スノウは小さくため息をついたが、同時に諦めにも似た覚悟を決めていた。
決して潜入のプロではないものの、なんだかこの状況にも慣れてきてしまっている自分がいる。
そんなスノウの隣で、サンダースはまるで衝撃の事実がいま判明したかのような顔をした。
「おいおい、ちょっと待ってくれよ。警備兵が男しかいないってことは、俺も女装できないってことじゃん!」
場違いなサンダースの嘆き声に、今度は大きなため息をつくスノウだった。