第5話 敵か味方か
イルムガード共和国、首都メルテシティーの高級住宅街は、その日も変わらぬ静けさを保っていた。
スノウたちは、アルフ・アーウ国からサンクアラ属領を経由してイルムガードに入国した。出国した時とは逆の手順だ。
イルムガードに入国後、すぐにヒメルと別れた。彼女はもともと銀郎党とも、魔女とも関係のない一般の軍人。一刻も早く所属部隊であるガンデルク基地に帰った方が良い。
とはいえ、今まで生活を共にしてきた手前、あっさりと分かれてしまうのも名残惜しい気はしたのだが、ヒメル本人はあっさりどころか妙に清々しい表情をして、「ご武運を!」なんて言いながらガンデルク行きの電車に乗り込み去っていってしまった。せめて一言、『お世話になりました』くらい言ってもいいだろうに。仮にも上司と部下という関係だったにも関わらず、まったく薄情な女だ。
それはさておき。ヒメルと別れた後、スノウたちはユリスのもとへ向かった。司令官の無事を父親であるユリスに報告するためと、共和国軍司令長官ジール総督の動向を探るためだ。
ユリス・ハインロットの自宅を訪れるのはこれで二度目だ。落ち着いたブラウンの外壁も、前庭に広がった薔薇園も、以前のままの姿を留めていたことに、スノウは安堵の息をついた。しかし、庭の片隅に停まる見知らぬ車両に気付いた時、まるでそれが平穏を乱す異物のように思えた。
それは青いスポーツカーだった。以前来たときには無かった車だ。
「司令官、つかぬことをお伺いしますが、あの車はユリス氏のものですか?」
スノウが尋ねると、司令官は気付いていなかったのか目を丸くしてから、こちらの視線を追って不審な車を見やった。
「ユリス、あんなの乗らないよ。車の運転自体好きじゃないもん。誰かお客さんじゃない?」
(お客さん?)
ユリスに来客があること自体はおかしな話ではない。あいつは政治家だ。毎日のように支援者などから様々な陳情が集まるのだろう。だが、それにしては妙な違和感を感じる。
スノウは、その鏡面のように磨き上げられた車体を警戒しながら、ゆっくりと玄関へと歩を進めた。アプローチを進み玄関までたどり着くと、ドアノブに手をかける。
「またか..……」
スノウは思わず呟いた。
前回来た時と同じく、玄関ドアの鍵が開いている。
まったくユリスのやつ。不用心にもほどがある。総督府から目をつけられているという自覚が欠けているのではないか。
胸中で憤慨しつつ静かに屋敷の中に入ると、玄関ホールはしんと静まり返っていた。広い空間だからか余計に、人がいるような気配が感じられない。
「ユリス、帰ってるかな?」
司令官は辺りを見回してから言った。久しぶりに自宅に戻って来たことが嬉しいのか、少し気分が高揚しているような表情だ。
「あたし、キッチンのほう見てくる」
そう言うと、司令官はスノウの返事も待たずにキッチンへ行ってしまった。
二人に遅れて邸宅に足を踏み入れたサンダースは、中に入るなり玄関ホールの天井から吊り下げられたシャンデリアを見上げ、だらしなく口を半開きにした。
「ほえ~。さすが姫さん。いい家住んでるねぇ……」
サンダースがこの家に来るのは初めてのことだったが、事前に軽く説明はしていたので不審がる様子はない。だが、初めて訪れた場所だというのにその緊張感の無さは、仮にも殺し屋としていかがなものか。
スノウはサンダースをじろりと睨んでその態度を咎めようとした。しかし次の瞬間、微かな物音が耳に届いて身体を硬直させた。
(今の音は…?)
心臓が一瞬で早鐘を打ち始める。スノウは音の方向に意識を集中させた。聞こえた物音は離れた場所なのか、聞き逃してしまいそうなほど小さなものだったが、確かに人の話し声だった。
「あ? どした?」
サンダースがだらしない顔を向けてくる。
スノウは手を上げて静かにするように示し、耳を澄ませた。玄関ホールの静寂の中で、再び微かな声が聞こえる。
「誰かいる」
スノウは低い声で言った。
「誰かって、ユリス・ハインロットだろ? いて当たり前じゃん」
確かに、その可能性はある。ここはユリスの自宅だ。家主であるユリスの気配だと思うのが普通だろう。だが何故だ。この不穏な空気は……。
スノウは直感的に感じた危険を無視できなかった。サンダースに目配せをし、拳銃を取り出すように指示する。サンダースもその緊張感を感じ取ったのか、真剣な表情に変わり、拳銃を構えた。
「行くぞ」
スノウは囁くように言い、音の方向へと慎重に足を運んだ。司令官が向かったキッチンとは逆の方向、ユリスの書斎だ。
足音を立てないように廊下を進むと、書斎の扉の前に立った。書斎のドアはしっかりと閉まっておらず、隙間から話し声が漏れてくる。どうやら複数人いるようだ。
強盗か。それともジールの手の者か。もしかして、ユリスの姿が見えないことに関係しているのか。
スノウの緊張がさらに高まる。
中の人間が動いた気配がして、スノウは意を決した。相手より優位に立つためには、相手より先んじて行動を起こさなければならない。
スノウは銃を構えたまま、思い切り扉をけ破って叫んだ。
「──動くな!!」
踏み込んだ部屋の中に広がる光景に、一瞬息を呑む。
書斎は荒らされ、書類が床一面に散乱し、家具は無残に倒れていた。そしてなにより、見知らぬ男が二人、部屋の中央に立っていたのだ。
「両手を上げろ!!」
スノウは拳銃を目前で構えて叫んだ。トリガーに軽く指をかけたまま、敵に照準を合わせる。心臓の鼓動が耳元で鳴った。
──相手は二人だ。一瞬たりとも視線を外してはならない。
二人の男はどちらも共和国軍将校の軍服を着ていた。一人は海軍の軍服を着た男で、短く刈り込んだ黒髪と鋭い目つきが特徴的だ。その表情には経験豊富な軍人の風格が漂っている。もう一人は空軍の軍服を着ており、金髪に青い瞳が印象的だったが、今その目は剣呑に見開かれている。海軍の男に隠れる形で立っているが、その優雅な雰囲気は一目でわかるほどだった。
(やはりジールの手の者なのか──⁉)
額に冷や汗がにじんだ。
男たちはこちらの指示に抵抗することなく、両手をゆっくりと頭の上に挙げた。
銃を突きつけられても無駄に抵抗しないあたりは、流石は軍人と言える。だが、ジールの指揮のもとに動く情報部の特殊部隊という雰囲気ではない。それでも、彼らの目には一瞬の驚きと、その後に続く冷静さが見て取れた。
「お前たちは何者だ?」
そうスノウが尋ねると、海軍の軍服をまとった男が口を開いた。
「お前たちこそ何者だ!? 何をしに来た!?」
落ち着いていながらも、隠しようのない怒気を含んだ声。その迫力に、スノウは束の間圧倒された。
「リチャード──⁉」
空軍の軍服を着た男のほうは、海軍の男よりは動揺しているようで、焦ったように仲間の名を呼んだ。
どうやら海軍の男はリチャードと言うらしい。こんな状況で自分たちの名を簡単に明かしてしまうあたり、やはり訓練された工作員ではないだろう。彼らは一般的な共和国軍将校だとスノウは判断する。
完全に警戒を解いたわけではなかったが、おかげで緊迫感はいくらか薄まった。だがリチャードと呼ばれた男は、変わらずこちらを鋭い目で見つめ返している。
「ここは私の友人の邸宅だ!! 用がないなら出ていけ!!」
リチャードと呼ばれた男が叫んだ。その言葉に、スノウは眉をひそめる。
(友人? ユリスのことを言っているのか?)
スノウの脳裏にユリス・ハインロットの顔が浮かんだ。
あの不真面目で締まりの無い笑み。それでいてどこか腹黒い、おちょくった態度。相手を怒らせる天才のような男。
司令官の父親という立場でなければ、一切関わりたくない男だ。
「あいつに友人なんているのか……?」
スノウは思わず小声で呟いた。それは独り言と言える呟きだったが、それを聞いたサンダースが律儀に返答する。
「知らね。別に友達くらいいるんじゃねえの?」
その声には先程までの緊張感が感じられない。おまけに肩の力を抜き、ポケットに片手を突っ込んでいる。
スノウと同じく、サンダースも相手がさほど脅威ではないと分かったのだろう。脅威ではないのなら、自分とサンダースで十分対処できる。
(友達……?)
サンダースの言葉に、ガンデルク基地の副司令官、レオナルド・ハンターの存在を思い出した。
「そう言えばガンデルクにもいたな。面倒ごとしか持ってこない迷惑なおっさんが……」
過去の出来事を思い出して半眼になっていると、リチャードと呼ばれた男は急に表情を変え、スノウに尋ねた。
「ガンデルク? 君たちはもしかして、ガンデルク基地の兵士か……?」
スノウはどう返答すべきか一瞬迷った。この二人の男たちは、どうやらジールの手の者ではなさそうだ。だが、ユリスとどういう関係なのかはまだわからない。もし本当に友人だった場合、正直に自分たちが殺し屋だと名乗れば、今度こそ抵抗され、通報されるだろう。かと言って共軍の将校の軍服を着ている以上、軍人だと嘘をついてもすぐにばれてしまう。
(とりあえず司令官が来るまで曖昧に返事をしておくか……)
本当にユリスの友人であれば、司令官と顔見知りの可能性もある。彼女からこの二人に自分たちの存在を説明してもらえば、警戒されることはないだろう。
スノウはサンダースに目配せし、「余計なことはしゃべるなよ」という意志を伝えると、軍服の男たちに向かって言った。
「いや、俺たちは軍人じゃない」
その返答に、海軍の男は眉を寄せた。しかしスノウはそれ以上の説明はせずに、質問し返す。
「そういうあんたこそ、その軍服からして共軍の将校だろう。この家になんの用だ? ユリスはどこに行ったんだ?」
スノウがそう尋ねると、男の表情が一変した。目を見開き、驚きが走る。こちらがユリスの名前を出したことで更に困惑しているようだ。一瞬、言葉を失ったかのように口を開けたまま固まっていた。
その時、突然ドアが開き、司令官が前触れなく入室してきた。
「ねえ、ユリスどこにもいないんだけど~」
スノウとサンダースだけでなく、二人の男たちもそろって司令官に視線を移す。そして男たちは今度こそ硬直したように動きを止めた。
「あれ、リッチーおじさん?」
軍服の男に気付いた司令官が言った。
──やはり、司令官とこの男たちは顔見知りなのだ。
「司令官、この方たちはユリス氏のご友人ですか?」
スノウは警戒を解いて拳銃を懐にしまうと、戸口に立つ司令官を振り返った。
「あ、うん。リチャードおじさんと、マルクスおじさん。二人ともユリスの軍人時代の同期だよ」
どうやら友人と言うのは本当らしい。
しかし、この二人が信用できる人物かどうかはもう少し見極める必要があるだろう。ガンデルクで散々迷惑を掛けられた副司令官と言う前例がある以上、同期入隊者というだけでは安心できない。
「君は、ツルギ…? 帰っていたのか。いや、そんなことより、この男たちは、君の知り合いか?」
いまだ信じられないといった様子だったが、リチャードが司令官とスノウとを見比べながら尋ねた。それに対し、司令官は「ああ、紹介するね」とこちらを示しながら口を開いた。
「彼はあたしの元部下のスノウ。んで、こっちがスノウの仲間のサンダースだよ」
「元部下……? まさか、逃亡したという君の副官か? しかし、副官に成りすましたスパイだったのだろう? なぜ君と一緒にいるんだ?」
「ああ~、それは、えっと~……」
どこから話したものかと迷っているのか、司令官は視線を泳がせた。彼女がめったなことを言わないよう、ここはひとつ、副官としてフォローしておくべきだろう。
「申し遅れました。私はスノウ。ただそれ以上は明かせません」
スノウが淡々とした声音で言うと、リチャードの顔が険しくなった。
「どういうことだ?」
リチャードは声を低くし、鋭い目つきでスノウを睨みつけた。
「つまり我々は、そういう筋の人間です。確かに、当初はスパイ任務を負ってこの国にやってきました。しかし、それすらもジール総督の罠だったのです。それに気付いたユリス氏に、我々は雇われました。ツルギさんが国外に退避するための護衛役として──」
少しも淀むことなくスノウが語ると、リチャードはそうだったのか、と司令官を見やる。
「そ、そう! そうなの。いままでは、帝国のユリスの知り合いのところに匿ってもらってたの!」
「……確かに、ユリスは娘は帝国に行っていると話していた。ジール総督の手から逃れるためだったのか。しかし、なぜ今になって戻って来たんだ?」
リチャードの問いに、司令官は息巻いて答える。
「もちろん、ジール総督の企みを阻止するためだよ!」
その簡潔すぎる返答に、リチャードは一度はあっけにとられたように固まった。だがすぐに平静を取り戻し、少女を慈しむような笑みを浮かべた。
無駄なことは一切語らず、「そうか、わかった」と一言頷いた彼の様子を、スノウは見逃さなかった。
リチャードの落ち着いた態度と迅速な判断力、そして司令官に対する優しさに、スノウは彼の優秀さを感じ取った。
──このリチャードという男、ユリスの友人にしておくにはもったいないくらい有能な人物かもしれない……。
スノウは内心でそう思いながら、リチャードの動きを注意深く観察し続けた。
リチャードはスノウたち殺し屋に向き直ると、気迫がこもった先程までの表情をいくらか緩和させた顔で言った。
「すまない。君たちのことを誤解していたようだ。改めて自己紹介をしよう。私はリチャード・ブルアーノ。共和国軍の海軍部長をしている。ユリスとは入隊以来の腐れ縁だ。彼が退役した後も、何かと世話を焼かされている。こっちは…」
「空軍部長のマルクス・フィフィリーだ。いやあ良かった。君たちのようなその筋のプロに本気で銃を向けられて、生きた心地がしなかったよ」
リチャードに促され、隣の空軍の男も名乗った。リチャードにばかり注目していたが、もう一人のマルクスと言う男も、先ほどまでの慌てた様子は消え失せ、穏やかな雰囲気を醸し出している。空軍部長という肩書は伊達ではないのだろう。
「ごめんね、驚かせちゃって……」
「いやいい。君にしてみれば、自宅にいきなり家族以外の人間がいたんだ。無理もない。ましてや彼らは君の護衛。警戒して当然だ。とにかく、何事もなくて良かった……」
司令官やスノウの顔を見回してリチャードが言った。確かに、一時は一触即発の状況だった。誰も怪我ひとつ無かったのは幸運だったと言える。
「ねえ、ところでユリスはどこ?」
司令官の何気ない言葉に、リチャードは途端に真剣な表情に戻った。彼の顔から笑みが消え、眉間に深いしわが寄る。
「……いないんだ」
彼の声は低く、重々しい。司令官は驚きの表情を浮かべた。
「え? いないって?」
リチャードは一瞬目を閉じ、深く息を吸い込んだ後、再び目を開けた。その瞳には深い悲しみと焦りが宿っている。
「ユリスは、一週間前から行方不明だ──」