第4話 帰還計画3
料理長の私室は、ゆったりとした空間で落ち着いた雰囲気が漂っていた。窓から差し込む日の光が部屋を柔らかな金色に染め上げ、和やかな昼食風景が広がっていたのだ。
司令官の話が始まる前までは……。
「イルムガードに戻るッ⁉」
室内の雰囲気が一変した。司令官の予期せぬ発言に、空気が凍りつく。料理長は驚きのあまり、口にしていた食べ物を吹き出しそうになった。
「お前本気か⁉ 今戻ったら確実にジールのおっさんに捕まるぞ⁉」
料理長の声は、怒りと不信で震えていた。対する料理長の目前のテーブルに付いた司令官は、料理長の口から飛んでくる食べかすを手で防ぎながら、何でもないことのように答える。
「あたしね、ルディアと融合したことで、ジール総督があたし以外にもクローンを作っていることを知ったの。あたしは、あたしと同じ境遇のその子たちを助け出したい。そのために、イルムガードに戻るんだよ」
「戻ってどうするんだよ。また司令長官公邸に乗り込むつもりか?」
その問いに、司令官は首を横に振った。
「いや、たぶんあそこにはいない」
「いない? じゃあどこにいるんだよ?」
「それが、まだはっきりとはわからないんだよね」
「バカかお前は!?」
ついに料理長の怒りが爆発した。顔を真っ赤にして声を荒げながら、拳をテーブルに叩きつける。広い室内に怒号が響き渡った。
ヒメルは、料理長の突然の怒りに少し驚きつつも、司令官の言葉に耳を傾けた。司令官の言葉は、ヒメルにとって希望の光だった。
イルムガードに戻る? いつになったら帰れるのだろうと思っていた故郷に、ついに帰ることができるのだろうか。
「わからないけど、きっと見つかる。だいたい辺りはつけてるから。うまくいけば、ジール総督の企みも同時に阻止できるよ」
「ジール総督の企み? って、もう実行不能では?」
ヒメルは、疑問を口にした。その声には不安と好奇心が混ざり合っていた。
確か、前に司令官から聞いた話では、ジール総督は帝国と仕組まれた戦争を起こし、その混乱に紛れてイルムガード国内の権力を握ろうとしていた。でも密約していた魔女ルディアは司令官と一緒になっていなくなったし、ベラードっていう悪徳代官みたいなやつも失脚したという。もう十分阻止できてると思うのだが……。
「ジール総督の最終目的は、イルムガードの大統領になることだけじゃないと思うんだ。それだけだったら、あたし以外に魔女のクローンを作り続けている理由がたたない。何か別の、もっと大きな目的があるんじゃないかと思う。これはあたしのカンだけど、ジール総督のしようとしていることは、とっても良くないことだよ。私がイルムガードに戻るのは、その企みを阻止するためでもあるの」
ヒメルは司令官の話に内心震えた。でも、怖さからくる震えではなかった。何かが大きく変わろうとしている予感。それからくる、期待と不安。そういう時、人は震えを感じるのかもしれない。
──実際、ヒメルの手はわずかに震えていた。
自分も何か大きな役割を果たせるのではないかという期待で胸が高鳴っていた。しかし、同時に、未知の未来への一歩を踏み出す不安もあった。それは、冒険の前の緊張感のようなもので、不快ではなかった。
ヒメルとは裏腹に、料理長はまだ納得がいかないのか、眉をひそめた。
「でも、お前一人で何ができるっていうんだ?」
「一人じゃないよ。スノウも一緒なの」
「はあッ⁉ あいつと二人で行くのか⁉」
「うん。いいでしょ? 何か問題?」
「大ありだ!!」
「ええ、なんでよー?」
司令官は唇を尖らせて抗議している。怒りが収まらない料理長は立ち上がって続けた。
「だったらオレも行く。あの鉄仮面と二人でなんてオレは認めねえ!!」
料理長の怒りを見ても、司令官は臆することはない。むしろそう反対されるのは想定していたのか、用意していた答えのように淀みなく言った。
「ダメだよ。ジェイスはここに残って。この国でやってもらいたいことがあるんだから」
「やってもらいたいこと?」
「うん。ジール総督の企みを阻止するためには、ジェイスたち銀郎党の力が必要なの」
司令官は、自信に満ちた笑みを浮かべながら答えた。
「ツルギ殿、我々の力が必要とは一体どういうことですかな?」
サイファスさんが険しい顔をしている。いままで司令官が提案してきた作戦は、結構ぶっ飛んでるからだろう。
「詳しいことは後で説明するけど、まずお願いしたいのは、ジェイスの、ううん、王宮に戻ってきたイルーク王子の存在を、まだ公表しないでほしいの」
その場の全員の頭に、ぽんとクエスチョンマークが浮かんだのではないかとヒメルは思った。
ジール総督の企みと、イルーク王子の存在を秘密にすること。この二つが全く結びつかなかったのだ。
「それはなぜでございますか?」
サイファスさんが問いかけると、広々とした部屋に一瞬の静けさが訪れた。緊張した空気の中で、文机の上の時計の針が静かに動く。
ヒメルはその音に耳を傾けながら、同じ疑問を抱えていた。そして、ソファーに座る司令官は、まるでその質問を待っていたかのように、一筋の不敵な笑みを浮かべて言った。
「いいこと思いついたんだよね~、あたし」
司令官の言う『いいこと』に何となく嫌な予感を覚えたヒメルは、料理長の顔を見やった。思ったとおり、顔が引きつっている。
料理長は不満げにソファーにどかっと腰を下ろしながら、目前の司令官を睨みつけて言った。
「お前の言う『いいこと』ってのが本当に良かったためしねえからな」
あ、やっぱりそうなんだ。
不信感を込めて言い放った料理長の言葉には、過去の失敗が重くのしかかっているような響きがあった。しかし司令官はその反応にも動じず、自信満々に続ける。
「大丈夫。今回の計画は完璧だから。ジェイス、あなたがここにいることが、あたしたちの最大の切り札になるの」
サイファスさんは、その言葉を聞いてもなお懐疑的な表情を隠せなかった。眉をひそめ、口元を引き締めたまま司令官を見つめている。だが次第にその目には司令官の溢れ出る自信に対する感銘の色が浮かび始めた。
「王子、ツルギ殿はこたびの王位奪還にご尽力いただいた恩人です。お困りであれば、全力で支援したいというのが我ら銀郎党の願いでもあります。イルーク王子の公表を控えてほしいというのであれば、聞き届けましょうぞ。どちらにしろ、国民の混乱を招かぬよう慎重にことを進めていくつもりでございました」
料理長は、その言葉に短く頷き、ぶっきらぼうに返事をした。
「……まあ、好きにしろ」
「ありがとう存じます!」
サイファスさんは、感謝の言葉を口にすると同時に、深く頭を下げた。その動作は、彼の堅苦しい背広の縫い目がきしむほど丁寧で、部屋の中の他の誰もが一瞬、その敬意ある態度に目を向けた。
料理長って本当に王子なんだな、と改めて実感する。
サイファスさんは顔を上げると、今度は司令官に優雅に礼をしながら言った。
「しかし、ツルギ殿、われらがどのようにして計画に貢献できるのか、具体的な説明をお願いしたい」
「いいよ。ご飯食べ終わったら詳しく説明するよ」
ヒメルは、話についていけない自分を感じつつも、何か大きなことが動き出そうとしているのを感じた。自分には、まだ理解できないことが多い。しかし、一つだけはっきりしていた。それは、自分の運命が、これからの行動によって大きく変わるということだった。
「司令官、私はどうしたらいいですか?」
勇気を出してヒメルは声を上げた。一連の会話を聞いてはいたが、いまだ不安が拭えない。自分の立場がどうなるのかについて、触れられていないからだ。
司令官はこちらの方に優しい目を向け微笑んだ。だがそのあとに放った一言に、ヒメルは衝撃を受けた。
「ヒメル、あなたはガンデルクに帰って」
その言葉は、ヒメルには雷鳴のように響いた。背筋が強張り、心臓が一瞬止まったかのようだった。疑念と失望が一気に押し寄せてきて、返す言葉が出てこない。
(……え? なんで私だけ? 私は……、私には無関係ってことなの?)
「ど、どうしてですか? 私だって、司令官と一緒に戦いたいです! ここまで来たのに、なんで私だけが……?」
何とか絞り出したヒメルの声は途切れた。司令官と共に過ごした日々、共に戦った記憶、それらが今、遠ざかろうとしている。
──でも、ここまで司令官と一緒にやってきて、今さら何もせずにガンデルクに帰ることなんてできない。
それはヒメルの素直な気持ちだった。自分が部外者だという自覚は確かにあった。なんの力もないし、肩書きもない。
でもいままで司令官と一緒に過ごして、誰よりも近くで見てきた。ちょっとだけど、戦いにだって参加した。私には、この結末を最後まで見る権利があるはずだ。いや、近くで見ないことには、自分はずっと後悔してしまうのではないか。そんな思いが頭の中を駆け巡った。
視線を彷徨わせるヒメルに、司令官はにっこりと天使のような微笑みを向けた。
「ガンデルクに帰ってほしいのは、そこで、あなたにしかできない特別な任務があるからだよ」
「へ?」
ヒメルは思わず顔を上げ、目をぱちくりさせた。
「ガンデルクで、ですか?」
「そう。ガンデルク基地所属のあなたにしかできない、特別な任務。言っておくけど、これは特に重要な任務だよ」
司令官の言葉は、ヒメルの心に重く響いた。
「重要な、任務……」
それがどれほど大きな意味を持つのか、ひしひしと伝わってくる。
「私なんかに、できるでしょうか……?」
ヒメルの声は小さい。しかし確かな期待を含んでいた。
「大丈夫! あたしは信じてるよ。ヒメルなら絶対にできるって!」
司令官の顔は晴れやかだった。
それを見た瞬間、心の中に小さな火がともった。
「あたしたちと、ジェイス、それからヒメル。みんなが一丸となって初めて、この作戦は成功するんだよ!」
ヒメルの目には、新たな決意が宿り始めていた。自分の中にある小さな火が、大きな炎へと変わり始めている。同時に再び手が震えてくる感覚がする。
それは恐怖や不安から来るものではない。これから託される重要な役割への興奮から来ていた。
ああ、これは武者震いだ……。
ぎゅっと握った拳を見ながら、ヒメルは思った。