第25話 箱舟2
ジールはユリスと「箱舟」に、スノウはジールの銃口に、それぞれ全神経を注ぎ込んでいた。だがその裏で、小さな人影は確実に動いていた。
ただ、そのことに気付いたのは、その刃が肉を裂く直前──。
「ガッ……ア、グッ──!?」
ジールの喉から、空気の漏れるような、おぞましい呻きが漏れた。身体をくの字に折ってよろめく。
スノウが反射的に視線を投げると、そこに立っていたのは、人形のはずのクローン少女──フィンフだった。
少女の手には、根元まで赤黒く染まったナイフが握られている。
「何をする……フィンフ……ッ」
口から血を溢れさせ、くぐもった声を吐き出すジール。
スノウは息を呑んだ。ジールを刺したクローン少女の顔には、もはや無機質な虚無など微塵もなかった。眉は吊り上がり、幼い鼻筋には深い皺が刻まれている。その小さな顔に収まりきらないほどの、どろりとした濃厚な憎悪。
「……許さない、ジール! あなたは私のユリスに、一生消えることのない傷を植え付けた!」
聞いたことのある話し方ではあったが、頭の中で映像が上手く結びつかない。
(──誰だ? さっきまでとは様子が違う……)
燃え盛るような琥珀色の瞳。
その瞳孔の奥で、ゆらゆらと揺れる不気味な光。ろうそくの、灯りのような……──
「私はずっと、この時を待っていた。この男と、ツルギと、クローンが近づく、この瞬間を──! 肉体を失ってなお、ずっと──!」
絶叫に近いクローン少女の言葉に、スノウの脳内に戦慄が走った。
確信が、冷たい汗となって背中を伝う。
ユリヤだ‼
肉体を持たないユリヤが、クローン少女の身体を動かしているんだ──!!
「クッ──‼ 小娘‼」
ジールが血反吐を吐きながらも、反射的に拳銃を少女へ向けた。その一瞬の隙を察知したスノウは、放たれた弾丸のように踏み込み、ジールの手首を叩き落とした。
間髪入れず、地面に落ちたそれをつま先で蹴り飛ばし、ホール深くまで運ぶ。
「貴様ぁ──‼」
ジールは憎悪に顔を歪ませ、銃を追おうと身をよじった。だが、息をつく暇もない。唸り声を上げたユリヤが、追い打ちをかけるようにナイフを構えて突進してきた。
「ジール、ここで終わりよ‼」
「ユリヤ、よせ!」
スノウは二人の間に割り込むと、獣のように突進してくるユリヤの細い腕を、強引に掴んで制止させた。ユリヤはすぐさま抵抗する。
「離して‼」
少女の体躯からは想像もできない膂力。骨が軋むほどの力で暴れるユリヤを、スノウは渾身の力で抑え込む。
やがて、自分の力では振りほどけないと悟ったのか。ユリヤはふっと身体の緊張を解き、力なくうなだれた。
「あなたは前に、言ったわよね。私には、本当の目的があるんじゃないかって……」
ユリヤはうつむいていた顔を上げ、射抜くようにこちらを見る。
「あなたの言ったとおりよ。私はこの男を殺したかった。ユリスの心に、一生消えない傷を刻んだ罪を……その死をもって償わせたかった。私が未練がましくこの世に留まっていた理由は、それだけよ」
床に這いつくばり、己の血で滑る砂を掻いているジールを、ユリヤが凍てつくような目で見下ろす。
──そうか。ユリヤは、この時を待っていたのだ。司令官の影に隠れながら、ずっと……。
自ら反目したはずのセシリアに就き従っていたのも、身体を失ってなお司令官のそばを離れなかったのも、すべてこの時のため──。
ジールに刃を立てる、この瞬間のためだったのだ──。
「ユリヤ、ジールを殺したところで何になるんだ。復讐したところで、あんただってとっくに死んでいるんだぞ?」
「ええ、分かっているわ。私はとうの昔に終わった人間。未来なんて、どこにもない……」
スノウの言葉を遮るように、ユリヤが吐き捨てる。その瞳の奥には激しい炎が宿っていて、その炎が、まるで細い身体に最後の力をみなぎらせているかのように、強い言葉があふれた。
「──でも、私はどうしても許せなかった! ユリスを道具として利用するジールが。この男は、きっとこれから先もずっと、ユリスを利用する。だったら、未来がないからこそ、私がこの男を地獄に道ずれにしてやる!」
地獄──。
スノウは、その言葉に凍りついた。
ユリヤは、本当に自分の命の残滓を、復讐のためだけに使い切ろうとしている。その決意は、あまりにも凄絶で、同時に、あまりにも美しいのだろう。
それほどの覚悟を止めることも、否定することも、きっと自分にはできない。だが──、
「ユリヤ、よく聞け」
スノウはあえて冷徹な声を出し、彼女の肩を強く掴んだ。
「その身体は、お前のものじゃない。お前と同じ遺伝子を持っているだけの、まったくの別人だ。何も知らないその子を、復讐のためだけに殺人者にするつもりか?」
スノウのその言葉を境に、ユリヤは動きを止めた。
「ユリスと同じだ。クローンだって道具じゃない! 犠牲にしていいわけじゃない‼」
ユリヤの顔から、さっきまでの激しい色が急速に失せていく。
彼女は愕然とした表情で、血に濡れた自分の手を、まるで汚らわしいものを見るかのように見つめた。
「犠牲……? わ、私は、この子を……」
愛するユリスを「道具」として扱うジール。ユリヤは身体を失ってさえも、これほどまでに憎んできた。なのに、今、自分も同じことをしている。復讐という大義名分のために、何も知らない少女を「器」として使い、その未来を、ジールと同じように踏みにじろうとしている。
ユリヤはその事実に、愕然としているのだ。
「じゃあ、私はどうしたらいいの──⁉」
彼女の叫びは、もはや怒りではなく、行き場を失った悲鳴だった。
復讐を捨てれば、自身の存在意義が消える。だが復讐を遂げれば、憎んでいるはずのジールと同じ「怪物」に成り下がってしまう。
「ユリヤ、お願い。あたしの話を聞いて──!」
不意に司令官が声を上げた。彼女はスノウの隣に歩み寄り、ユリヤの瞳を真っ直ぐに見つめる。
「総督を殺すことだけが復讐じゃない。この箱舟を破壊して、総督の計画を完全に潰せば、きっとユリスを救える。あなたが背負う必要はないの!」
琥珀の瞳をすっと細め、悲し気な笑みを作る。
「ずっと……見守っててくれたんでしょ? あたしたちのそばで、ずっと。もう、いいんだよ。あなたはもう、解放されていいんだよ、ユリヤ!」
ユリヤは縋るような、それでいて震えるような瞳で司令官を見つめ返した。瞳の奥で復讐の炎が小さく揺れ、消えかかっていく。
「信じて……いいの……? それで本当に……ユリスは自由になれるの……?」
一滴の涙が、ユリヤの頬を伝い、砂地に落ちた。
それは、長年、憎しみだけで形を保っていた彼女の魂が、やっと本来の姿に戻った瞬間だったのかもしれない。クローン少女の身体を借りた彼女が、本当に純真無垢な女性に見えた。
「うん、任せて。ユリスは絶対に助ける! だから、なんにも心配いらないよ」
司令官が迷いのない瞳で、力強くうなずく。その顔を見て、ユリヤはやっと糸が切れたように微笑んだ。悲しげに、だが、重い荷物をようやく下ろした者だけが見せる、あまりに静かな微笑みだった。
クローン少女の細い指が、震えながら司令官の頬に伸びる。だが、その指先が肌に触れる直前、少女の身体からきらきらとした光の粒が、霧のように立ち上がった。
『──ありがとう、ツルギ』
届かなかった指先の光が空中に溶け、少女は膝を突いたまま動かなくなった。
『──ありがとう、私の可愛い妹』
そんな幻聴が聞こえた気がした。
司令官は、膝を突いたまま動かない少女の頬にそっと手を伸ばした。涙の跡を拭うようなその仕草を、スノウは黙って見届ける。それがユリヤという魂が、この世界に残した最後の残響のように思えたからだ。
彼女は、自分自身に掛けた復讐という名の呪縛から、ようやく解き放たれたのだと、スノウは思った。
ホールに、つかの間の、重く静かな沈黙が降りる……。
だがその静寂を、血混じりの絶叫が切り裂いた。
「……ッ、がはッ! 私が、こんな、ところで、死ぬわけがない‼」
ジールだ。
奴は地面を這い、自らの血で赤黒い航跡を描きながら、なお「箱舟」へ手を伸ばす。砂を掻く指先は震え、呼吸のたびに喉の奥でひゅうひゅうと不気味な笛の音が鳴る。その姿は、まさに醜悪な執念の塊だった。血の付いた指先が箱舟の壁面に触れるたび、幾何学模様が命を啜るように禍々しく脈動した。
「やめろ、ジール。それ以上動くな。死を早めるだけだ」
スノウは冷ややかに制した。致命傷を負いながらも「力」を求めてのたうち回る男への、それが最低限の慈悲だった。
「黙れぇッ! 貴様ごときが、私に指図するなッ! 支配者は、私だ……ッ!」
ジールは血を吐きながら激昂し、扉へ手を伸ばそうとした。しかし、その腕は自分の意思に反して大きく震え、地面を支えることすらままならず、無様に崩れ落ちる。
その時、ホールの奥にある鉄扉が、激しい音を立てて跳ね上がった。
なだれ込んできたのは、タロン。そして、その後を追うサンダースだった。
「スノウ! 姫さん!」
サンダースがほっとした表情で声を上げる。
だが先頭を走っていたタロンは、数歩進んだところで、自身の目が捉えた光景に凍りついた。
「ジール……総督……?」
信じがたいものを見たというように、タロンの声が震える。その驚愕は一瞬で、煮えくり返るような殺意へと変わった。彼は血走った眼でスノウを射抜くと、電光石火の速さで銃を抜き放った。
「貴様ら──! 総督に何をしたッ!」
タロンの銃口は、迷いなくスノウの眉間に固定されている。だが、その照準は怒りと焦燥で僅かに震えていた。
「待って、タロン! 落ち着いて!」
司令官がスノウの前に飛び出して両手を広げた。少女の必死の形相と、その背後で血の海に沈む主君の姿。タロンの引き金にかかった指が、わずかに震える。
「答えろツルギ! この男が総督を刺したんだな──⁉」
「違う! 総督を刺したのはスノウじゃない! これは──」
「そんなことどうでもいい!」
スノウは司令官の肩を優しく押し下げ、一歩前へ出た。銃口を向けるタロンを正面から冷徹に見据え、顎で地べたのジールを指し示す。
「誰がやったかなんてどうでもいい! 敵討ちなら後でいくらでも付き合ってやる。だが、今お前がやるべきことはそんなことじゃない──見ろ!」
ジールの背中から溢れる血が、砂地を真っ黒に染めていく。タロンの頬が、焦燥で無様に引きつった。
「このままではジールは確実に死ぬ。ここで俺とやり合って、最期を看取るか、それとも、今すぐ運び出して手当てをするか。……お前は『判断』を誤らないはずだ。そうだろ、スモーク!」
タロンの顔が、屈辱と激昂に歪んだ。相手を殺したい衝動と、主を救わねばならない使命の間で、揺れているのだろう。
「──クソッ!!」
タロンは血が出るほど唇を噛み、やがて呪詛を吐き捨てながら銃を下ろした。
「……ああ、そうだな。今はお前とやり合っている場合ではない」
「そうだ、それでいい」
タロンは崩れ落ちたジールを慎重に担ぎ上げると、スノウを一瞥もせずに出口へと走り出した。
その背中を見送ってから、スノウは隣に立つサンダースに視線を向けた。
「サンダース。頼みがある」
「え、あ、お、俺?」
完全に油断していたのか、上ずった声を上げるサンダース。冷や汗を拭いながら、わざとらしく肩をすくめた。
「お前は、ユリスとこの子を連れて今すぐここを脱出してくれ」
「はあ?!」
サンダースは床に横たわるユリスと、抜け殻のようになったフィンフの顔を交互に見比べると、緑の目玉をひん剥いて、キョロキョロと忙しなく泳がせた。
「なんで俺だけ? お前はどうすんだよ!」
「俺と司令官は、まだやることが残っている」
スノウは司令官の方を見た。少女も小さく頷いている。
「はあ? やること? ……って、おい、まさか、このデカいのが関係してるんじゃねえだろうな? これってあれだろ? 『箱舟』ってやつだろ?」
「ああ、そうだ。俺は今からこれを破壊する」
「おい、正気かッ⁉ それに、破壊するったって、どうやって?」
何も持っていない自身の両手を広げながら、サンダースが問う。
「それはこれから考える」
「はああああ⁈」
サンダースの裏返った声がホールに響いた。
「……だが、破壊すればこの地下空間がどうなるか分からん。お前はユリスとこの子を連れて地上に戻れ。戻ったら、できるだけ多くの人間を陸地に避難させるんだ」
「避難って──」
「警備隊長に協力を仰げ。今の状況は、リチャードからも話がいっているはずだ」
「そうじゃなくてーー‼」
サンダースは頭を掻きむしり、地団駄を踏んだ。だが、スノウの視線に一切の揺らぎがないのを見て、最後にはがっくりと項垂れた。
「ああもう‼ ……たく、お前ってヤツは昔から変わんねえな。いつも一番キツい貧乏クジを、自分から拾いに行きやがって‼ 分かったよ、やりゃあいいんだろ、やりゃあ!」
毒づきながらも、サンダースは手際よくユリスを車椅子に戻し、傍らに立つフィンフの腕を掴んだ。彼女は未だ茫然自失としていたが、手を引けば従順に付いてくる。
準備を終えたサンダースは、もう一度こちらに向き直り、スノウの鼻先に人差し指を突き出した。
「いいか、スノウ。俺はソールちゃんと約束したんだ。お前を絶対に連れて帰るって。こんなところで死にやがったら、俺がソールちゃんに嫌われちまう。だから……絶対に、ぜーったいに戻って来いよ!」
やけ気味に吐き捨てて、サンダースは指を引っ込めた。車椅子のグリップを握りしめるその手に、強い力がこもる。
そのまま猛然と出口へ駆け出したが、扉の向こうに消える直前、ひょいと首だけを振り返った。
「姫さんも、そのバカが暴走しそうになったら、ひっぱたいてでも止めてくれよな! 俺の代わりに!」
そう言って片手を振り、今度こそ本当に扉の向こうに消える。
スノウは、その最後まで締まらない相棒の背中に、思わず舌打ちを漏らした。
あいつ、余計なこと言いやがって。
だいたい、誰がいつ暴走したって?
「あはは! ひっぱたいてだって! サンダースって面白い人だね」
司令官が声を上げて笑う。その声に、スノウは深々と溜息を吐いたが、内心では、全身を支配していた緊張の糸がほんの少しだけ緩むのを感じていた──。
(……さて)
スノウは静かに視線を正面へと戻した。
広大なホールに、司令官と自分の二人だけが残されている。
二人の目の前に鎮座するのは、光を吸い込むブラックホールのように、すべてを拒絶する、巨大な箱舟──。
(どうやって、このバケモノを仕留めるかな)
スノウは皮肉めいた笑みを浮かべ、冷え切った銃を握り直した。




